colorless | ナノ


退路は無い






 手を動かせば、じゃらりと金属質な冷たい音が鳴った。足についている鎖は壁に繋がっていて、動ける範囲は狭くはないが広くも無い。だが碧は、わざわざその範囲を動き回ろうとは思わなかった。今は静かな時間。一人で過ごす、睡眠が許される時間。誰も接してこない、何の切欠もない、空気も動かない、静寂で静謐の時間。時折患者達同士が部屋越しに話をする声が聞こえるが、気にしなければそれで済む話だった。


 ただ、眠りについたからと言って碧に安寧が訪れるわけではない。彼は人並みかそれ以上に悪夢を見る。そしてその悪夢には、必ずと言っていいほど出てくる人物がいた。それは決して碧をこの牢屋に送る事を決意した両親でも、周囲を取り巻く異常な囚人や患者達でもない。

 碧自身といってもいい、別の人格。碧―へき―だ。

 碧はへきを忌み嫌っている。自分がおかしくなったのは全て彼女の所為だと思っている。だから彼は自分を傷つけなければならない。そうして彼女を追い出さなければならない。彼女は痛みを訴えるが碧は痛みを感じないのだ。




 だから今日も碧は真っ白な夢の空間で自分を傷つける。牢屋には持ち込めない、夢の中にだけ現れるナイフを手にとって。そこでなら何をしても死なない。誰も止めない。好きなだけ傷つけて、血を流す事が出来る。現実と同様に痛みは全く感じない。
ざくざくざく。ぐさぐさぐざ。ぼたぼたぼた。びちゃびちゃびちゃ。

「碧、止めなさいよ」

 碧が自身の内臓を引きずり出した所で、声がかかる。内臓を握り血でぐちゃぐちゃになった手を、誰かが掴む。夢の中での行為を止める人物なんて一人しかいない。へきだ。彼女は碧と同じ位置に同じ傷があって、血液や内臓を零していた。その顔は痛みによって歪み、額には脂汗をかいている。
 碧は常に半開きの双眸を細くして、認め難い自分の半身を睨みつけた。

「邪魔をしないで。早く消えろ」
「嫌よ、痛いもの」
「知ってる。だから早く僕から出ていけ」
「それは出来ないわ」
「出て行かないと僕は止めないよ」
「痛いのは嫌だけど出来ない。だって私は貴方の、」
「煩い!早く僕の中からいなくなれぇぇぇええ!!」

 ざくり

 絶叫と同時に、碧は勢いよく胸にナイフを突き立てた。痛みは感じないといえど、当然血は吹き出す。へきも同じ場所から同じ分だけ血を噴き出した。「うぁあ」と苦しげな呻き声が漏れる。それに気を良くして、彼は引き抜いたナイフをもう一度突き刺す。何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
 口から血が溢れ出すが、碧は気にしない。やがてあまりの激痛に蹲ったへきの前で、普段の大人しい彼から想像もつかないような声で笑い出す。

「はは、あははははは!見てよ、僕の心臓だ!僕とおまえの心臓!お揃いだね、あははは、はははははは!」
「う、ぅ……碧……」

 真っ白だった床は二人の血で真っ赤に染まっている。普通なら失血で死んでしまってもおかしくない出血量だが、ここは夢の中、これは夢の出来事。どんなに体を傷つけようと壊そうと、死に至ることはない。或いは、夢の中だけでも死ぬ事が出来たなら、どんなによかっただろう。ふとそんなことを、碧もへきも考えることがある。
 だけどこの世界で二人が息絶えることなど決してない。碧はへきがいなくなるまで、自分を傷つける事を止めない。

 救いは無い。
 へきは存在しないはずの自我をさっさと放棄して、碧が満足するようになればいいと思う。しかし碧が碧である限り、陰と陽、影と光の関係のように、碧の後ろ側には常にへきがいなくてはならない。彼はそれを認めようとはしないが、へきは最初から、彼女と言う意識が生まれた時からそれを理解していた。だからどんなに主人格から嫌われようと、へきが居なくなる、消えるという選択は無い。

 自分の心臓を握り締め、現実では有り得ないくらいに晴れやかな笑い声を上げる碧を、蹲ったまま横目に眺めているへきは、か細い呼吸を絶え絶えに繰り返し、両の手を血が滴る胸の前で組む。折り畳まれた指と笑い続ける碧。彼女はそっと願う、どうか彼に安寧が訪れますようにと。十年以上そうしてきたように、夢という精神世界で祈りを捧げる。




 ただその祈りが、神に届いた事はない。


fin.
10.0618.
痛い話ですみません、でもたまに救いようのない話が書きたくなります。psycho prisonという素敵企画に参加させて頂いた碧でした。病気とかは全部創作の世界での出来事ですので真に受けないでやってくださいね。あくまで現実のその病名を参考にしたまでです、ここ大事。

title by 濁声