父の転勤をキッカケに引っ越したのは世界で一番美しい水の都。
街中に張り巡らされた水路やその上に通る橋には今まで住んでいた街にはなかった独特の世界観があった。

空には沢山の鳥が飛び交い、透き通るように透明な水路には魚が泳いでいる。

私は身を乗り出して水路を覗き込み、水を掬い上げる。
ほんのり潮の香りがする冷たい水だ。




「水路に身を乗り出すと、危ないよ。」

「あ、ごめんなさ…」


はっと顔を上げると自分よりも幾分か目線の高い場所に彼はいた。
目が合うとにっこりと綺麗に微笑む彼は、水路の上の通行手段の一つであるゴンドラに乗っていた。
あまりの綺麗さに謝罪の言葉は途切れる。
綺麗な髪と白い肌が水路の水と白いゴンドラに映えていると思った。

彼がオールを綺麗に動かすとゴンドラは水の抵抗を受けることもなくゆっくりと前に進んだ。



「気を付けてね。」


じゃあね。と手を振った彼に私も思わず手を振りかえした。
彼のゴンドラには2人程お客さんが乗っていて彼は街についてガイドをしている様で、どうやら彼はこの街の伝統とも言える水先案内人というやつなのだろう。

私はそのゴンドラが水路を曲がるまでその後ろ姿を眺めていた。



その後も街を探索した後新しい我が家へ戻ると私は母にそれとなく先程起きた出来事を話した。

ゴンドラにお客さんを乗せ観光案内をしたり、時にはお客さんの行きたい場所、見たい物の場所へ連れていったり、舟唄を歌ったり。
どうやらこの街の水先案内人は男女問わず長年の経験と技術を修得した人のみ仕事としてお客さんを乗せることが出来るこの街の誇る仕事の一つらしい。


水先案内が主流だけれども、他にも物資の運搬やタクシーとしても活用されているらしい。

折角だから一度乗せてもらえばと母に言われて、折角なので一度乗ってみたいと珍しく甘えると母は微笑んで、直ぐに何処かへ電話を掛け始めた。


「明日の11時に家の前の水路で拾ってくれるみたいよ。」

「予約?気が早いなあ。」

「何言ってるの。人気のガイドさんは早めに予約して置かないと空きがないんだから。」


別に漕ぎ手なんて誰でも良いと思ったけれども、頭を過ぎるのは今日出逢った彼で。

いつか彼のゴンドラに乗ることが出来たらなあって柄にもなく思ってみたり。




次の日、指定された場所へ向かう為に、指定された時間にはまだまだ早いけれど私は外へと飛び出す。

春の息吹が少し暖かく水面には所々桜の花びらが浮かんでいる。

水流の流れに乗って前へ前へ進む花びら達につられて私もゆっくり歩き出す。


少しずつ暖かな春の太陽が街を照らし始めると私も何だかんだ気分が良くなってしまって、一人でに鼻歌交じりで花びらを追いかける。

まるで何かに引き寄せられるかの様な不思議な気持ち。
もしかすると、この花びらの行き着く先には素敵な出逢いが待っているのかもしれない。

道行く人々と挨拶を交わしながら少し速度の上がった花びら達を小走りで追い掛ける。


水路を行き交うボートやゴンドラに揺られながらも懸命に前に進む花びらは水の流れに乗ると、遂に船着場の柱にひしっとくっ付いた。まるで吸い寄せられるかのように。

少し上がった息を整えて周りを見渡すと、行き着いた場所はどうやら母が水先案内を予約する際に指定した場所だった様だ。

まだ少し時間には早いがゆっくりとゴンドラを待とう。水面に浮かんでは柱に引き寄せられる桜の花びらを眺めては、私は溜息を吐いた。
新しい場所、新しい生活、楽しみは多いけれど前住んでいた場所や生活が恋しくないと言えば嘘になる。
新しい生活が不安でないと言えばそれも嘘になる。

水の流れ次第でどこへ辿り着くかも分からない桜の花びらをまるで自分の様だと思った。




「また水路に身を乗り出してる。」

「え…。」


無意識に水面へ乗り出していた身体をスッと下げ、目線を声のする方向に合わせると、昨日あった筈の彼の姿。

昨日はつぐんでしまって言えなかった「ごめんなさい」の言葉を彼に伝えると彼は昨日と変わらない笑顔で優しく頷く。



「君が雨島早織さんだよね。」

「え?…はい。」

「お電話で予約頂いた、水先案内人の辰己琉唯です。」


あまりにも予想外な事に口をポカンと開けたまま何も言葉が出ない。
だってまだ約束した時間よりずっと早いから。



「我社ではお客様より早い時間に待つのが決まりですから…なんてね。君の方が早くて驚いたよ。」

「なんというか、待ちきれなくて。」

「それは光栄だなあ。」


そう言って辰己さんは優しく笑うとでは、早いですが出航します、と陸にいる私にゆっくりと手を差し出した。


「お手をどうぞ。」

「ありがとう…ございます。」


手を引かれ初めて乗ったゴンドラは思ったより揺れる事はなかったけれど、形容し難い浮遊感を感じ、思わず少し不安になってしまった。

辰己さんに席に座るように促されると、私はゴンドラに設置されてあるふかふかな椅子に腰を下ろした。



「ではお客様、出航致します。」


辰己さんが静かにオールを水面に着けるとゴンドラはゆっくりと動き始める。
私は後ろでゴンドラを漕いでいる辰己さんと向かい合うようにして座りながら、彼のガイドに耳を傾けながら過ぎ行く景色を眺めていた。

陸からでは見えなかった水面に映る青空や街並みがまるで違う世界の風景の様に感じられる。


一通りガイドが終わると、辰己さんは気さくに話しかけてくれる。





「雨島さんはこの町の人?」

「わたし、ついこの間引っ越してきたばかりなの。」

「それじゃ、これからどんどんこの街の魅力を知ってもらわないとね。」

「この街を…知る…。」



少し俯く私に辰己さんは大丈夫?と声を掛けてくれる。


「この街の知るってことは、何ていうか。前に住んでいた私の大切な場所の記憶をどんどん上書きして言っているようで、何だか不安で…。」


この街は素敵だから尚更、と続ける。
いきなりこんな話をされても彼は困るだけだと話題転換を試みようとしたが、それは彼の返答に遮られてしまう。



「忘れないよ。」




「君が見て、感じてきたものは、確かに記憶は薄れてしまうかも知れないけれど、その思い出は今君がここにいる証なんだと、俺は思うな。」

「ここにいる…証…。」

「そう。新しい事を知ったり、出逢いがある度に少しずつ心の引き出しにしまっていくんだ。そうすればきっと、何気ない瞬間に思い出すから。」



今の雨島さんみたいにね、と微笑む彼の笑顔に先程までの不安が溶かされていくようだった。


「だから今日も、これからも。過去の思い出に負けないぐらいの楽しい時間を過ごせるといいな。」

「…うん。」


そろそろガイドも終了時間で、最初に私が辰己さんに拾ってもらった船着場に帰る手はずだったけれど、辰己さんに「もう少し、時間大丈夫かな。」と訊ねられてゆっくりと頷く。



「どこへ行くの?」

「…内緒。」



先程よりも少しだけ早い速度でゴンドラは進んで行く。

ガイドで通った運河や水路よりももっともっと狭い、ゴンドラが通るのがやっとな水路を辰己さんは軽やかに漕ぎ進めていく。


「辰己さん、ここって…」

「もうすぐで着くから。」



その先の細い水路も、そのまた先の入り組んだ水路もゴンドラは突き進んでいく。

最後に暗いまるでトンネルのような水路が続き、水路を抜けた途端、視界には光がいっぱい、広がった。



「着いたよ…」


光に一瞬視界を奪われ、ゆっくりと目を開けた先に見えた物は。



「きれい…」

「春にしか見る事の出来ない景色なんだよ。」


見えた物は1本の大きな桜の木、その周りの水面には1面中に散った桜の花びらが広がっている。


「桜の絨毯みたい…。」

「ここの海流はぐるっと水路を回ってここに行き着くようになってる。散った花びらは親である桜の木の下に戻ってくるっていうわけだ。」

「戻ってくる…。」

なかなか他の人は知らない場所だよ、と辰己さんは花びらを水面から少し掬い上げる。


「まるで木が花びらを呼び寄せているかのようにね。この木にとって、花びらたちは自分がここに立っているっていう証だからね。…俺も花びらを追い掛けなかったらこの場所を知らないままだった。」


つられて私も花びらを掬い上げる。手の上でゆらゆら揺れる小さな花びらと、目の前にそびえ立つ大きな桜の木を見比べて私は高鳴る気持ちを隠しきれずにいた。


「本当は、前に住んでいた街が大好きで、正直ここへは来たくなかった。景色は綺麗だけど住むとなると実感なくて、今日だって少し旅行気分だった。」



「でも、辰己さんにゴンドラに乗せてもらって、前の街に負けないくらい、ここが好きになりました。この街に住む自分が誇らしくなった。」


顔を上げて真っ直ぐ辰己さんを見据えると、彼は返事の代わりに目を閉じてゆっくりと口を開くと、その口からは音が紡がれていく。

母に教えてもらった、舟唄だ。水先案内人の人がパフォーマンスやおもてなしの一つとして習得する唄。

私は目を閉じて辰己さんの歌声に耳を傾ける。


辰己さんの凛々しくも何処か儚げな歌声はまるで散ってゆく桜の花びらの様だと思った。
このまま目を閉じながら眠ってしまえそうなそんな心地の良い唄。


歌い終えると辰己さんははーっと息を吐く。
私がすかさず拍手を送ると彼はまた優しく微笑む。


「君に出会えた喜びと、これからこの街に住む君に歓迎の意味を込めた唄…楽しんで頂けたなら幸いだよ。」

「ありがとう辰己さん…。私、辰己さんのゴンドラに乗って本当に良かった。」

「そう言ってもらえるとすごく嬉しいよ。俺も雨島さんがお客さんで本当によかった…」


ああでも、と彼は更に続ける。


「お客さんって言うのはもう余所余所しいかな。これから同じ街に住むんだし、俺と早織はもう友達。」

「うん。琉唯君。」


それから私達は外へと出ていく花びらに付いていくように船着場へと船を漕ぎ出した。


船着場へと着くと、琉唯君は財布を出そうとした私の手をサッと抑えた。


「早織からお金はとれないよ。」

「え、でも乗せてもらったし、お仕事だし…」

「…じゃあ今日のところは貰っておこうかな。そのかわり。また俺のゴンドラに乗ってくれる?」


今度はお金なしね。と再度微笑む彼に私も笑顔で頷く。
次に乗る約束もしたのにゴンドラから降りるのが少し名残惜しくて差し出された琉唯君の手を取り岸へ足をつけるけれど、その手が離れる事は無かった。

彼も手を離すつもりはないようで、同じ気持ちだったら嬉しいな、等と考えているともう片方の彼の手が私の手を包んだ。



「これからの早織の生活が、素敵になりますように。これからもよろしくね。」

「うん。よろしくおねがいします。」


これから先の未来が素敵でいっぱいでありますように。











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