一歩踏み出す度に亜麻色の髪を結ったリボンが左右に揺れる。窓から差し込む陽光のお陰で明るい廊下には自分以外の生徒の姿は無い。それもその筈、その廊下の先にあるのは本来怪我人や体調不良者が行く場所である。しかしこの女生徒、青は特に傷を負った訳でも具合が悪い訳でもない。
目的地が近付くにつれ鼻を擽る良い香りが漂ってきた。今日のは初めて会う匂いだわ、と心を躍らせ青は保健室の扉を開く。

「あら、青ちゃん」
「今日和、七美さん」

白衣を纏った優しそうな女性がすぐさま気付き、微笑みかける。彼女はこの学校卒の保健医だった。更に青とは家が近所であることも手伝い、教師と生徒以上の縁がある。

「丁度お茶が入ったところだったの」

飲んで行くでしょ、という問いに笑顔で頷いていそいそと席に着く。此処は保健室特有の消毒液や薬品の匂いが無い。それどころか常に花の香りに満ちていて、それで四季の移り変わりを感じる程だった。そんな環境と心優しき保健医の存在、それが青は此の場所を気に入っている理由の一つである。そしてもう一つの理由が目の前に出された紅茶。

「これ新しい種類ですよね…あ、でも凄く美味しい!」

薄い茶色の湯からは林檎の様な甘い香りがした。尋ねるとアップル、という名前らしい。英語に疎い青もそれが林檎を表す単語であることは知っている。この種類も一口目で好きなものリストに追加された。

「はぁーあ、仕事先なんて本業のくせして七美さんの淹れるのと比べ物にならない位酷いんですよー」

唇を尖らせ内職先の愚痴を零す、と七美は困った様に笑った。

「喫茶店だったわね、確か」
「はい」

本来なら学生の内職は禁じられているが、青には両親が居なかった。そのため特例として許可を得、学業と内職を両立させている。

「今の所、仕事の割にお給料安くて」

結構苦しいんです、と机にへばり付き、ソーサーの上のカップを指で弄ぶ。そんな青を見たナナミは暫し考えた後にこりと笑って言った。

「ねぇ青ちゃん、家政婦にならない?」
「…はい?」



彼女の話によると、七美には一人暮らしの弟が居り、その身の回りの世話をして欲しいということだった。当然学生の身である青の学業に支障が出ない程度で良い、と言われ、半ば強制的に地図を渡される。家政婦という仕事は経験したことはないが、己も一人暮らしをしているから家事や料理にはそれなりの自信があった。それに日頃お世話になっている七美の願いである。少しでも恩返しになるのなら、と青は了承した。


渡された地図を頼りに道を歩く。一人暮らしと言ってもそこまで遠く離れているのではなく、青や七美の住んでいる地区の隣が、新たな仕事場だった。

(家族が居るのに一人暮らしだなんて)

変わってるな、だなんて考えている間に到着したのは、中々に年季の入ってそうな平屋。もう日も傾きかけて周りの家は明かりを灯し始めているのに、目の前の家は明かりどころか人の気配も感じない。留守かと思いつつ扉を叩く。硝子の嵌められたそれが揺れて音が響いた。たっぷり数分置いてから、引き戸が開き、自分より頭半分程背の高い青年が顔を覗かせる。

「…誰だ?」

低めのテノールが呟く様に問うた。その声色には何処か人を寄せ付けまいとする感覚があり、青は言葉を失う。しかし黙っているわけにもいかないので無理矢理声帯を働かせ、此処で働くよう言われてきた旨を伝えた。しかし彼は必要無い、と言い切り、家の中へ戻ろうとする。慌てた青は彼の着流しの袖を引き、叫ぶように言った。

「七美さんに言われたんですけど!」

すると手にかかっていた力が緩み、青年が此方を向く。

「姉さんに?」
「え、あ、はい…」

言葉の雰囲気が変化したことに戸惑いながら頷く。青年は口元に手を当て何やら考え始めた。その姿が七美と瓜二つで姉弟であることが窺える。そんなことを考えていると再び青年は此方に背を向けた。その背中に何か言わなくては、と口を開くより先に、入れ、とぶっきら棒な言葉をかけられる。拍子抜けしたまま彼に続き、青もその家の敷居を跨いだ。


待ってろ、とだけ言い残し、青年は部屋を出ていく。残された青は大人しく座り、部屋を見回した。壁の本棚にはぎっしりと書物が詰まっている。日本文学、西洋文学、物理、医学、薬学、その他。青には到底理解出来そうにないものばかり。圧倒され軽く頭痛を覚えた頭を押さえ、視線を別方向へやる。窓際に配置された机の上には青も見覚えのある本があった。立ち上がりそれを手にした瞬間、青年が姿を表す。

「姉さんから話は聞い…何してる」
「あ、ご、ごめんなさい」

さっと持っていた本を元の位置に戻す。無言で部屋に入ってきた青年に、青は思い切って話しかけた。

「貴方も、此の本好きなの?」
「…好きも何も、俺が書いた本だ」

言葉の意味を理解するのに少々時間がかかった。今彼は何と言った。凍りついている青を他所に、青年は本を棚に戻しながら言う。

「俺は物書きをしている。姉さんから聞いてないのか」
「聞いて、ない…!」

もう頭の中はてんやわんやだった。彼が書いたという先程の本、それだけでなく彼の書いた本全てを読破しており、こんな文を、こんな話を、意見を書ける作者に憧憬の念を抱いていた。その人物が今目の前に居る。
気付くと口が勝手に語り出していた。

「…良く喋る口だな」

そんな彼の言葉ではっと我に返る。正面の彼は先程より不機嫌そうな顔をしていた。呆れられた。そう思い恥ずかしさから頬に熱が籠る。同時に此処で働くことも断られるだろうと落胆の感情が押し寄せ、青は俯いた。しかしそれは良い意味で裏切られることになる。

「仕事内容は、」
「!」

ぱっと顔を上げた青に青年は淡々と仕事の内容や時間、それに対する報酬金額等を説明した。

「あと」
「はいっ?」

一言一句聞き漏らすまいとメモをとっていた青が返事をすると、青年は何処か気まずそうに視線を逸らす。

「…敬語はいらん。同い年だしな」
「え、」

同い年、と驚く青に青年は溜息を吐きながら頭を掻いた。年上だと思い込んでいたが、同い年と知り何だか親近感が沸く。

「それで良いか?」
「はい、あ、えぇ構わないわ!」

驚きの連続で高鳴る胸を押さえながら、青は頷いた。





(そういえばお前、名前は)(あれ、言ってなかったっけ…)





薫風、一会。
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