光陰矢のごとし、とはよく言ったもので、この仕事を始めてから既に四月が経とうとしていた。そんな或る休日、朝食をとってから仕事部屋に引き籠っていた緑が夕方になって漸く部屋から出てくる。

「又調べ物でもしてたの?声かけてもうんともすんとも言わないで」

何かに熱中すると周りの音が聞こえなくなるのも彼の悪い癖である。しかし言ったところで改善される様子が無いので半分諦めているが。

「ちょっと、此れ読んでみてくれないか」

質問には答えず差し出されたのは原稿用紙の束。普段の生活態度とは裏腹にきっちりとした字が並んでいる。それ以前に今迄断固として見せてくれなかったのに、一体どうしたことか。

「え、良いの?」

無言で頷く緑に、青はぱぁっと笑って原稿に目を落とした。日常生活を知ったところで彼が自分の尊敬する作家というのには変わりない。その原稿を誰よりも先に読めるのだ、これ以上無い喜びである。
題名からして今回の話は物語だろうか。原稿の隅に『一人の物書きの話』とあった。



話の内容は一人の少年が紆余曲折を経て成長していくものだった。それだけ聞くとつまらなそうだが、その過程が物珍しいのだ。卒業と同時に家を飛び出し、海を渡り、異国の地の文化を学ぶ。そんな機会に恵まれたとしか言いようのない子供時代を過ごしながらも日本に戻り、物書きという仕事を選択した主人公は一体何を考えたのか。
話は途中で終わっていて、原稿の左半分は真っ白だった。

「滑稽だと思わないか」

不意にそんな問いを投げかけられ、文字の海を揺蕩っていた思考を引き戻す。問いかけた本人は何処か遠くを見ていた。

「散々自分勝手したくせして、最終的に平凡な結果に終えて」
「…滑稽だなんて、思わない」

首を横に振った青を緑は予想外だとでも言いたげな表情で見ていた。瞳が何故、と問うている。

「確かに自分を認めさせたくて海外に行っちゃった、ってのは自分勝手かもしれないわ。でも海外に行けるようにこの人は努力した筈でしょ」

海外との交流が増えてきたとは言え、留学出来る人間などほんの一握りに過ぎない。それに、例え海外に行くことが出来たとしても全く違う文化の中生きなければならないのだ。困難が付きまとったであろうというのは想像に難くない。

「主人公は楽をしていたの?ううん、きっと苦しんだ筈だわ」
「…そうだな」
「なら、滑稽じゃないわ」

誰であっても主人公の努力を否定するなんて許されない。そう言い切ると緑は何故かホッとした様子で口元を緩めた。その笑みの理由が判らず何か可笑しいこと言ったかと青は首を傾げる。

「そんな見方をしてくれる奴が居れば、そいつも救われるだろうな」

返した原稿を差し出した時より優しい手付きで受け取った作者は、今まで見たことの無い位に穏やかな顔付きをしていた。

「ねぇ、やっぱ自分の作品って子供みたい?」
「そうかもしれないな」

青の問いにそう返しながら、彼はその未完成の子供を大切そうに引出しに仕舞い込んだ。





(こいつは子供というよりも、)



粛霜、接近。
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