■【イデアズ】忘却もまた一興
イグニハイド寮の廊下はすでに静まり返っていた。他の寮では宴やらなんやらと大騒ぎしているところもあるというのに、寮生は長である寮長に似るというのだろうか誰ひとりとして部屋の外に出ていない。
アズール・アーシェングロットは今自分が会いたいと願い人物を思い浮かべ、うっすらと笑みを浮かべる。おそらくコンシーラーでそれを隠していたのだろうがその目元には隈が見える。ラウンジの業務が終わり、ヘトヘトの身体を引きずって歩いているというのにその足取りは心なしか軽い。片手に袋いっぱいのお菓子を持ってイグニハイド寮の廊下を歩くアズールをここの寮生に見られたらどうなるだろうか。きっとスレとやらが立つのだろう、とアズールはその緩んだ表情を正すことなくまたひとつ笑みを落とした。
目的の部屋の前に到着し、満身創痍でベルを鳴らす。すると、中からドタドタと大きな足音と何かを倒した音、しばらくして扉の鍵が開く音が聞こえた。ピッという機械音ののち、そろそろと顔を出した人物とばっちりと目が合う。
「……アズール氏、お疲れ様。ちょっと散らかってるけど…」
イデアの言葉は続かなかった。イデアの言葉を遮るようにしてアズールはイデアの顔を両手で包む。持っていた袋は重力に従って床に落ちる。ああ、こんなに酷い隈を作って……とイデアはアズールの目元に優しく親指で擦った。
二人は縺れ合うようにして部屋に入っていき、アズールはイデアのベッドに彼を座らせのしかかる。戸惑いながらも、イデアは自身の着ているパーカーの前を開けて「ほらおいで」なんて小さな声で言ってみせた。アズールは、その白く細い指で眼鏡を外してゆるりと力を抜いた。
アズールはイデアのパーカーに潜り込み、彼の胸元に顔を埋める。アズールの細い腰にイデアの長いふたつの足が絡まった。アズール専用蛸壺の完成だ。
「……」
「……」
無言の時間がしばらく続く。
イデアがタブレットをタップする音とイデアの心臓の音に、アズールの意識は微睡んでいく。
包まれた少し低めの体温のせいで、まるでここは海の中のようだと思った。イデアの部屋にあるたくさんの液晶たちのせいでここはまるで深海のようだ。深い青から逃げるようにして蛸壺に収まり、そばに感じる鼓動に耳を傾けそっと目を閉じる。
どれくらい時間が経っただろうか、しばらくしてイデアがアズールに声を掛けた。
「当社の蛸壺サービスはいかがですかな」
「……不満はないです」
「それはよかったでござる。追加料金を頂戴できれば、サービスしますぞ」
「ツケでいいなら」
ちなみに基本料金は、アズールが持ってきた大量の駄菓子である。アズールの返答に、彼は大層満足したのか、「ヒヒヒ」と小さく笑った。彼はアズールの顔を覗き込む。彼の大きくて節くれだった手がアズールの後頭部を撫でる。右手は頭を、左手は背中を撫でられて、疲れ切った心が解凍されていくみたいだ。
「……ぼくは、もう五日もねてないです」
「うん、頑張ってるね」
「ふろいどはシフトが入っててもばっくれやがるし」
「あー…」
「じぇいどはイヤミをちくちくと…」
「双子コワ」
「…でも、クソみたいな客が来てもぼくはかんぺきな笑みで対応できますし」
「いやー…さすがっすわあ…」
「飛行術の授業で、今日は10センチ飛びました」
「それは拙者と同レベっすなあ」
「でも」
ぽつぽつと言葉が泡のように浮き上がる。イデアが返事をする度に、シャボン玉のようにパ苧チリと消えていく。特段大きなシャボン玉がふわり、と舞った。
「誰も褒めてくれないんです」
パチリ、アズールの長く繊細なまつ毛が揺れる。
「ぼくがグズでのろまなタコだから」
「べつにどうでもいい他人に褒めてもらうために、ぼくはここまでやってきたわけじゃない。ぼくが、ぼくのためにいままで…でも、」
「ヒヒッ」
イデアの笑い声に、アズールは顔を上げる。そこには満足そうに笑う彼の顔。
「何笑ってるんですか、人が真剣に…」
頬を膨らませたアズールが蛸壺から顔を出して、彼の鼻をつまむ。それでもまだ嬉しそうに笑うイデア。
「だって、アズール氏にとって拙者は『どうでもいい他人』じゃないんだなあって思って」
蛸壺から顔を出した人魚は「今更気が付いたんですか」なんてニヤリと笑う。二人の距離は恋人同士のように見えるが、彼らは恋仲にあるわけではない。同じボードゲーム部に所属していて、同じ寮長という立場で、互いに対等であると認め合える先輩と後輩……そんなところだろうか。まあ、そんな二人の御託は第三者的立ち位置からすれば茶番に過ぎないのだけれど。
*
イデアとアズールはボードゲーム部に所属している数少ない部員だ。かなりゆるい部活で、幽霊部員も多い。性質が真反対の二人がここまで親しくなったのも、この部活動だったからなのかもしれない。
イデアは考える。何故かのヤクザ寮とも呼ばれるオクタヴィネル寮の寮長、アズール・アーシェングロット氏とこのようなことになったのか。自身の胸の中で眠る男は、男の中の男と言ってもいい。普段ともにいる双子がバカみたいに身長が高いだけで、彼だって高身長である。そして、何事にも努力を惜しまない。
『何事にも努力を惜しまない』言葉にすると、どうにも薄っぺらく聞こえてしまうが、言葉通りに何事にも努力をし続け、形にするというのは本当に難しいことだ。以前にも、イデアが持ってきた「マジカルライフゲーム」というボードゲームをやった時も、彼の負けず嫌いには脱帽した。運ゲーが嫌いな彼を焚きつけて、マジカルライフゲームを二人でやり、アズールを打ち負かした時のこと。次の日には、彼は「サイコロが自分の思う通りに振れる練習」をしていたのだ。運ゲーから運要素をなくし、自分の思う通りに進める努力。なかなかできることではない。
飛行術も彼は苦手なようだったが、諦めることなく努力を続ける姿は、何度も何度もこの目で見た。
いつからだっただろうか。対価と称して大量の菓子を持ってきてくれるのも、それを「是」としてこの状況を甘んじて受け止めている自分も。タコの人魚である彼は、暗くて狭い場所が好きなようだ。疲れきった時や、感情を抑えられなくなった時は、よく暗くて狭い場所に閉じこもるらしい。彼にとっての蛸壺はいつの間にかイデアの懐になっていた。
時計を見ると、もう少しで日付が変わってしまいそうだった。きっと彼は、朝を自室に戻って迎えたいだろうし、そろそろ起こさなければならない。イデアはすやすやと気持ちよさそうに眠る彼の髪をそっと梳いた。
「……アズール氏ー、アズール氏ー、気持ちよさそうに眠っているところ忍びないでござるが……そろそろ起きてくださいー」
「……」
彼の身体がピクリと反応し、起きたことがわかる。しばらくして首を縦に数回振ったから、「起きる起きる起きるけどもうちょっと」ということだろう。普段は見れない彼のいじらしい姿に、自身の口角が上がっていることがわかる。危ない危ない、こんな気持ち悪い笑みを見られたら拙者の人生終わっちゃう。
「……イデアさん、また、明日も来ていいですか」
「エッいいけど……」
アズールが二日連続でこの部屋に来ることはなかったために、思わず挙動不審になってしまった。……挙動不審なのはいつものことではあるが。自覚があるだけに、内心苦笑いをする。
「アズール氏、そんなにお疲れだったの? だったら自室でちゃんと寝た方が…ヒッ!?」
イデアが宥めるようにそう言うと、アズールの鋭い睨みが飛んできて、思わず身を竦めてしまう。美人の睨みほど怖いものはないのだ。自分に「対 美人の睨み」スキルがあれば、話は別なのだけれど。
すっかりいつもの調子を戻したアズールは、蛸壺がズルズルと身体を起こして眼鏡をかける。それでも目元の隈はまだ消えていなくて、「もう少しここにいればいいんじゃない」なんて言葉が口から出てきてしまいそうだった。きっと、自分が陽キャだったら言えていたのだろうか。まあ、自分が陽キャになるなんて億が一にもないけれど。
「じゃあイデアさん、また明日…と、もう今日ですね、今晩またお邪魔しますので」
「りょ、りょ…」
「では、おやすみなさい」
颯爽と去っていったアズールの姿を見送ることはしかできなかった。
「……おやすみ」
きっともう聞こえていないけど、ポツリと呟く。普段は明け方まで、ソシャゲの素材集めをやるのだけれど、それをする気にもなれなくて、イデアはそのままベッドに転がり、目を閉じた。
*
結果から言えば、今晩また来ると言ったアズールは来なかった。約束を違えることはない彼が、ドタキャンしかも無断でなんてありえないとわかっている。きっと何かあったのだろう、理由も話せないほど来れない何かがあったはずだ。
「……やっぱ嫌われたのかも……」
ベッドにダイブして、溜息を吐く。こうして落ち込んでいる間にこの身を外に捧げて、彼の安否を確かめにいくべきだ、そう思っているのにどうしても足が扉の外へと踏み出すことができない。いつもならば頼りになるオルトに、どうするべきか相談するというのもアリっちゃアリだが、なんとなく気恥しかった。そもそもあの彼を自身の懐に潜り込ませて、しばらくその体勢でいるアレを話したことはない。
でもアズールの周囲には人がたくさんいる。秀才ゆえに彼を妬んだり契約の関係で恨む者はいるだろうが、それでも彼の周囲にはしっかりと人間関係が出来上がっている。自分からしてみれば圧倒的に陽キャである。それに比べて自分は自室に引きこもってばかり。……愛想を尽かされたのだろうか。
「やっぱ陽キャの考えることはわかんないっすわァ」
自嘲の笑みを浮かべてイデアは呟く。いや、これはただの八つ当たりだ。彼は何も悪くないし、そもそも彼を自分の苦手な「陽キャ」と一括りにして怒りをぶつけるべきではない。 あまり良くない考えがずっと脳みそを支配して、手にしていたタブレットを床に投げる。
「……ちょっとだけ、ちょっとだけ様子を見に行くだけ……きっとこの時間なら、人は出歩いていないはず。大丈夫、大丈夫……」
割れてしまったタブレットを尻目に、部屋をそーっと抜け出した。これで自分を助けてくれるものはない。
行先は、モストロ・ラウンジだ。日付はとっくに変わっており、もしかしたらラウンジにはいないかもしれない。だが、他寮である自分はいくら寮長と言えどもオクタヴィネル寮に入るのはめちゃくちゃ覚悟がいるのである。
「ワンチャンまだ仕事が終わってない可能性微レ存…」
ラウンジへの道のりは少し遠く感じる。外に出るとしても教室との往復ばかりだったのだ、深夜とはいえ自分が陽キャが集うモストロ・ラウンジまで行くなんて心臓が悲鳴を上げている。相手がアズールでなければ、こんなことしないのに。
ラウンジに到着すると、当然ながらラウンジの扉は閉まっていた。「CLOSED」と書かれた札が下がっている。扉に手を掛けると、5センチほど扉が開く。
「……戸締りはしっかり、ですな」
不用心な扉を開けてラウンジの中へと入っていく。カウンターの方を見ると、目当ての彼が作業をしているのが見える。彼の周囲にだけ付いた明かりは、彼のためだけに灯っている。声を掛けるべきか、彼の生存が確認できたのだから目的は達成しているのだ。このまま、そっと自分の部屋に戻るべきだろう。イデアはそう思って、その場から立ち去ろうとした。
「すみません、ラウンジの営業時間はもう終わってしまったんです。……まあ、この時間にいらっしゃるお客様なんて、あなたくらいでしょうけど」
声をかけられ、思わず立ち止まる。おそるおそる振り返ると、綺麗な瞳がふたつこちらを真っ直ぐに見つめていた。
「アズール氏……君がいつも来る時間を過ぎても来なかったから、どこかで倒れてるんじゃないかって心配になって……」
「……大変申し訳ないのですが、僕と約束でもされていましたか? ああ、契約のお話でしょうか?」
そこで初めて気が付いた。彼がこちらを見る目は、普段と違う。目は口ほどに物を言う、なんてよく言ったものだ。まさに今、彼の視線は言葉よりもありありと今の状況に違和感を加速させた。
「……えっと……」
「……? 用がないのなら、お引き取り願えますか。申し訳ありませんが、僕はとても忙しいので」
「アズール氏……?」
アズールはこちらを訝しげにに見つめている。片眉を上げて、片手を口元に持っていく。そのせいで、口元の黒子が見えなくなってしまった。
イデアは目の前の男を震えながら見つめる。
(本当に、本当にこのアズール氏は、アズール氏なのだろうか)
縋るような思いで、一歩踏み出す。しかし、その一歩は絶望への一歩だった。
「どこの誰かは知りませんが、お帰りください。僕はあなたのような人間を知りません」
今、彼はなんと言ったのだろうか。アズール氏が、ぼくを知らない? そんな訳がないのに、どうして彼はそんな嘘をつくのだろうか。
「……君は、アズールの『偽物』?」
「は、はあ?」
見た目も、喋り方も、仕草も、すべてすべて彼だった。でも、彼がイデアを知らないわけがないのだ。アズールの周囲を青い炎が一気に囲む。
「……!? なんの真似だ!」
「ヒヒッそれはこちらの台詞でござるよ。
……君がぼくを知らないなんてありえないだろ」
アズールを囲む青炎の円がジリジリと彼に近づいていく。睨み合う両者の空気を一掃するように、ラウンジのVIPルームの扉が開いた。
「あれぇ? アズールとホタルイカ先輩じゃあん。喧嘩でもしてんのぉ?」
リーチ兄弟が扉から覗き込むようにして、こちらを見ている。なにか面白そうなものを見つけたように目をキラキラとさせているのがわかる。
「……今は君たちに構っている暇はないんだ」
普段ならば双子に怖気づいてしまうイデアが、リーチ兄弟の方を見向きもせずにアズールに敵意を向けている、そんな状況にフロイドは一層面白そうにVIPルームから出てくる。
「これどういう状況〜? アズールと喧嘩ぁ?」
「おやおや、めずらしいですね」
「フロイド! ジェイド!」
アズールの切羽詰まった表情に、フロイドはその笑みを絶やすことなくイデアに向けて攻撃魔法を打つ。しかし、イデアはそれをあらかじめ予測していたかのように強硬な防御魔法でそれを跳ね返す。
「あは ホタルイカ先輩、ヤる気充分じゃあん!」
「フロイド、ほどほどにしてくださいね」
「お前たち! 面白そうにしてないで、早く手伝いなさい。この青い炎が熱くて堪らないんですよ」
ゴウゴウと燃え盛る青い炎に自身に防御魔法で対抗すれどアズールの身の危険がなくなるわけではない。嫌な汗を額に浮かべ、歯を食いしばる。
「ホタルイカ先輩、ちょっと落ち着きなってぇ」
フロイドの言葉に、イデアの視線が双子へと映る。その瞳は冥界への扉のようで、酷く冷たい金の光だった。
「……落ち着け? 目の前で愛する人魚のニセモノが現れて? それを黙って見過ごせと?」
イデアのその言葉に、双子の動きがピタリと止まる。
「…イデアさんは、このアズールが偽物だと言うんですか?」
「……アズール氏が、拙者のことを覚えていないって」
ふっと、アズールを取り巻いていた青い炎が消える。そんなの、おかしいだろ。イデアの言葉がラウンジの大きな水槽に消えていくみたいだ。イデアの開ききった瞳孔が、すっと元に戻り、冷静さを取り戻していく。その場に座り込んだアズールにゆっくりと近づいていくイデアの手は震えていた。
「あなた誰なんですか! 近づかないで!」
アズールの悲痛の叫びが、夜のラウンジに響く。イデアはその場で踏みとどまるしかなかった。フロイドがそっとアズールの元へと近づいて、その細い肩に手をかける。
「イデアさん、今日はもうお引き取りください」
ジェイドのイデアとはまた違う金色の瞳が、彼をまっすぐに見つめる。それは同胞を攻撃されたことを責めるつもりなのか、それとも同情か。有無を言わさないジェイドに、イデアはふらふらとラウンジから出ていった。
*
「ふうん……魔力による脳への干渉はないようですし、シュラウド君もそれをわかっていたのでは?」
学園長であるディア・クロウリーの下に泣く子も黙るオクタヴィネルが訪れている。それだけで、相当な有事であることが証明された。
「はあ……アズールのおかげでラウンジのソファや机たちが焦げたいい匂いを放っているんですよ」
「そ、それは僕のせいではないでしょう……!」
昨晩起こった『イグニハイド寮長があのオクタヴィネル寮長を攻撃する』という事件は学園長にしっかりと報告された。当の本人であるイデアは依然として自室からでてこないが、学園中の誰もが知っている珍事件となった。まあ、それもこれもこの口の軽いディア・クロウリー学園長のせいなのだけれど。
「そんなことではどうでもいいじゃん。タコちゃんは、ホタルイカ先輩のこと覚えてねえのお?」
珍しくフロイドが真っ当な意見を被せる。
学園長の下に来るまで、三人はいくつかの検証をしていた。学園のありとあらゆる人物と直接会って、アズールの記憶の欠如がどこまでか調べたのだ。結果として、アズールはほとんど覚えていた。ハーツラヴィルの連中も、サバナクローの奴等も、オンボロ寮の監督生のことも。ただ、イデアのことだけ。ボドゲ部という小さな空間で、ひっそりと築き上げた関係を、すっぽりと忘れてしまったのだ。
「イデアさんが昨晩冷静ではなかったために、アズールを攻撃したのでしょうか」
「えーでもホタルイカ先輩、以外と嗅覚鋭そうじゃん。そんな簡単にアズールのこと『偽物』なんて判断するわけ?」
ウツボは互いに顔を見合わせる。当の本人はすっかり引きこもってしまって話を聞くことはできない。それよりも、我が寮長に異変が起こったことの方が問題なのだ。今はイデアを忘れているだけで、もしかしたら自分たちだって忘れられてしまう可能性だってあるのだ、とリーチ兄弟は懸念していた。
「魔力や呪いではない、となれば……精神的な問題なのかもしれませんねえ。もしかして、アーシェングロット君、君……シュラウド君に、いじめられていたとか?」
「僕が? いじめ?」
アズールは、学園長に言われたことを反芻し、その瞬間吹き出した。自分が? 誰かにいじめられる? 昔じゃあるまいし、そんなことはありえない。アズールはきっぱりと自分の中でそう結論づける。この自分が誰かに弱みを握られ、一方的に被害を受ける可能性は圧倒的に低いのだ。
「アズールの言う通りです。アズールとイデアさんの関係はいたって良好でしたよ」
ジェイドのツッコミにより、さらに学園長は唸る。結局のところ、わからないのだ。なぜ、アズールが一定の人物のことだけすっぽりと忘れてしまったのか。
しばらくして、アズールは双子に行きましょうと声をかけ、学園長室から出ていこうとする。学園長は、そんなアズールを呼び止めた。
「ちょっと…! まだ原因や対処法が見つかってないんですよ!」
そう言った学園長に対して、アズールはにっこりと笑ってこう返した。
「僕はそんなに暇じゃないので。一人の人間を忘れたくらい、なんともありませんよ」
その言葉に、アズールの脇に控えた二人が視線を合わせて、溜息をついた。
廊下に出て、颯爽と前を歩くアズールに双子はさてどうしたものか、と悩む。普段ならば、自分たちの後ろを歩くアズールが前をスタスタと歩いている。この位置関係についてとくに考えたことはなかったが、どうも気になった。何かに、焦燥感を感じているのではないか。しかし、イグニハイド寮の彼を自分たちの寮長が忘れてしまったところで、特段迷惑を被ることはない。わざわざ、自分たちが労力をかけてやるほどのことでもないのだ。
「……アズール、今日は部活に行かなくていいのぉ?」
声を発したのはフロイドの方だった。こういう時に、声をかけるのはジェイドではなく、フロイドの方だ。それは今も昔も変わらない。
「……部活? ああ、ボードゲーム部のことですか。そんなものに行くよりも、ラウンジに顔を出した方が有益でしょう」
これはいつものアズールだ。別に何かが変わったわけでもないし、自分にとって利益があるかないかの尺度で考えるアズールはいつもの彼だ。しかし、わざわざ部活のためにない時間を捻出し、週に一度部活動に顔をだしていたのは事実。彼との記憶があるのとないでは、ここまでアズールの行動が変わってしまうのか。
「ふうん。アズールは部活の時間をつくりだせないくらい、忙しいもんねえ。そんな余裕なんてないもんねえ」
「フロイド、あまりアズールをいじめないでください。可哀想に。泣いてしまうでしょう?」
ふたりの煽りに、アズールの顔がどんどんと赤くなっていく。まるで茹でダコのようだ。廊下のど真ん中。他寮の生徒らが、オクタヴィネルだ……なんかやってる……こわ……と避けるようにして廊下の端を歩いている。
ふるふると震えたアズールが、「お前たち! ラウンジは任せましたよ! 僕は今から部活動をに勤しんできますからね! 少しは学生らしくしなければ!」と啖呵を切ってずんずんと歩いていく。
「は〜あ。俺もサボろっかな〜」
そう言ったフロイドに、ジェイドが釘を指す。
「フロイド、ダメですよ。後々イデアさんにこの貸しはちゃあんと返してもらいましょうね」
「あは ジェイドが悪い顔してるぅ」
「ふふ、シュラウド家の嫡男に貸しを作るんです。とても良い話でしょう?」
端を歩いていた他寮の生徒たちは壁にめり込むほどより一層端を歩く。そう、泣く子も黙る悪徳集団、ヤクザ寮、いやオクタヴィネル。関わらないが吉、なのである。
*
逃げ帰るように自室に戻ってきて現在。イデアは気が動転したままに、パソコンに向かっていた。ブルーライトの光に照らされた顔は、普段の悪い顔色よりもさらに酷く見える。その原因は明らかに、普段やっているオンラインゲームのせいでも、終わらない論文執筆のしでもない。彼の想い人、アズール・アーシェングロットの変化のせいであった。
イデアは、もしその心うちを誰かに語ろうものならば即座に半径五メートル程距離を置かれてしまうほど蛸の人魚を好いていた。対人スキルがゴミクソカスなイデアでも、想い人のことはしっかりとよく見ている。推しのことは隅から隅まで知りたいと思うのがオタクの性であった。つまるところ、イデアにとって『イデアのことを知らないアズール・アーシェングロット』は解釈違いであったのである。魔法工学界の貴公子、シュラウド家跡取り、異端児と呼ばれる彼であっても、推しの解釈違いというのは地雷であり、一気に周りが見えなくなるほどの出来事であった。
『どこの誰かは知りませんが、お帰りください。僕はあなたのような人間を知りません』
しっかりと推しの口から紡がれたその言葉。今でも脳内で再放送できてしまう。こんな再放送、望んでなどいなかった。イデアは自室で一人で項垂れる。
だからと言って、あそこで即座にアズールを偽物であると決めつけ攻撃までしたのは、ナンセンス……いや、あってはならないことだった。アズールのあのリーチ兄弟に怯えを隠すことなく助けを求めた時の表情。自分に向けられたのは、敵意と怯えであった。自分は想い人、いやその前に大事な友人を冥界の炎で焼き尽くすところだったのである。
「……いやだって、アズール氏からは魔法の痕跡は見られなかった。その時点でおかしいのに、フロイド氏やジェイド氏のことはしっかりと覚えているみたいだった。まさか僕のことだけ忘れている……? 魔法の痕跡を残さず、一定の人物だけを忘れさせる魔法なんて…」
長考しても、その答えは見つからない。結局頭を抱えるばかりであった。なぜならば、こうして原因を探ったところで、自分が彼にした失態は取返しのつかないことだし、そもそも仲直りなんて自分はしたことがないのである。そこまでの対人スキルがあれば、とっくのとうに想い人に告白をしているし、そもそも自室に引きこもったりなどしない。
「……しょうがないか」
イデアはデスクトップの隠しコマンドから、ひとつアプリを立ち上げた。そのアプリには現在進行形で数人の会話が流れていた。会話の内容からして、オクタヴィネルの三人組が学園長に昨晩の報告に行っているようだった。
どうやらアズールは、本当に自分の存在だけを忘れてしまったらしい。それも原因は誰かに魔法で脳に干渉を受けたわけではない、と。お手上げ状態である。しばらく彼らの話を聞いていると進展しない話にアズールがしびれを切らして席を立ったようだ。リーチ兄弟に煽られて部活に顔を出すらしい。
「……部活に顔出すって言ったって、君は僕のこと忘れちゃったじゃないか……」
イデアは考えることを放棄してしまった。
不貞寝をして数時間、自室の扉から物凄い音がしている。怖すぎてベッドから出ることができない。どうやら強く扉をノックしているらしい。勢いに任せすぎてほとんど殴っているのに近いが。恐怖のあまり扉の向こうに声を掛けられずにいると、ようやくうるさいノックが止む。
「イデアさん、イデア・シュラウドさん」
ようやく諦めたかと思えば、声を掛けられた。それも随分と聞き覚えのある声だ。
「アズール・アーシェングロットです。……あなたと同じ部活動の後輩です」
知ってるよ、そんなこと。イデアはベッドから抜け出してゆっくりと自室の扉へと向かう。別にそれほど距離があるわけじゃないけれど、とにかくゆっくりと近づいた。どんな顔をして彼と会えば良いというのだ。
「……アズール氏はどうしてここに来たの? 昨日の今日で拙者の顔なんて見たくないでしょ。まあ君は僕のことなんて忘れられて良かったと思っているかもしれないけど」
扉の向こうに話しかける。相手の顔なんて見えるわけがない。それでも、この一枚の壁の向こうにいるのがアズールであるということに嬉しさを覚えた。会いたくないけど、会いたい。二つの感情がイデアの身体を支配する。ずっと前からそうだった。
「部活に顔を出したところ、誰もいなかったので。たまたま通りかかった同級生に尋ねたところ、僕の専らのお相手はイデアさん、あなたのようですね」
「……」
イデアが黙ったままいると、扉の向こうの相手は彼のペースで話始める。
「こうも言われました。『イデア先輩のことを忘れたそうだな。……まあ災難だったな』とね。僕が自分の記憶をどれだけ零したのか確認するために、学園を歩き回った時も同じようなことを言われました。イデア・シュラウドのことを思い出せないのだと伝える度に、驚かれるか同情を向けられるのです」
声だけではアズールが何を言いたいのかわからない。
「僕は耳が良い方ですから、貴方のことを調べさせていただきました。『稀代の天才』『魔法工学界の貴公子』『シュラウド家跡取り』他…イデア・シュラウドと言えば異端でありながらして誰もが羨む天才。こんな風に調べるよりも僕の自室にたくさんの貴方の論文たちがありました。きっと僕は、貴方のたくさんの論文を読み返して理解しようとしていた。……その記憶すらもないのだから、僕は随分と惜しい記憶を無くしたらしい」
アズールはうんともすんとも言わない相手に話を続ける。
「……ここを開けてくださいませんか。どうやら僕は相当焦っているらしい」
アズールのどこか切羽詰まった声音に、イデアははっとする。自分が逃げの姿勢でいるばかりで、記憶のない状態のアズールにすべて身を任せてしまっている気がする。情けない。自分のこの臆病な性分はどこまでも自分を受け身にして、この大切な後輩に自分たちの関係を任せっきりにしてしまった。そのくせ、後輩が自分のことを忘れてしまったら動揺して、後輩を攻撃する。……それなんて傲慢?っていうか、馬鹿? え? 自分の一連の行動に、ドン引きしてしまった。ちょっと死んできた方がいい。
「イデアさん」
その悲痛な懇願の篭った声に、イデアは扉を開ける。扉越しではなく、想い人を抱きしめたいと思ったのだ。
しかしイデアはドアを開けたことを一瞬にして後悔することになる。目の前には、泣きそうな愛しのタコちゃん……ではなく、綺麗に作られた笑みを顔に貼り付け、青筋を立てたアズール・取り立て・アーシェングロットがそこにはいた。……明らかに、怒りの表情であった。自分の口から「ヒッ」という音が漏れ、咄嗟にドアを閉めようとした瞬間、アズールに長い足が扉が閉まるのを阻む。
「ヒ、ヒィイイイ! 騙されたでござる! 騙されたでござる!」
「なあにが、騙されたもんですか! こちとら記憶の一部がなくなった被害者なんですよこんちくしょう! その上、見知らぬ陰キャに攻撃されて殺されそうになるわ、慈悲の精神をもってしても見過ごせませんよ!」
必死にドアを閉めようとするが、アズールは蛸の人魚である。飛行術ではうんともすんとも言わない運動能力も、単純な筋力ではアズールに軍配が上がった。ドアが開いた反動で思い切り尻もちをついたイデアにアズールは覆いかぶさる。
「拙者、言葉でマウントをとられるのは慣れっこでござるが、物理的にマウントをとられるのは苦手でござるぅぅぅ!!」
「言葉でマウントとられるのも苦手でしょうが! 煽られたら煽り返して、その上倍返しにするくせに!」
アズールの言葉に一瞬、あれ? と思うが、彼の鬼の形相が怖すぎて何も言えない。
「貴方のような人間と僕が懇意にしていたということは、僕には必ず下心があったはずです! 『稀代の天才』『魔法工学界貴公子』でさらには『シュラウド家跡取り』! 僕は目を輝かせて貴方とのパイプを作りたかったはずだ! それなのに、せっかく築き上げた関係を記憶ごときで無くすなんて……! あの理解していたはずの論文もまた一から読み直してなんてあまりにも悔しすぎる!」
「ア、アズール氏ィィ!! 焦りすぎて出ちゃいけないところまで吐露しちゃってるでござるよぉぉぉ!! それ! それ絶対拙者に言っちゃいけないやつ!!」
「黙っらっしゃい!」
「り、理不尽さはご健在で……」
ボソリというと、さらに鋭い視線が飛んできたのでいい加減黙ることにする。静寂が訪れるとともに、アズールの口から浅い息を吐く音がした。
「……そんなことがどうでもよくなるくらい、僕は寂しさを覚えました」
イデアの胸倉を掴んでいたアズールの手の力が緩み、イデアはホッとすると同時に彼の表情を覗き込む。先ほどとは違い、今は彼の表情を見るのに阻むものなどない。
「ウツボたちに言われて部活に顔を出しました。部室に向かうと誰もいない。聞けば、あなたほとんどの部員が幽霊部員だと言うじゃないですか」
イデア・シュラウドさん、とアズールは口ずさむように言う。
「記憶を無くした僕は部活動など時間の無駄だと思いました。では、記憶を無くす前の僕にとってたった二人きりの部活動は……どれだけ魅力的なものだったのでしょうか」
「アズール氏……」
イデアの大きな手がアズールの頬を優しく包む。
「いつから思い出したの? 僕のこと」
暖かい手のひらに包まれながら、アズールは頬を膨らませて眉間に皺を寄せる。イデアの手を覆うように手を重ね、イデアのハチミツ色の瞳を覗き込んだ。
「気づいてたんですか、悪趣味ですよ」
「悪趣味はどちらでしょうなぁ」
アズールのイデアとの記憶はとうに戻っていた。アズールが言うには保健医に今回の記憶喪失は一過性のものであり、その原因は不明だという。どうやら部室に顔を出した時に、記憶が回復したらしい。魔法による脳の干渉は見られなかったために、皆一様に首を傾げるばかりで結局原因の特定には至らなかったとアズールは言った。
「そういえばイデアさん」
なんですかな、アズール氏と返事をすれば、アズールは自身のポケットから何かを取り出して、イデアに見せた。粉々にされたその正体に気が付くとイデアは元から良くはない顔色をさらに悪くして、土下座をして見せた。それも床に飛び込むかのように綺麗なフォルムでの土下座である。
「そ、それは、ち、ちがう、でござる! 決してやましい意味はないといいますか! いや、や、や、やましいっていうのはそういう意味じゃなくて!」
半泣きになりながら弁解を始めたイデアの額は赤くなっている。イデアの慌てっぷりを慈悲の笑みをもってしてアズールはニッコリと微笑んで、手の内の壊れた『イデア特製・追跡型盗撮器』を見つめる。
「イデアさん、そんな土下座なんてしないでください。別に僕は怒ってなどいないですよ」
「そ、そんなの嘘でござるぅぅぅ!! こ、こんなストーカー紛いなことをされて、い、いくらアズール氏でも嫌でござろう! そうでござろう! 気持ち悪いでござろう! こんなキモヲタ陰キャがさらにストーカー紛いの行動なんてして、ほ、ほんと、きしょくてかなわんんん」
「ストーカー紛い、というかストーカーと同じでは?」とはアズールは言わなかった。
「いえ、僕こそあなたに謝らなくてはなりません」
へ?とマヌケな声を出して、鼻水と涙で顔をぐしょぐしょにしたイデアにアズールはそっと手を伸ばす。手袋をとり、イデアの涙を拭う。
「記憶がなかった僕は、この盗撮器を思わず壊してしまったんです。普段はイデアさんの物であると気づいていたので、放置していたのですが……記憶がない僕は、不審者の物だと勘違いしてしまったんです……」
アズールが言った言葉をイデアの優秀な脳味噌が噛み砕いていく。つまり。そう、つまりはイデアがずっと行っていたストーカー行為をアズールはずっと気が付いていた。イデアがやっていると気が付いていたからこそ、気づかぬフリをして放置していたものの、イデアを忘れたアズールは不審者による悪質な行為と見なして盗撮器を破壊してしまった……。
地に埋まりたい……イデアは再び床に顔を伏せる。自分のストーカー行為がバレていないと思っていたことへの羞恥心やら、イデアならば盗撮されても良いと思っているのかこの人魚はといった嬉しさやら、イデアが腕によりをかけて作成した盗撮器を作成者本人に気づかれずに壊してみせたアズールの優秀さにそういうとこが好き……と相手へのクソデカ感情やらでもう顔が大変なことになっている。
「ふふ、本当にかわいらしい人ですね」
それはこちらの台詞である、とイデアは悔しそうに小さな声で言った。
*
後日、ウツボ兄弟に襲撃されたイデアは、ラウンジで使えるように追跡型盗撮器を改良し、ラウンジの防犯体制は工場したという。
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