■愛しているが言えないときは

「月が綺麗ですね」
彼の瞼は閉じられている。アズールは彼のその閉ざされた瞼の奥に金色が光っていることを知っているが、きっとイデアが言っているのはそのことではないだろう。
「一応言っておきますが、確かに今現在の時間は日付を超えているため夜です。しかし、本日の天気は生憎の雨。日付を超えた現在でも雨は振り続けているので月は見えないのですが……イデアさんの目は節穴でしょうか」
皮肉を混ぜてそう言えば、イデアは目を閉じたまま小さく笑った。アズールはどことなく楽しそうなイデアの様子に少しばかり苛立ちを感じ、乱暴に彼の隣にどかりと座る。ベッドが音を立てて沈み、まるでアズールを責めているような悲鳴だった。
 この男は今、何を考えているのだろうか。左腕に感じるぬくもりのせいで少しばかり冷静になった頭でアズールは考える。これから、自分に狂わされると言っても過言ではないのに、どうして楽しそうなのか。だが、アズールもまた愉悦で震える指先を抑えることはできなかった。




 人魚の歌は人間を惑わせるという。音波を使用した研究の論文を読んでいた時だった。随分と興味深いその内容に書かれた人魚の歌声に関する記述から目が離せなくなる。その魅力に耐えられなかった者は、正気を失ってしまうらしいが、できることなら愛おしい人魚の歌で狂いたいと思った。そして、そう実に偶然。本当にたまたま、自分の唯一に仲のいい後輩、そして自らの片思い相手は『人魚』であった。
 イデア自身、欲求には正直な方で一度聞いてみたいと思ってしまうとそればかりを求めてしまう。都合が良いのか悪いのか、彼の視線の先には、廊下にある掲示板に貼られたモストロ・ラウンジで行われるリサイタルのチラシがあった。しかし、陽キャという生き物が心底苦手な彼としてはラウンジに出向くこと自体が苦行となる。
「……アズール氏に直接お願いするか……? いや、でも陰キャが歌を聞かせてだなんてキモすぎ……? いやでもラウンジに拙者が足を運ぶこと自体無理ゲーすぎますですしおすし……究極の選択肢すぎるでござる……」
「ラウンジがどうかしましたか?」
ブツブツと独り言を呟いていると突然話しかけられ、イデアは驚いた猫のように後ろに飛びのいた。ヒョオという不思議な効果音付きである。
「あ、あ、アズール氏……! いたなら声掛けてよ……!」
「ですから今こうして声をかけてるでしょうに」
話しかけられた相手がアズールであるとわかった瞬間に、イデアはすすすとアズールに近寄って驚かせられたことにボソボソと文句を言う。
「それで、ラウンジがどうかしたんですか?」
どんなに話の腰が直角に折れようが、話を元に戻す男アズール・アーシェングロット。そんな文言がイデアの脳裏に浮かんだ。別にわざとオーバーリアクションをしたくてしているわけではないが、先ほどの独り言をどうにかしてごまかしたかったというのが本音である。
 まだ「歌を聞かせて欲しい」とアズールにお願いする覚悟が決まったわけでもないし、正直に話せばラウンジに強制連行されること間違えなしである。
「い、いや……え、えーっと……う、うた!」
「うた?」
「人魚の歌は人間を惑わせるって伝説は本当かなーって、ちょっと気になって……」
いや突然すぎるだろ。それに、ちょっと人魚本人に聞くのは少し不躾すぎただろうか。イデアの優秀な脳みそは高速で己の発言に対して突っ込みが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返している。

「まあ、確かにそういった精神干渉をする歌声を発することはできますけど」
「エッ!? できるの!?」
「歌声に魔力を乗せるんですよ。ただ歌うだけではできません」
あっさりとそう答えたアズールにイデアは少しばかり安堵する。いや少しばかりではない、かなりだ。この場合、イデアという生き物は許容されるとどこまでも突き進む人間である。
「そ、それって拙者聞くことできる……? いや変な意味じゃないですぞ! 決して! ただ、後学のために知っておきたいというか……!」
イデアがそう告げると、アズールはその大きな瞳がこぼれそうなほど大きく開いた。普段ならば饒舌なその口が結んだまま、イデアをじっと見つめていた。アズールの反応に、イデアは調子に乗ってしまったと慌てて弁解を開始する。
「あああ! いや嫌だったら断って欲しいでござる!! 深い意味はないので〜〜〜!! あずっし、嫌いにならないで……!!」
廊下の一角、生徒らの通りも決して少なくはないがイデアの視界には他の人間など映ってはいなかった。アズールは突然クスクスと笑い始め、イデアが心配になるほど笑い続ける。やっとツボから抜け出せたのか、目にうっすらと涙を浮かべ未だ上がりそうになっている口角を必死に抑えながらアズールは言った。
「いいですよ、ですが他の人間がいるところでは危ないので、今夜はイデアさんのお部屋に伺ってもよろしいでしょうか」
イデアの返答は言わずもがな、「はい」の一択である。




「それじゃあこれから歌いますが、終わった後に少し具合が悪くなるかもしれません」
目を閉じたままアズールの声を聞いていた。かすかなぬくもりを右腕に感じながら、アズールの言葉に「だいじょうぶ」と答える。思いのほか、たどたどしい口調になってしまったがそれもこれもこの微睡みのせいであった。
 アズールの息遣いが聞こえる。普段の呼吸よりも深いそれは心地良いものだった。まるで、空が呼吸をしているようで不思議と自分の精神が室内ではなく、広い広い空の下にいるように思えた。ふと空を見上げると満天の星空が競うように輝いている。足元を見れば辺り一面湖であった。鏡のように星を反射させ、イデアはまるで宇宙に放り出されたかのような感覚に陥る。湖の中に膝まで浸っているというのに、冷たさは一切感じなかった。
 そよそよと風が優しくイデアの頬を撫でる。

 ああ、そうか。これが人魚の歌なのだ。慈悲に満ちたこの颯爽たる風はアズールの歌だ。ふと、東方の有名な詩人の詩を思い出し、言葉にする。
「諸君はこの颯爽たる諸君の未来圏から吹いてくる透明な清潔な風を感じないのか」
きっとアズールならばなんて答えるだろうか。どうやら今夜の自分は彼と言葉遊びがしたいらしい。ガラにもなく、クサイことばかり言ってしまう。

「アズール、月が綺麗ですね」
声を発すると、湖が喜ぶようにさざめいた。
「そうですか? 僕の方が綺麗じゃありません?」

 気がつけば、隣にはアズールがいてしっかりと繋がれた手をしっかりと握られた。まるでこの世界にふたりぽっち。でもきっと彼がいれば、幸せなのかもしれない。
「あなたの世界、あなたと僕しかいませんね」
「え?」
「オルトさんは? あなたの幸せの先には、誰もいないんですか?」

 自然と怒りは湧いてこなかった。理不尽なこの世界に対する怒りも、不躾な質問を投げかけてくる想い人に対する失望も。
「僕の行きつく先は……きっとなにもないところだから」
先ほどまで満月だった月が、三日月になっている。空にまで嘲笑われているのかもしれない。きっと自分には未来圏から吹いてくるという風を知覚することはできないのかもしれない。いや、もしかしたら吹いてすらいないのかも。
「イデアさん」
「アズール氏?」
少し怒った様子のアズールに、イデアは握った手の甲をなだめるように撫でる。そんなことも意に介さず、アズールは憤りを隠すことなく話し続けた。
「あなたをひとりぼっちになんかさせませんよ。ふたりで幸せになろうなんて言うつもりもありません。あなたが死ぬ時はたくさんの人間が駆けつけてたくさんの人が悲しむんです。それで、ヨボヨボのご老人になったあなたを僕が『ほら見なさい、僕のおかげであなたはひとりぼっちじゃなかった』と笑ってあげましょう」
アズールはドヤ顔でそう言い切った。これが夢なのか、現実なのかはわからない。それでも、この愛おしい人魚のドヤ顔に込み上げた感情を飲み込むことはできない。
「ヒヒッ拙者の死に際まで君がいるのは草」
「ええ。覚悟しなさい。どれだけうっとおしいと言われようともね! 僕だってあなたが死んでから一人は嫌ですから。あなたが幸せに死んだ後だって、僕は人生を謳歌してやりますよ」
眩しいほどの傲慢さ、強欲さ。君のそういうところが……
「ハァーーー……きっと君ならバッドエンド確定ルートのフラグ回収した拙者を無理やりトゥルーエンドにしちゃうんだろうなあ……」
「勿論。あなたがお望みなら全部の分岐回収した後にトゥルーエンドまで連れてって差し上げますが? あ、トゥルーエンドがバッドエンドでしたってオチはなしですよ」
「望むところっすわ」
「だから、ちゃんと言ってくれないとわからないですからね」
「え?」
アズールの瞳はきっと、空だ。この人魚が海から顔を出した時、きっと綺麗なこの子に一目惚れした青空が瞳に入りこんでしまったんだ。
「『死んでもいいわ』なんて言ってあげないですからね」



 後から聞いた話だが、アズールの歌は人間が知覚できない深層心理とやらに潜り込んで対話をすることができるらしい。イデアが読んだ論文にそんなことは書いてなかったが、今こうしてイデアとアズールが最期を大団円で迎えることを前提にお付き合いしているのだから、アズールが言ったことは間違いないのだろう。


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