colorless | ナノ


声を忘れた





「……ックソ」

 荒い吐息と共に、白髪の青年は短く悪態を漏らした。額にかかる前髪を鬱陶しげに掻き上げ、息を整えるために深く吸い、そして吐き出す。
 たくさんの学科があるこの大学は広い。その広大な校舎の隅から隅までを走り回った彼は、当然の如く疲弊する事となる。何せあまり動き回るイメージのない、あの雪代白だ。いつだって穏やかな笑みを湛えその物腰を崩さない彼が、ここまで汗に塗れて息を荒げているだなんて。白と同じ心理学部の生徒がその姿を見たなら、それが本物の白であるかどうかをまず疑ってしまうだろう。
 だが幸いにしてこの場所は、心理学部のある校舎から離れた理系の校舎。まだ接した事のない、顔に覚えのない人々が行き交っていた。


 目的が果たせないのなら、これ以上大学を彷徨う理由は無いし、今日取っていた授業も終了した。明日提出の課題も提示された当日に終わった。これ以上ここにいる理由は見つからない。もういい加減諦めて、あの日の事も忘れてしまえば楽になるのかもしれない。しかし、まだそう遠くない日の出来事を忘れることなんて、白にとっては無理も同然だ。

 ふと顔を上げると、とある教室の扉が開いている事に気付く。ただそれだけだった。別に立ち入ろうとも思わないし、気にすることもない、ただの大学の一室。恐らく教員室か何かだろう。
 白はもう暫く休んでから帰路につこうと考え、壁に背を預けて腰を下ろした。膝を立てて顔を伏せ、目を閉じる。あの日感じた風は嘘だった。ただの人違いの思い込みだった。そうでもなければこの広い世界でただ一人の人間と巡り合う事なんて万に一つの可能性もない。彼は今どこで何をしているのか、生死も不明。長い事連絡もなかったし、もしかしたらこの先一生会う事もないかもしれない。
 それでもこうしてあの後ろ姿を探してしまったのは、やはり白自身、その半身を忘れることが出来ないから。出来る事なら忘れたい。それが出来ないのなら会いたい。相反するふたつの気持ちがぶつかり、白は瞑目したまま顔を歪めた。


「おーい、そこのあんた。生きてる?」


 頭上から降ってくる声。気配は全く感じなかった。答えずにいると目前の誰かは膝を折って同じ目線になったらしい。すぐ傍から煙草の臭いがした。そして白はじわじわと気付いていく。その声が、自分自身と同じ声色だったことに。直前まで伏せられていた目は最大限に大きく見開かれた。

 彼は気付いてしまったのだ。その姿を直接目にしなくても、顔を見なくても、相手が誰であるかなんて。傍に気配があるのならすぐに分かる。何故なら相手は双子、長い時間を共に過ごし共に笑い共に怒り共に泣き共に喜びそれから、それから。とにもかくにも白の中に残る思い出の半数以上が、片割れとの出来事でいっぱいだった。


「……残念ながら、生きてます」
「おう、知ってたぜ。この前廊下で見かけて安心したぞ、雪代白クン」
「ええ…知ってますよ、雪代黒助教授サン」
「………暫く会わない内に随分嫌味ったらしくなったなお前」
「貴方こそいつの間にか煙草臭くなりましたね、消臭剤如何ですか」
「うっせー年齢詐称野郎」
「黙りなさい行方不明駄目兄」


 他愛ない憎まれ口の応酬もいつぶりだったか。少なくとも記憶の色が褪せてしまう程度には昔のことだ。
 ここでやっと白は顔を上げ、黒の顔を真正面から見る。違うのは髪の色と長さ、口調。それから黒の腕や顔は日に焼けて黒く、白は魚の腹のように生白く、体にある傷の跡がよく目立ってしまっていた。だけどそれ以外に何ら違いなど見つからず、二人は苦笑いに近い笑みを全く同じタイミングで浮かべた。

「あー…久し振りだな。恥ずかしながら帰還シマシタ」
「お元気そうで何よりです。危うく貴方の声を忘れてしまうところでした」
「そりゃひでぇな」
「お互い様でしょう」

 世間話のような調子で、生き別れていた双子は再会を果たす。変わっているようで変わっていない互いを確かめるために、それから暫く口喧嘩のようなじゃれあいのようなやり取りは続くのだけど。
 先刻見た開いていた扉から軍服姿の女性が現れて、黒と白の頭に一発ずつ拳骨を落とし「部屋の前で煩くするな」と雷を落とされたのはまた別の話だ。



fin.
10.0712.
双子の再会。最後で蒼真様宅飛鳥先生お借りしました。白はぶっちゃけ巻き添えですけどnryこんな感じで二人は再会するんじゃなかろうか。どっちかっていうと黒は先に気付いてて白も何か感じてるんだけど姿が見えないから半信半疑なあれかな。

title by にやり