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迷宮外邂逅





(痛くて苦しくて辛くて暗くて冷たくて寒くて怖くて恐い場所からわたしは逃げて逃げて走って逃げて走って走ってひたすら走って逃げて振り返らずに息が切れても走って走って走らないと思い出してしまうからあの恐さ冷たさ痛みも全部忘れたくて走ったとにかくわたしは走った当てなんてないけど本能のままにただ走った疲れても喉が痛くても足が縺れても転んでも前だけ見て走ったあの場所から離れるためだけに走った)







 まだ齢が十にも満たないであろう少女は雪のように白い髪を振り乱して走る。ただただ“あの場所”から遠ざかるために、走って、走って、どれだけ走ったかも分からなくなり忘れてしまった頃、やっと辿り着いたその場所は、大きく広そうな建物の前。息を切らせながら見上げた門には、『軍学校』と書かれているのが分かった。
 彼女はどうして自分がそこにいるのか分からない。ここが目指した目的地なのかも分からない。分かることと言えば、自分が日本出身、北海道犬の耳と尾を持つ純粋なハーフであるということ。そして、記憶の中に自分の名が存在していないということ。更に言えば、ここにたどり着くまでの記憶も、靄がかかったように思い出すことが出来ない。なのに、この軍学校は、自分のようなハーフが集まって兵士に必要なことを学び、やがてBACKという組織へ所属するためにある場所だということは記憶に残っていた。どこで手に入れた知識かは、思い出せなかったが。

 もしかしてこの軍学校なら、自分を保護してくれるかもしれないと彼女は考える。だがはたと気付く、名前もなければ素性も定かでない自分が怪しまれもせず、この厳かな雰囲気漂う軍学校に足を踏み入れることができるのだろうか、と。答えは、どちらかといえば否寄りだ。まだ幼い頭でも理解できることだった。


 どうしようかと迷いながら校門の前で佇んでいると、学校の方から二つの人影が現れる。少女はそれに気付かず俯いたままでいて、人影の一方が先に相手の存在を気付いて目を見開く。

「お、珍しいな。何、そんなちっさいうちから軍に入りたいの?」

 驚きながらも笑みを浮かべながら少女に声をかけた少年は、「えらいねー」と素直に関心を露わにする。その斜め後ろに立つ、彼よりも少し年下であろう少年は相対的な無表情で、びくりと肩を揺らした少女を眺めじっと観察した。
 じり、と少女が後ずさる。耳も尾も上を向き、長い前髪の下の双眸だけは目前の少年を見据える。迫力はなくとも鋭い視線に気付かない少年は、あくまで友好的に言葉を続けた。

「見たとこハーフみたいだし、お兄さんが案内して、」
「スーニャ先輩」

 そこで、ずっと黙っていた方の少年が、先輩であるらしい彼の台詞を遮った。疑問符を浮かべながら振り返る『スーニャ』と呼んだ少年に対し、何の躊躇いもなく言い放つ。


「その子、怖がってますよ」


「見るからに警戒してますし」と、彼の言うとおり少女は明らかに二人を怖れた上で警戒していた。喉の奥から低い唸り声が鳴る。そのことに気付けなかった少年は、気を取り直して少女の前で腰を落とし屈んだ。真正面から伸べられる、彼女のものよりもずっと大きな掌。

「ま、まぁ見てろ忠誠…」

 眼前に迫る手。大きな手。それが少女の白い顔に影を落とす。頭の中のどこかが何かが警笛を鳴らし、小柄な体は反射的に機敏な動作を始めていた。
 少年の腕を掴み渾身の力でその左手に噛みつけば、相手の息が詰まる気配。ぎりりと力を強めると口の中に鉄の味が広がる。嫌な味だな、と感じたが、彼女は決して離そうとはしなかった。怖れ故に、相手に対する攻撃性は強まっていく。

「先輩っ」
「はっは、子犬の甘噛みくらいどーってことねぇよ」

 先刻忠誠と呼ばれた少年が、無表情を崩し精悍な顔に焦りを滲ませる。先輩である少年の手からは、血が滴ったから。しかし彼はというと、やはりというべきか笑顔を絶やさず、ある意味冷静なまま受け答えをしてみせた。

「ほら、いい子だから放せ、な?…えーと……」

 現在進行形で自分に噛みついている少女の頭を撫でながら、彼は言葉に詰まる。彼女に呼びかける言葉が見つからなかった。つまり、名前が分からない。そこで、少年は素直に尋ねることにした。「名前は?」
 その問いの意味を理解した少女は、段々と噛みつく力が弱くなっていく。やがて口を離し、少年から顔を背けると、


   ぐすっ


「ええっ!?」
「……泣かせた…」
「えぇぇー!!」


 名を聞かれたことは嬉しい。だけど答えられないことが悲しい。嬉しくて泣いたのか、悲しくて泣いたのか、それとも両方なのか。彼女自身にも判断はつかず、しかし涙は自然と溢れていく。






***





「―――つまりお前は、軍学校に入りたい…が、名前が無くて困ってる、と」


 途切れ途切れにだが、少女は噛みついてしまった詫びも兼ねて自分の事を分かる範囲で説明した。話を聞いて把握した少年は、暫く黙りこみ何かを考えているようだった。忠誠はどこからか持ってきた救急箱で傷ついた彼の手を治療している。二人の話に、忠誠が口を挟む事は終ぞなかった。元が無口なのかもしれない。

 無言の静寂に堪えかねて少女がそわそわし始める。そんな様子を見た少年は小さく笑って、開口一番こう、言うのだ。




  じゃあ、

     オレが名前つけてやるよ




 突然の申し出に、少女は当然驚きを隠せずぽかんと呆けた表情をしてみせる。だが彼の中ではもう決まってしまっているようで、手当の終わった左手を軽く振って調子を確かめながら、再び考え始めた。



「あー苗字は――…お前出身どこ?………日本の…ホッカイドー?」
「北の雪深い土地です」
「雪か、オレの地元と同じだな。じゃあ苗字は“雪野”!」
「名前は?」
「そうだなぁ…こいつ真っ白で何か寒そうだし……んー、“なつ”、っていうのはどうだ?」


 あったかそうだろ、と得意げに話す少年の中で、なつ、というのは単純に夏という季節が由来しているようだった。
 “雪野なつ”。忠誠の絶妙なフォローを受けながら少年が考えた名前。彼女が得た名前。元々名がなかったにしろ、後付けされたことだけは確かなはずなのに、どうしてかその名は、少女の中でも自分にすっぽりと収まった。こみ上げてくるのは、涙よりも先に、喜びや嬉しさ。風が吹いて彼女の白い髪を靡かせる。


「ありがとう」


 そう告げた彼女の、なつの表情は、夏の太陽のように晴れやかな笑顔だった。
「大きくなれよ」と冗談交じりに別れを告げた少年も、終始無表情だった忠誠も、それぞれ笑っていたに違いない。














 それから、数年後。







「本日付で海軍へ入隊致しました、雪野なつです。至らぬ点も多々ございますが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」


 事務的な口調ですらすらと定型文を述べて行くなつ。敬礼し長い前髪の下の目が見つめるのは、彼女がこれから所属することになる結合部隊の、海軍を束ねる男。
 最後の文節を口にする前に、なつは一呼吸置いた。相手も切れ長の瞳で真っ直ぐにこちらを見ていた。もう、覚悟は決まっているのだ。感情の揺れをまるで感じさせない平坦な声で、なつはやっとその名を呼んだ。


「―――スディバー大将」


 あの時の少年、スーニャことレフ・スディバー大将は、にやりと口の端を釣り上げて笑う。少年の頃と比べれば幾分か獰猛なそれだったが、なつは心なしか安心感を覚えていた。約十年ぶりだろうか、互いに少なからず成長しているはずなのに、どうしてか根底だけは変わっていないような気がした。



「ああ。…大きくなったじゃねぇか、なつ」






(ほら、やっぱり変わっていない)

fin.
10.0818.
たかまご様宅レフ・スディバーさん、蒼真様宅甲弩忠誠さんお借りしました。大将はイケメンすぎて全俺がはげると思います。大将は中佐の名づけの親です。で、中佐は大将のためなら何だってできる仕事馬鹿。ああ本当にありがたすぎて涙でそう。了承してくださってありがとうございました!
title by 虫喰い


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