緑青
やっほー、とソプラノを響かせて顔を覗かせたのはすっかり見慣れた顔だった。又か、と思わず眉間に皺が寄る。何の用かと尋ねれば別にと返って来た。此処を休憩所か何かと勘違いしているのではないか。
「いいじゃない、仕事の邪魔はしないから」
果たしてその言葉をどれほど信用していいものか。しかし叩き出すというわけにもいかない。取り敢えず放っておくことにしようと再び視線を手元の書類に戻した。傍らには未処理のまま期限が近付く書類の山。書いても書いても減る様子がない。溜息を吐いて机の隅に置かれたマグカップに伸ばすが、数時間前に淹れた中身はとっくに冷めていた。仕方なく冷めたそれを一気に煽りペンを握り直す。
暫くしてことりと控え目に置かれた何かに我に返り顔を上げる。目の前には淹れ直されたコーヒーと、自分用だろうか、もう一つカップを持った彼女の姿。
「ごめん、邪魔した?」
「…いや」
丁度区切りのいい所だったし、構わない。そう返せば少しほっとした表情になりソファーの方に向かうブルーを目で追いかける。そこで気がついた。彼女が来る前まで酷く散らかっていた机の周囲や本棚の付近がすっきりと片付いている。この部屋に居るのは二人だけであり、自分がやったのではなければ彼女以外あり得ない。しかしいつの間に。動き回るブルーに気付かないくらいに自分は集中していたのだろうか。すまないなという謝罪なのか御礼なのか判らない言葉が自然と零れ落ちた。一瞬きょとんとした表情をした後、ブルーは少しだけ笑う。
「気にしないで」
私が勝手にやったことだし。そう言って空になったカップを回収する。自分のそれを差し出しながら違和感を感じていた。何だか、いつもの彼女と違う。普段のブルーならもっと恩着せがましくあれやこれやと見返りを要求してもおかしくないのだが。それに、カップを置いた時の謝罪。邪魔はしないからと言った後からその言葉まで、ブルーの声を聞いた覚えがない。そこまで考えて気がついた。今日の彼女は、煩くない。
「おい」
「なぁに?」
「…いや」
何を考えている。今は仕事中であるし、静かな方がいいに決まっている。それでも、彼女との空間が静かであることは何処か落ち着かない。否、落ち着かないというよりも。
「どうかしたの?何か様子がおかしいけど」
はっと気付けばブルーが近寄ってきていた。その表情からは純粋な心配の感情が窺えたが、やはりどこかぎこちない。
「無理しすぎはよくないわよ」
違うだろ。
「ちょっ…」
グリーン、と名前を呼ばれた時には既にその細い腰を自分の方に引き寄せていた。無理をしているのは俺じゃない。でも、無理をさせているのは俺だ。そうさせているのは自分のくせに、いつもと違うブルーでいられることを寂しいと心の何処かで思っている。何て自分勝手な男だろうか、自分は。そう自嘲するのと同時に情けなくなった。
「グリーン、」
どうしたの、と少し上擦った声で問うてくるブルーに返事をせずに、唯抱きしめる腕に力を込めた。