colorless | ナノ


おやすみ唄





「がおー」
「何してんだお前…」
「ワニの真似。がおー」
「どっちかっていうとクマだろそれ」

 放課後の教室、気だるげな雹の指摘に、もろ手を挙げて力無い唸り声を上げていた紅は確かに、と頷く。すると今度は両手を前に突き出し、上下の顎を模してもう一度「がおー」と、やはりやる気のなさそうな声を上げた。これならワニっぽいだろうと雹に評価を求めれば、彼は既に興味を失っていたらしく窓の外の青空をぼーっと眺めていた。今の彼にはその快晴すらも憎たらしく思えてならない。
 雹の不機嫌、というか脱力感の原因と言えば、ひとつしかない。彼の最愛の弟である秋緋に最近恋人が出来て、兄である雹に構ってくれる時間が少なくなったからだ。

 だらしなく机に突っ伏した雹は、普段の彼の雰囲気からは想像もつかないくらいに情けない声で弟の名を呼んだ。恐らく彼をここまで豹変させることができるのは、秋緋くらいのものだろうと、内心で紅は感心していた。

「あーきーひー……」
「邪魔しようなんて考えないでよ。秋緋ちゃんはコノヤおねーさんが大好きなんだから」
「んなこと…テメェに言われなくても知ってるっつのばーか!……ばーか」

 このまま放っておけばそのうち泣きだすのではないかと思えるほど哀愁を漂わせている雹の背に、紅は何となく触れてみようと手を伸ばす。だがもう少しで指先が触れる寸前、躊躇からかぴたりと手は止まり、やがてだらりと垂れ下がった。
 その代りにか、唇の間から小さな曲が奏でられる。歌詞はない。ただの鼻歌だが、即興ではなく確かに既存の曲らしく、緩やかで優しくて、自然とすんなり耳に入り込むようなたおやかな音楽だった。例にもれずそれが聞こえていた雹は浅く顔を上げ、軽く顔を顰めながら横目で、鼻歌を奏でている紅を垣間見る。

「何歌ってんだお前…」
「子守唄だよ。歌詞は覚えてないけど昔誰かが歌ってた」
「…オレ、ガキじゃねえし……」

 紅の言うとおり本当に歌詞は覚えていないようで、鼻歌に歌詞がつけられることは終始なかった。濃い隈が表している通り寝不足の雹は、穏やかな曲調の子守唄に段々と、しかし着実に意識を奪われ始め、ゆるゆると瞼が下りていくのを感じた。寝るのは好きじゃない、どんなに強くなろうと悪夢には対抗できないから。しかしどうしてか今回ばかりは悪夢に魘されることもないかもしれないと最後にそう思い、彼は完全に意識を手放した。
 それから暫くは子守唄を歌っていた紅だが、一度その歌声を途切れさせると、静かな寝息を立てている雹の背に、小さく声を投げかけた。


「おやすみなさい、よい夢を」


 その真意を知る者はいない。ただ、悪意がないことは確かで、紅はその後も暫く聞く者のいない子守唄を歌っていた。雹の安眠を守るように、と。


fin.
10.0522.
ダイチ様宅鰐淵雹くんお借りしました。そして同じくダイチ様宅秋緋くんと、かや様宅庵田コノヤさんをお名前だけ借りました。まさかの書きなおしだけど大体合ってるはず。裏設定(というか罠):雹起きる→紅寝てる→「なんだこいつ」→寝る前の記憶忘却→進展はない