家政婦を辞めたいんです。
そう言った青に七身は驚きを隠せなかった。口に運びかけていたカップをソーサーに戻し、何があったの、と問う。瞬間、青の瞳から大粒の涙が零れた。詰まりながら七美に説明する。社交会での出来事、今の現状、そして自分の想い。

「私はっ…緑を好きになっちゃいけなかった、いけなかったのに…っ!」

叫ぶようにして内に溜め込んだ苦悩を吐き出す間、七美は黙って抱き寄せてくれていた。涙も枯れ果てた頃、七美が呟く。

「青ちゃんの気持ちは判ったわ。でもお願い、辞める前にもう一度だけあの子に会ってあげて」

青は暫く悩んだが、七美の真剣な目に小さく頷いた。

「今日は酷い顔なので…明日でも良いですか…?」
「えぇ、構わないわ」

覚束ない足取りで保健室を出て行った青を見送ると、七美は電話を取った。



すっかり見慣れた平屋の前で青は迷っていた。会うか、会わないか。しかしぐずぐずしていても辛いのは自分だと言い聞かせ、覚悟を決めて足を踏み入れた。仕事部屋の襖を開けると、机の前で胡坐をかいている緑の姿。入ってきたことに対して何の反応も無いので正面に回ってみる。彼は腕を組んだまま眠っていた。

「ちょっと、起きて」
「…ん、あぁ、すまない」

肩を掴んで揺さぶると案外簡単に目を覚ましてくれた。開かれたばかりの切れ長の眼の下には濃い隈があり、右手がやけに汚れている。

「辞める前に、読んで欲しいものがある」

汚れていない左手で机の上に散らばっていた原稿用紙をかき集め、差し出された。用紙の右下には『一人の物書きの男』の文字。前読ませて貰った者の続編らしい。青は無言で受け取ると目を通し始めた。


読み進める内に、話が今の自分達と似たような、否、全く同じ展開になっていく。そしてそれは男の下で働いていた給仕が辞めたい、と男に伝えるところで終わっていた。

「…?」

意図が判らず青は視線を文字から緑へと移す。それを待っていたように彼が口を開いた。

「この続きを、今此処で、文字じゃ無く言葉で書こうと思う」

流れるようなテノールが語り出すのは、本文中には殆ど無かった主人公の男の心情変化。女と出会ってから今迄の、感情の流れ。

「…女が辞めたいと言った時、男は酷く衝撃を受けた。男は彼女を好いていたからな」

それまで床の一点を睨んでいた視線が青を捉える。

「お前ならもう判っているだろう。男が誰で、女が誰なのか」

視線は外れないものの青の方が小さく震え出す。そんな青に触れるか触れないかまで近付き、緑はハッキリと言った。


「お前が好きだ、青」


その言葉を聞いた途端、張り詰めていた精神の糸がぷつりと切れる。何が何だか判らなくなり、覚えているのは嘘、嘘という否定の言葉と人差し指への衝撃、彼の頬に流れた一筋の赤い雫。
そして気付いた時には彼に口付けられていた。何時か触れた手と同じく、ひやりと冷たい。

「…これでも信じないのか」

唇を離して何処か泣き出しそうな瞳で緑が問う。先に涙のダムが決壊したのは青の方だった。

「私だって…アンタが好きよぉ…っ!」

肩にしがみ付いてわんわん泣き叫ぶ青の頬を大きく、そしてやはり冷たい手が拭う。

「…あ、悪い。インクが付いてしまった」
「良いわ。あ、私も引っ掻いちゃって…」
「気にするな、この程度直ぐ治る」

涙が緑の右手に付いたインクを溶かし黒い水となっていた。それでもお構いなしにそのまま赤い水を含んだ掌を重ねて指を絡める。

「ねぇ、もしかしてあの話寝ないで書いてたの?」
「………」

答えずにそっぽを向く彼に、青は泣きながらも笑った。





(耳、真っ赤よ)(…煩い女だ)



極月、結実。
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