急にめっちゃペラペラ喋りだしたクロードの話はこうだった。

 この長雨を理由に大修道院に留まる者のなかには、傭兵も少なくない。
 先ほど“使用時間は分かれている”と注釈したが、このところ民間人の時間外使用が目立つ。街まで出る手間を惜しんで、食堂で酒盛りしているらしかった。
 セテスが渋い顔で「生徒たちの情操教育に悪い」と主張しているのは、やはり“生徒”のなかにフレンが含まれるようになったからだろう──という見方が強い。
 アロイスとカトリーヌが揃って「何度か注意喚起を行ったのだから、暫く様子を見よう」と答えてから、状況が改善されることも悪化することもなく、何となく夜の食堂には近づかないことになっている。尤も、民間人が集まる以前から、夜の食堂は騎士団員の溜まり場と化していた。そういうわけで、最終的に夜間における食堂の風紀は騎士団員の判断に委ねられた。そこまではナマエも知っている。
 こうした背景を踏まえて、クロードは見聞を深めるために夜毎食堂に足を運んでいたらしい。流石に「ここまで飲むことは滅多にない」とは言っていたが、よくそんな体力があるものだ。俺は先生と違って頭脳派だからとか何とか付け足したのを差し引いても、素直に感心した。今度から雑用は全部クロードに任せよう。

 そこで見ず知らずの人と親睦を深めるうち、クロードはとある噂を耳にした。
 ナマエがドジを踏んで盗賊に捕まった後──まあ碌でもない猥談だ。
 クロードが言い淀んでくれたのは、かえって有り難かった。
 ナマエも自分が卑猥な目にあっている話を聞きたいとは思わない。そもそも卑猥な目にあった覚えもないし、何故そのような話を作り出すのか思案したところで徒労だからだ。しかしまあナマエにはよくわからない心理に陥ったクロードは、噂の真偽を突き止めたいという気持ちになった。クロード本人は「既に酔ってたから正常な判断力を有していなかった」とし、兎に角お酒でアッパラパーしてる間に話を聞き、杯を重ねるうち、このような本格志向のヘベレケ男になったらしい。

 何にせよ、盗賊如きに後れを取る人間だと思われたのは面白くない。
 増して少なからず信頼している相手に「先生ならあり得るかもしれない」と思われたらしきことは一際ショックだった。おまえは一体私を何だと思っているんだ。
 確かに思いがけない人物の口から知人の名が出れば、関心を持つのも分からないではない。クロード自身も「今思えばその時点で強かに酔ってたんだよな」「話のディテールも細かかったし」と言い募っていたが、やはり「これがもしカトリーヌやマヌエラの噂であれば一笑に付したであろう」という疑念は消えなかった。
 酔眼にもナマエの不機嫌は伝わったようで、クロードが引きつった笑みのまま「先生が盗賊なんかに負けるはずないよなあ」「並のゴロツキ相手なら、両手足使えなくても征圧出来そう」というおべんちゃらを捲し立てる。口の減らないやつ。
 根も葉もない中傷にショックを受けるなんて、実に幼稚で、自分らしくないことだ。しかも生徒の前なのに。そう分かっていても、平気な風を装えない。

 何の自慢にもならないが、ナマエは父親以外に敗北を喫したことはなかった。
 剣を手にしている限り、苦境らしい苦境に立たされることもない。そもそも傭兵にとって、剣を手放すことは死に直結する。入浴時や寝る時でさえ、腰に下げた短剣は外さない。今も、手に届く場所に置いてある。いつでも戦えるように。
 そんなナマエがまるきり武装解除することなど……そこまで考えて、ふと詰まらないことを思い出した。そういえば数年前、しょうもない目にあった気がする。
 ナマエは記憶の糸を辿った。事実だった場合、クロードを謀ったことになる。別にナマエの貞操があろうとなかろうと如何でも良いのだが、他人に嘘をつくのは躊躇われる。下手な嘘をつくと、後々大事になるからだ。如何大事になるのかは分からないものの、とりあえず大事になる前に弁明しておくのが良い気がした。
 か細い糸を手繰り寄せて、ナマエはああでもない、こうでもないと考える。

 なんか思い出しそうで、思い出せない。

「……話し手はどういう男だった?」
「え? いや、それがもう先生とは比べものにならないぐらいオツムが弱そうで」
「おべんちゃらは良い」
「赤毛を短く刈り上げてた四十手前の男。目の色は榛色で、右に黒い眼帯をつけてる。ファーガス出身で、王立魔道学校を中退。得物は槍。治癒魔法を囓ってる」
 あっ。無表情のなか、ナマエは珍しく心中で声を上げた。クロードが酒を酌み交わしただろう相手の顔がポンと浮かぶ。ほんの数年だから、外見も変わっていないだろう。ナマエはいよいよ無表情を崩して、頭を抱え込んだ。
「まさか……本当に知り合いってことはないだろ?」
 恐る恐るといった調子で、クロードがぎこちない笑みを作る。
「知り合いだ。それに、クロードが聞いた話も丸っきりの嘘ではなかった」
 ナマエの言葉にクロードが凍り付いた。

「いや、でも、男に乱暴されたことはない」
 慌てて釈明するも、クロードが納得する様子はない。当たり前か。

「ただ、されかけたことはある。その時の話に尾ひれをつけたのだろう。君が聞いたとおり、彼は当時の仕事仲間だ。彼を人質に取られたので、一時的に投降した。その際、脱出するまでの間にまあまあ不愉快な目に合ったかもしれない」
 一気呵成に畳みかけると、クロードは奇妙な顔をした。
 流石のナマエも「なーんだ、嘘じゃなかったとはね!」と笑ってくれとまでは望まない。でも別に、別に良いじゃないかという開き直りが頭をもたげる。
 セイロス教の教義が子孫繁栄と自由恋愛を大いに推奨しているのであれば、ナマエの貞操があろうとなかろうと如何でも良いではないか。ナマエ当人が如何でも良いと思って忘れているものを、何故こんな真夜中にほじくり返されるのだ。

 恋愛経験のないナマエでも、それなりに色事について知っている。
 このフォドラ大陸において女傭兵は珍しいものではないし、父親もナマエという娘がいるからか、団内の男女比が均等になるよう気を配っていた。
 流石に団内恋愛まではなかったと思うが、男女入り乱れて猥談をしている現場には幾度か遭遇した覚えがある。同性同士の気安さで、巻き込まれたこともある。
 そういうわけで、世間知らずのナマエでも妊娠のメカニズムは理解していた。
 要するに妊娠以外はかすり傷という認識で生きてきたため、世間一般でいうところの“乱暴”がどこからどこまでを指すのかイマイチ曖昧なところがある。嘘をつこうと思ってついたわけではない。ナマエは口元に手を当てて、じっと考え始めた。

 ……挿入される前に殺したので、セーフではなかろうか。

「先生……それをさあ、それを」
 いつからか、考え事が口から漏れていたらしい。
 クロードが愕然とした顔で、ナマエを凝視していた。「もうさあ、」と呟いたあたりで何か胸に去来するものがあったのだろう。両手で顔を覆って、項垂れる。
「それを人は“男に乱暴された”って言うんじゃねえかな?」
 そうかな。ちがうかもしれない。そうじゃないような気がする。どうだろう。
「でも最後まではしていないし、私は気にしていない。それで十分だろう?
 不名誉な噂を流されているとはいえ、頭から信じる者は少ない。所詮、束の間この修道院に身を寄せただけの人間だ。誰も真面目に受け止めはしない。
 それに不審に思ったなら、クロードのように真偽を確かめに来る。問題ない」

 クロードは再び沈黙した。

「……嫌なことを聞くが、もしヒルダやマリアンヌが同じ目に合ったら如何する」
 一体何故……何故ナマエはこの真夜中に貞操の話でアツくなっているのだろう。
 最早クロードがヒルダたちを持ち出す理由も分からず、ナマエは半ば苛立ち混じりに否定した。「あの子たちに“もし”はない」眉を寄せて、苛立ちを匂わせる。
 どれだけ親しく付き合っていても、ナマエと彼女たちでは前提から違う。
 ナマエの場合はある種の捨て駒で、ドジを踏んでも先ず助けは期待できない。しかしヒルダやマリアンヌに限って言えば、彼女たちはどれだけ前線に出ようと貴族令嬢で、その身柄を軽んじられることはないはずだ。レオニーにしろ、この士官学校を出ればそれなりの役職に就くだろう。一介の傭兵屋としてやってきたナマエとは違う。それに、ナマエなりに「生徒が自分と同じ失敗をしないよう」教えているつもりだ。それなのに、やはりクロードの目には不十分に見えるのだろうか。

「それでも、分かんないだろ? 人生、何が如何転ぶかなんて分からないんだ」
 クロードはナマエに言い聞かせるように、淡々と言葉を吐く。

 これでは、もう……どちらが教師なんだかな。
 そう自重した途端、不意にリシテアの後ろ姿が脳裏に蘇った。
 私にはあまり時間がないんです。そう独りごちるリシテアに、ナマエは言葉に迷った。また、望まぬ婚約を勧められたイングリットへも、碌な対応は出来なかった。イングリッドの時はドロテアが、リシテアの時はローレンツがいてくれた。
 ……ナマエなりに「生徒が自分と同じ失敗をしないよう」教えているつもりとはいっても、たかが一年。精確にはもっと短いだろう。あっという間のことだ。
 本当に、クロードたちが慕ってくれなければ──ナマエは“教師”を名乗ることは出来なかったに違いない。皆のなかで、ナマエが一番先のことを考えていない。
 教師と生徒という枠に甘えて、教師の真似事をしているだけ。受け持っている生徒が卒業したら如何なるのか、具体的には考えたこともない。漠然と、二度と会わないのではないかとさえ思っている。ナマエ自身の意思で未来を思ったことがないから、自然にガルグ=マクに来る前の青写真をなぞろうとしてしまう。
 父親と二人で傭兵をやっていくのが、自分の本来在るべき姿だと感じている。
 今ここでクロードと向き合っていることも、たまさかの幻のように思う。目が覚めたら、また、どこかの荒野なのではないかと……そんなことを思っている。

 色とりどりの服を身にまとって、踊るように歩く少女たち。
 どれだけ強くなろうと、自分を父親のアキレス腱と思って切りかかる男たち。
 目に映るものも、肌に触れるものも、耳朶に響く音も、何もかも他人事の世界。
 あの空っぽの世界こそ、自分の“本当の居場所”だったのではないかと思う。

 そうでなければ、こんな、ぐちゃぐちゃな自分のまま生きていくのは辛い。

(わしは、この小僧の言うことも正しいと思うがな)
 不意に、ソティスの声が聞こえてきた。クックッという笑い声も。
 ナマエは反射的に顔を動かし掛けたが、クロードの姿を見て我に返った。それでもナマエの表情が変わったのは気付いたらしく、きょとんとしている。
「あ……少し、足がしびれて」
 しょうもない嘘をついて、ナマエは足を崩した。

(なんじゃ、珍しい……おぬしらしくもなく動揺しておるのか?)
 ソティスは振り向きもしないナマエの旋毛に、あどけない欠伸を吹きかける。
(それにしても、わしの眠っている間に教え子を連れ込むとは……中々如何して、おぬしも俗人らしくなってきたではないか。それで“ちゅー”の一つもしないで胡乱な議論を重ねているのはつまらぬが……ま、いっかな男と女と言え、おぬしらは朴念仁じゃからのう。もっと早う起きていれば“あどばいす”してやったものを)
 その見た目通りに無邪気なソティスはナマエたちの周りをぐるぐるする──まるでスキップでもするかの如く、上下に弾みながら。ナマエはクロードに気づかれない程度に、ちょっと顔を歪めた。ソティスに「少し黙っていてくれ」と念じる。
(いーではないか。どうせ、この者にはわしの声は聞こえぬ)
 ソティスは半透明の腕でパカスカ、クロードの頭を好きに叩きはじめた。
「……先生、どうした?」こめかみからソティスの腕を生やしたクロードが、不安げに眉を寄せた。「何か嫌な気分になったんだったら、俺は……」
(ほれ見たことか。そもそも、おぬし一人でこの小僧と問答出来るはずもない)
「いや、そういうわけではない。クロードの、先の言葉について考えていた」
 ナマエがクロードの言葉を制すると、ソティスは喉を鳴らして笑った。

(年功序列というのは便利なものよな、目下の口を封じるには特に良い)
 形の良いアーモンド型の瞳が僅かに細められ、“面白い”と言わんばかりに輝いている。目を覚ますなりシカトされたことへの憤りは、幾らか晴れたらしい。
(おぬしと来たら、折角時を戻す力を与えてやったにも拘わらず、こやつらと出会った時を最後に無きものとしているではないか。まあ軽々しく多用するものでもないが……どーせ他人の意思や行動を損なうようで、使う気にならないのであろ)
 横目にナマエを捉えると、ソティスは口の端を歪めた。その不敵な笑みを浮かべたまま、窓辺の指定席に移動する。(結局、おぬしは未熟ものじゃ)
(今は……時を戻すも戻さないも関係ないだろう)
 ナマエはクロードの肩越しに、ソティスへ視線をやった。
(なあに、根は同じよ。薄々分かっていよう、おぬしには覚悟が足りん)
 ソティスは前のめりに姿勢を崩して、全身の力を抜いた。
 その仕草は、まるでソティスの前に透明なテーブルがあるかのようだ。
(この小僧がどれだけ説いたところで、おぬしには何を言いたいかは理解できなかろうな。まあ、あながちおぬしだけのせいでもないだろうし、責めるまい。
 ……木偶の前に本を広げ、何故文字を読まぬか詰ったところでのう)

(無論無論、おぬしは木偶ではあるまい。一つの喩え話じゃ)
 ソティスの笑みがケラケラと陽気に弾む。それを耳にしてから、ナマエは自らの胸中に苛立ちが在ったことを知る。何に苛立っているのかは、分からない。
 いつものことだ。今までずっと、こんなに胸がゴチャゴチャして、頭のなかが他人のことで一杯になるなんてことはなかった。目の前にある敵をなぎ倒して、剣の腕を磨いているだけで十分幸せだったのに、ここへ来てから、ずっとこうだ。
 夜毎、生徒たちのことを考える。その人生に自分がいてはならないはずなのに、これから先の未来もずっと一緒にいられるのではないかと思ってしまう。

 教師だなどと、馬鹿馬鹿しい。
 自分一人の未来を決めることさえ躊躇うナマエに何が出来る。
 クロードたちへ助成したのも、エーデルガルトを庇ったことも、ここへ来たのも、何か崇高な目的意識があったわけではなかった。ただ父親が行くと言うので付き従った。暫くここへ滞在すると言うから、一先ず教職について引き受けた。
 ……とんでもないことをしているのではないかと思ったのは、担当学級を選ぶ段になってのことだ。それでも未だ、いざとなれば担当が変わるだろうと思った。

 自分の言葉が、行動が、生徒の人生を変えることになるなどとは思いもよらず──自分の勝手なエゴで他人の行動を阻害したり、覆すことがあって良いのかも躊躇われて──目の前で味方を失おうとも時間を巻き戻す気にはなれなかった。
 誰しも皆、自分の精一杯を生きて、そのなかで死んでいくものだ。
 ナマエの都合や自己満足で命を救うのは……いや、単純に空恐ろしいのだろう。

 他人の願いや努力を踏みにじることが怖い。
 どれだけ多くの人間を犠牲にしてでも生きていて欲しいと願うのが怖い。
 それだけの激情で、自分の全てを差し出してまで他人を求める日が来るのではないかと思うと、ひたすらに怖い。ナマエは臆病者だ。他人と深く関わるのが怖い。
 他人の未来に、自分が深く関与することが怖い。

(……異なる種の生き物が寄り添い生きることは難しかろう)
 ソティスはトンと──実際には何の音もしないのだが──軽やかな足取りで床に降りた。クロードの脇を素通りしてこちらへやってくる。
 ナマエの隣にしゃがみ込んで、決して合うことはない視線を追った。
(わしには、ようく分かる。その“よく分かってしまう”のが悪いのであろうなあ)
 ふっと、ソティスが遠い目をした。
(あまり厳しいことを言うものではないが、結局のところおぬしのことはおぬしにしか分からぬことよ。……それ故におぬしもな、わしのことまで負わんでいい)
 ソティスは長い衣をひらめかせながら、踊るようにナマエの傍を離れていった。

(わかっておろう。あの“分厚いガラス”はわしのものだと)
 晴れやかに笑うソティスは、ナマエ以外の誰の目にも映らない。

 小さい頃からずっと、目に映る全部がガラス一枚隔てて見えた。
 恐怖も不安も喜びもない世界で、父親に手を引かれるままに生きてきた。それが良いのか悪いのか、他人が言うように不憫なことだったのかさえ、ナマエには分からない。ただナマエが生きる上で、あの分厚いガラスは必要なものだった。
 それでも、あのガラスのなかに居心地良さを感じていたからこそ、今の“自由”に戸惑うのだろう。恐怖も不安も喜びもなく、誰の人生にも拘わらない。端から他人と関わらずに生きてきたナマエにとって、分厚いガラスのなかは安全地帯だった。
 ……そこに、ソティス一人を残してしまった。それが自然なことなのだと納得しているくせ、ナマエよりずっと人間らしい少女。彼女一人が、あそこにいる。

(はあ……わしは辛気臭い話は嫌いじゃ)
 ソティスが心底不愉快そうに呟いた。

(一人で雨月の宴としゃれこむが、万一乳繰り合うことになったら呼ぶが良い。
 それとな、この小僧はおぬしの技量を疑っているわけでも、教師として不適切なのではないかと思っとるわけでもないからの。全く、おぬしの白痴には呆れるわ。
 どうせおぬしには分からぬのだから、ありのまま言う他あるまい)
 呆れ切った声を出すと、そのままプイと扉をすり抜けていってしまった。
 また二人きり。クロードはナマエの言葉を待って、口を噤んでいる。
 ソティスの言った通り、ナマエにはこの教え子の気持ちは分からなかった。


「クロード、少し考えたけれど、やはり答えは変わらない」
 ナマエが長い沈黙を破ると、クロードがハッとした表情で顔をあげた。
「私の生徒は私と同じ目に合わない。
 ここにいる間も……卒業した後も、君たちに困難が生じたら必ず助ける。
 君たちも、自らの苦境には必ず私を呼んでくれると信じている。だから……」
 ナマエの台詞を遮って、クロードが深いため息をついた。
「……参ったな。俺はあんたほど手放しに他人を信頼できないもんでね」
 弱り切った顔を晒して、口元に手を当てて隠す。
「無礼なことを聞いて悪かったよ。夜遅くに叩き起こしたのも反省してる。
 本当は俺たちの先生が盗賊なんかに遅れを取るとも思っちゃあいなかったんだ」
「それは……もう構わないが、無闇に体を冷やすのは止せ」
「ああ、うん」クロードが曖昧な笑みを浮かべた。「少しは分かってほしいんだが、あんたの実力とか関係なしに、あんたが酷い目にあっていたら嫌だった。
 たかが生徒がそういう風に思うのは、あんたのプライドを傷つけるか?」
 懇願めいた問いを受けて、ナマエは答えに窮した。

「もっと言えば、あんたは誰かに守られたいと思うことはなかったのか?」
 遠く、雷鳴が天を穿つ。カッと高い音がして、視界が青白い雷光で満ちた。

「あんたが何者でも……片時も、そばを離れずに……」
 雨垂れに混じって、隣室の扉が開く音がする。頭上からも何人かの足音が、パラパラと断続的に降ってきた。目を覚ました生徒たちが、外の様子を確かめるために窓辺に近づいたのだろう。ドゥドゥーは、温室でも見に行ったのかもしれない。パシャパシャ、石畳を蹴って走る音が聞こえる。せんせーえ。ドロテアの声だ。せんせーえ、タオルぐらい貸しますよおー! 二人揃って、こんな時間まで夜遊びしていたらしい。咄嗟に「未だ若いのに」と思う自分が可笑しくて、目を眇める。
 眩んだ瞳にも、クロードの頬の火照りが分かった。
 クロードは“失言をした”とでも言いたげに顔を顰めて、上体を捻った。少し高い場所にある窓を見上げて、「酷い雨だ」と低く呟く。あまりに頼りない声だった。
 ナマエはこっくり頷いて、誰かが扉を叩くのを僅かに期待した。


『あんたが何者でも……片時も、そばを離れずに……』
 ナマエはただの一度も、そんなものを望んだことはない。

 人質を取られたことも、たかが盗賊に捕まったことも、父親には言えなかった。
 父親に失望されるのが嫌だった。それ以上に父親が傷つくのではないかと思って……自分の身に起こったことで、自分の行いで父親が傷つくのが怖かった。
 今、他人と深く関わるのを恐れるのと同じだ。尤もクロードたちとは違って、父親とは否応なく関わってしまったから、もう如何しようもなかった。
 父親は根気強かった。ナマエは自らの意識が外界から剥離することを“分厚いガラス”に喩えたが、父親はそのガラスを薄くすることでナマエを“外”へ連れ出そうとした。人間離れしたナマエに、最低限の道徳が備わっているのは父親のおかげだ。
 目を開けていても時も微睡んでいるような娘相手に、ジェラルトは算術も教えたし、簡単な地理も、文字の読み書きも仕込んだ。ふつうの子どもへするように。
 傭兵仲間から「こんだけ剣術が達者なんだから良いじゃねえか」と言われても、父親はナマエに“ふつうの教育”を施した。今のナマエが頼りないながらも何とか“教師”としてやっていけるのは、本当に何もかも父親のおかげだ。
 教師として過ごすなか、ナマエは父親の偉大さを改めて思い知った。

 ナマエは物心ついた時にはもう人を殺す方法を知っていた。
 誰に教えられるまでもない。ナマエの魂はすぐに肉体から剥離して、何もかもを“他人事”として捉える。そうした奇妙な達観から、ナマエは死を恐れなかった。
 今にして思えば、気味の悪い子どもだった。父親が各地を転々として、長く付き合う相手を持たなかったのは「自分のせいだったのではないか」とも思う。
 ナマエが父親だったら、自分のような子どもを如何教育したら良いのか分からない。正当防衛とはいえ、人を殺したことに何の感情も見せない子どもだ。もしかしたら剣を取り上げるかもしれない。しかし、結果としては剣に親しませることがナマエの自主性を育んだ。ナマエが「任務を達成する上で如何殺すのが一番良いか」自分で考えられるようになったのは、やはり父親の教えによるところが大きい。
 ジェラルトはナマエの全てだった。これからも、それは変わらないと思う
 それで、ナマエが独り立ちを──父親のいない未来を受け入れられないのは、ナマエが“ふつうの子ども”じゃないからだと思う。どれだけ強くなっても、ナマエの内面は丸きり成長してない。だから父親は、ナマエから目を離すのが心配なのだ。
 僅かな猜疑心と罪悪感。ナマエの無関心と父親の寡黙とが複雑に絡み合って、二人に“ふつうの親子”としての時間を与えてくれなかった。

 もう止めよう、まだ何とかなる、まだ一緒に居られるの堂々巡り。

 一体幾度、父親は悔いたのだろう。故郷も持たず、年も数えず、学校にも通わせない。他人と無理に関わることはない。少女らしい服を買い与えることもなかった。それが皆ナマエを守るためだったのだとは、ナマエが一番よく分かっている。
 ナマエが望めばどこかに定住することもあっただろうし、学校へも通わせたに違いない。でも、そうはしなかった。ナマエ当人がそれを望まなかったからだ。他人と関わる手間を惜しんだのも、スカートは要らないと思ったのもナマエだった。
 自分が父親と一緒に往くために“ふつうの女の子”になろうとしなかった。
 ワンピースより剣を欲した。強い剣士になりたかった。父親より、ずっと強く。
 父親が「ふつうの女の子として育てたほうが幸せだったのではないか」と悩むことがないように、自分の選択を否定する日が来ないように、強くなった。
 私は父さんの娘に相応しい人間なのだと、他ならぬ父親に理解して欲しかった。

 死の際でも、私のことを誇らしいと思って欲しい。
 分厚いガラスのなかにあって、それがナマエの精一杯の愛情だった。
 母親について問うことも、父親の過去に興味を持つこともなく、藍色の目に映る景色は虚しく過ぎ去っていく。ナマエとジェラルトを結び付けていたのは間違いなく血縁の情だったけれど、二人の関係は親子である前に仕事仲間だった。
 ナマエは“ジェラルトの娘”に相応しくあろうと、ただそれだけで生きてきた。

 それなのに、ガルグ=マク大修道院に来て初めて“傭兵”ではない自分を知った。
 スカートが欲しかったわけでも、学校へ行きたかったわけでも、どこかへ定住したかったわけでもない。時間が巻き戻っても、やっぱりナマエは傭兵として暮らすだろう。でも、ルミール村へも行くと思う。何度でも、ここへ来ると思う。
 父親がナマエに傭兵団を託して離れる時、ナマエのなかにはいつも「父親がいつ戻ってきても良いよう良い結果を残さなければ」という気負いがあった。その一方で、強くなれば強くなるほど「もう俺がいなくても大丈夫かもな」と言われるのが嫌だった。冗談交じりに別離を匂わす父親自身、ナマエの手を離せないくせに。
 先のことを考えることを止めて、何も感じない体を動かして、剣を振るう。
 もう、いつまでも父さんに甘えるのは止めよう。今ならまだ何とか、一人で生きていける。未熟なままでいれば、まだ一緒に居られる。もう──まだ、まだ。
 治癒力が高いばかりか、どれだけ剣を振っても疲れない体。自分のことなのに、過去について覚えていることもごく少なかった。情緒さえ人並み外れて鈍い。
 自分は“ふつうの人間”ではない。畏怖や怯え、嫌悪に満ちた視線がナマエを射貫く。強くなければ父親の足手まといになる。普通でないから、距離を置かれる。
 多分、本当は、自分たち親子はもっと色んな事を話すべきだったのだ。
 ……勿論、父親とて分かっていただろう。

 自分たちはもっと色んな事を、腹を割って話すべきだった。
 しかし、そうは出来なかった。何故と言えば、ここへ来るまでのナマエには、あまり多くのことを考えるゆとりがなかったからだ。分かるのは、今の自分が如何するべきか、次は如何したら良いのか──その二つだけ。まるで機械人形だ。
 傭兵以外の生き方を知らない娘に、父親は飽くまで“父親”として振る舞った。
 初めこそ渋々大修道院へやってきた父親だったが、今では教職に追われるナマエを見て嬉しそうにしている。父親にしろアロイスやレオニー、レア以外にも古馴染みは多いようで、心なし傭兵をやっていた時より生き生きしている気がした。
 ここへ来たときは、長居しても一年だと思っていた。自分に教師という役が務まるにしろ、務まらないにしろ、いずれはまた父親と二人で漂泊の旅に出る。そう思っていたから、父親に「レア様に気を許すな」と言われても気にならなかった。
 それなのに……いつからか、すっかりこの場所に親しみが湧いていた。

 ただ一年、この子たちが卒業するまでの縁。
 心のどこかでそう思っていて、ここで暮らす日々を“現実”と認められない自分がいる。ただ一時、たまさか交わっただけのことで、自分は本来この子たちの人生にいるはずのない存在なのだと──そうでなければ、ここを去りがたい気がして。

 ナマエは苦笑した。
 雨は降り続けているものの、もう誰の足音も聞こえない。
 クロードは部屋を出るタイミングを見失ったまま、タオルにくるまってボンヤリしている。平素の自分みたいだなと、ナマエは思った。可笑しかった。

「……本当に大した目に合っていないよ。だから忘れたんだ」
「いいや、先生の“大した目に合ってない”ほど信用できないものはないね」
 クロードが破顔と共に、ナマエの否定を茶化した。
 本当に“取り繕う”のが上手い青年だ。クロード当人も言っていたが、酒が入っていなければこんな無防備に自分を曝け出すことはなかっただろう。だからこそ、酔いが醒めたことで、我に返ったに違いない──仮にも教師であるナマエ相手に性的な話題を振ったのは愚行だったと。まあ、もう、言ってしまったものは仕方ない。
「そんじゃまあ、酒精に拐かされて散々な醜態も見せたことだし……帰るかな」
 クロードは、来たときの千鳥足が嘘のように機敏な動きで立ち上がりかけた。
 ……“立ち上がった”で終わらなかったのは、彼が無様な音を立てて床に崩れ落ちたからだ。強がってはみたものの、やはり未だ酔いが抜けきってないらしい。
 顔から床に突っ込んだクロードがワナワナ震えだした。

「まあ、待て」
 ナマエは足払いに使った剣で、クロードの背中をつっつく。

「あんた、心配するフリして……本当は俺を再起不能にしようってのか?」
「馬鹿を言うな。喩え全身骨折で動けなかろうと、君はうちのクラスの主力だ。
 その減らず口が動くなら、ディミトリやエーデルガルトとも平気で渡り合える」
「へえ、この俺を踏み台にしようって?」
 クロードはよろよろと、わざとらしい仕草で上体を起こした。
「俺ァ他人を囮にするのは大好きだけど、自分がされるのは大嫌いだね」
 口元は笑っているものの、深緑の目はハッキリとした不服を訴えている。
 折角“馴れ馴れしい生徒”としてこの場を辞すチャンスだったのに──と言わんばかりに口を尖らせて、そっぽを向く。そうしていると、見た目より幼く見えた。

「……何があったか話すから、君の気持ちは君で処理してくれ」
 そう口火を切って、ナマエは碌でもない猥談の由来に思い馳せた。


 ナマエが一端の傭兵屋になると、父親から指揮を任されるようになった。
 はじめは「依頼が被っちまうとは、こいつは参った」だったのに、いつからか「この程度なら俺がいなくとも問題ない」という軽々しい台詞に変わっていった。
 最初は「自分のような若輩者が任務達成の報告をしたところで信じて貰えるのだろうか」と案じていたものの、それについては年嵩の仲間が引き受けてくれたので問題はなかった。それに、父親がいようといまいと“ナマエがやること”に変わりはない。ナマエが父親の不在に慣れるまで、そう時間は掛からなかった。

 そういうわけで、その日もジェラルトは不在だった。
 依頼内容は盗賊退治。それこそ、物心つく前から何百回何千回とやってきたことの繰り返しだ。仲間の顔ぶれが変わっても……なんならナマエ一人でも、任務を遂行することが出来る。今思い返せば、そういう油断が悪かったのだろう。
 もしくは、依頼人との顔合わせが済むなり「その人数では心許ない」と言われた時に「問題ありません」とハッキリ断れば良かったのかもしれない。
 依頼人との打ち合わせについては先述の傭兵に頼んだものの、やはりナマエのような子どもが仲間内にいるというだけで不安が増したに違いなかった。
 依頼人の不安を思うと──増して、依頼人自ら雇用してきたという人材を前に「否」を言う度胸はない。そもそも当時のナマエは負けなしで、巷に“灰色の悪魔”の二つ名が流れ出した頃である。丸っきり戦えないお嬢ちゃんを連れて行くわけではあるまいし、一人二人足手まといがいたところで大した枷にはなるまいという楽観視があった。仲間たちにしろ「ナマエがいるんだから大丈夫だろ」と思ったようで、その場は適当に流れていった。今にして思えば、呑気なものである。

 唯一不安に思ったことと言えば、中途雇用男の態度であろうか。
 他に類を見ないタイミングで雇用された彼は、フォドラに珍しい男尊女卑思想を有していていた。尤も騎士道精神が重んじられるファーガス神聖王国において「男のほうが強い」「男のほうが偉い」という考えはありがちなのかもしれない。
 当時のナマエにファーガス独自の騎士道精神の如何は分からなかったが、少なくとも下級役人や新興貴族相手に困らされるのは珍しくなかった。殆どの人間はナマエの戦果を知るなり手のひら返しで持て成すものだが、それまでは洗濯婦か難民のように扱われるのが常だった。そういうわけで、中途男は拠点へつくなりナマエの腕に自分の荷物を押しつけた。ナマエにはよくわからなかったが「衣類を洗濯し、武器や防具の手入れをしておけ」ということらしかった。勿論、当惑するナマエに変わって、団員たちがその横暴を許さなかった。団長が不在の際には──喩え交渉の類いを他人に任せたとしても──ナマエがジェラルトの代理だ。それに、短い付き合いのなかでもナマエの指示に従う以上、それなりの敬意も払っている。
 皆に叱られた中途男はナマエの手から荷包みを取り上げたが、その表情は友好的とは言いがたい。断れば良かったと思っても後の祭りだ。これから一緒に盗賊退治へ赴こうと言うのに、仲間内にも中途男への不満が生まれつつある。
 本音を言うと“父さんがいたら”と思ったものだが、いないものはしかたがない。
 楽勝と思われた任務の行方にたちまち暗雲が立ちこめ、大抵のことに無関心無感情無感動を貫いてきたナマエも些か気が重かった。さっさと終わらせようと思って、まあそれも悪かったのだろう。最早一から十まで“黒歴史”である。

 その後の任務について端的にいうと、結果は予想の百倍酷かった。
 “素直に従ってくれるだろうか”という疑念は正しく的中し、中途男は暴走した。
 今思うと、ナマエへの嫌がらせだったのかもしれない。ナマエが考えた作戦はごく単純なものだ。盗賊が塒としてる廃墟の手前で二手に分かれて、ナマエ含む身体能力が高い者が囮をしてる間に、残りの者が裏口から侵入して全滅させるという簡単な作戦だった。いっそ中途男さえいなければ、力任せに征圧出来たのだ。
 当然のように中途男は陽動組から外されていた。ナマエが見る限り槍術も魔法も中途半端で、接近戦に持ち込まれるとまず役に立たないと踏んだからだ。隠密班の殿につけておけば、死ぬことはないであろう。そう思った瞬間の“暴走”だった。
 嫌がらせだったのかもしれないと言ったが、よく考えなくてもそれは嫌がらせだった。そうでなければ、実戦経験の乏しさから緊張したのかもしれない。何にせよ男は防御力も低いくせに廃墟の正面玄関から突っ込んでいって、死んだ。
 勿論、そこで死なせておけばよかったのである。しかしナマエは助けにいった。
 父親から仲間を大事にするよう言い含められていたからだ。見捨てよう見捨てようと囁く仲間を鎮めると、ナマエは陽動班と共に彼を追うことにした。もうそこからは、あまりの馬鹿馬鹿しさに自分の記憶を消したのだとしか思えない。

 中途男はあっさり捕まっていた。
 片目を槍で突かれ、喉元に白い刃を宛がわれている。今のナマエなら笑っていただろう。しかし当時のナマエは……訳がわからなすぎて、何故こんなことになったのか考えるばかりで、戦意が削げていた。物心ついて以来こんな馬鹿げた事態に巻き込まれたことがなかったので、軽いパニック状態になっていたのだろう。前夜の失態も尾を引いていた。失神しなかったのは奇跡だったとさえ思う。
 兎に角、この馬鹿げた状況から巻き返さなくてはならない。そう思った。


 ナマエは自らの口が重たくなるのを自覚した。
 何故、父親にさえ言えなかった恥を教え子に晒す羽目になっているのだろう。
 しかし最早、自分で口にすると決めたのだから仕方ない。
 
「褒められたことではないし、今は恥じるばかりだが……女だから、滅多なことでは殺されないと考えた。彼は片目を失って、かなり出血していたし、一刻も早く止血しなくては命に関わる。私となら交換しても良いということで、まあ、」
 クロードの視線が痛い。クロードが同じことをしたら、無論ナマエは自分のことは棚上げで引っぱたくであろう。そのぐらい愚かなことをしたのだ。
「今にして思えば私が投降したところで人質を解放する保証などなかったのに、私たちは運が良かった。私は彼と入れ替わりに縛られて、別の拠点につれていかれた。時間稼ぎの捨て駒が相当数いたので、仲間は追ってこれなかったのだろう」
 クロードの様子を伺うのはやめて、ナマエは話すことに集中しようとした。


 盗賊の首領に連れ込まれたのは、石造りの簡素な部屋だった。
 拷問や陵辱のために使うのがお決まりなのか、ひとの汗と血が混じった生臭い匂いが籠もっている。何か役立つものはないかとあたりを見渡したが、特に何もなかった。家具の類はなく、女物の服が隅に丸まっているだけ。勿論、衣類の形は留めていないだろう。絞殺には使えなくもないが、そんなチマチマしたことをやっていれば逃げられてしまう。ぐるぐる考えながら再度見渡すと、幸いにして壁の下部が削れているところがあった。乾いた血で赤くなってるのは、まあ、何かあったのだろう。今のナマエにとって大切なことは、手首の縄を解くことだ。
 ナマエは男の腕から逃げるふりをしながら、窪みのある個所へ移動した。
 そういう、強引に女を汚すのがあの男の趣向だったのだろう。壁にもたれたナマエが背後で何をしているのか──荒く削れた壁に縄を擦りつけているなどとは、夢にも思わなかったらしい。もしくは、どのみち事が済むまで千切れないと分かっていたのだ。無論ナマエも、短く見積もって一時間はかかるだろうと思っていた。
 一時間あれば、欲を満たすのには十分だ。それに、縄を解いたところで結局ナマエは何の武器も持っていない。武器どころか、外へ出るためには新しい服も要る。

 男はナマエの胸ぐらを掴むと、乱暴に引きちぎった。
 鎖帷子でもつけておくべきだったかなとボンヤリ思う。糸で縫い付けられただけのボタンは豆のようにはじけ飛んで、白く丸みを帯びた胸部が露わになる。
 ナマエにとってみれば、邪魔なだけの胸だ。矢をつがえるにも、防具をつけるにも手間がかかる。尤も今回に限っては役に立ったかもしれない。男の性的興奮を一身に受けたいとは思わないが、若しナマエが男であれば中途男はあっさり殺されただろう。いや、それとも……そもそもナマエが女でなかったら、勝手な行動に出ることはなかったのかもしれない。詮無いことと分かっていて、ナマエは考えた。
 ナマエはただの一度だって女らしくありたいと望んだことはないのに、歳月を重ねるごとにナマエの体は女として形作られていく。剣の腕に性別など関係ないし、事実ナマエが勝てない相手などジェラルトだけだ。それもじきに超えるだろう。
 女の体の何が良いのか、ナマエにはよく分からなかった。それとも、ナマエのように、自分より強い者を組み敷くと何らかの高揚感を得るのだろうか? 真っ当に剣の腕を比べ合ったなら未だしも、ナマエが組み敷かれているのは自分の意思で選んだことだ。お情けで組み敷いた女を犯しても、高揚感を得るとは思わない。

 男の舌が胸元を這うのも、その指が太ももをまさぐるのも如何でも良かった。
 果てしない達観のなかで、一先ず殺されずに済みそうだと安堵する。依頼主が連れてきたからと言って、安易に頭数に入れたことを悔いた。次はちゃんとしなければ。そう思うと、今組み敷かれている体はたちまちナマエのものではなくなった。
 よほど女日照りだったのか、男の前戯は長かった。扉の外から「早くしてくだせえ」という下卑た声が聞こえる。ナマエは縄を擦りながら、頭領の体を観察した。
 当たり前といえば当たり前だが、ナマエを殆ど裸に剥いてる癖、男はズボンさえ脱いでいない。ズボンの合わせからまろびでた男性器が猛って、ナマエの腹を擦る。鳴け、鳴けとしつこく迫られるうち、ナマエはイライラしてきた。ワンワン!とでも言えば良いのだろうか。質の良い性行為をしたいなら娼館にでも行けば良いのに、自分のような小娘相手に、満足のいく反応をしないからと顔を殴る。

 そうこうするうち、太ももの内側に固いものが触れた。
 男性器はまだ腹をつついてる。この男に男性器が二本あるのでなければ、短剣だろう。太ももで触れた感じ、鞘はベルトに固定されているものの、覆いのようなものはない。無防備に、ただ差してあるだけらしい。要するに、縄さえ解ければ後はどうとでもなる。こうなってみると、男の執着が有り難かった。


 ナマエはそこで一旦口を噤んだ。
 あとはもう話す必要はなかろうと思ったからだ。もしくは、何か不快な気持ちが湧いてきて、続きを話す気にならなかった。クロードの顔も見たくない。


 ナマエがもう少しと思いながら縄を擦っていた時、不意に男の指が奥に触れた。
 途端に視界が明滅して、無感動だった思考回路がふやける。
 唇をぎゅっと噛んで、男から顔を背けたのを覚えている。それが事実上の敗北宣言のような気がして、混乱した。そうこうする間にも、明らかな異物がナマエのなかを撫でる。些細なことだ。疑似的な性行為に過ぎない。性行為にしろ、互いの粘膜が接触するだけのこと。分かっているのに、ナマエの“なか”が男の指を模る。
 指の関節がゴツゴツしていて、その先が硬く平べったい形をしているのが分かる。手のひらに置かれた石を握るのと同じで、そこが男の指に合わせて収縮していた。緩めようと思えば思うほど力がこもり、体に熱がこもる。怖かった。

 粘性のある熱い液体が、自分の体から溢れていく。
 ナマエは反射的に血の赤を想起して、「大腸が破けたのだ」と思った。

 ここで死ぬのだろうか? そんな弱音が脳裏に浮かぶ。
 剣の腕で敵わなかったなら、未だ諦めもつく。それなのに、あんな些細な判断ミスで……それを招いたこと自体が自分の未熟と言われてしまえば身も蓋もない。
 でも、ナマエには納得出来なかった。なだらかで平坦な胸に、激しいものがこみ上げる。それは多分、怒りと、恐怖と、快楽とが混ぜこぜになったものだった。
 今なおナマエが受け入れられない、生身の女としての感情だ。みっともなくて、汚くて、愚かで、弱い。決して他人に知られてはならない、素のナマエがそこにあった。剣もなく、父親の庇護もない。たったそれだけで、無様な姿を晒す自分。
 そのとき、うまれてはじめて……ナマエ自身の意思で他人の死を願った。


 あの男は見てはいけないものを見た。


「悔いるぞ……と、」
 ナマエは、ポツンと呟いた。

 何でもない風に上げた視線でクロードの顔をなぞってから、ふいと逸らす。
「私を組み敷いた男に『悔いるぞ』と言った。途端に魔法にかけられたかの如く大人しくなったので、私は縄を千切って、彼の短剣を奪った。それで仕舞いだ」
 淡々と事の結末を告げると、クロードが難しい顔でこちらを見る。
「仕舞いって……」
「所詮傭兵崩れのゴロツキだ。武器があれば問題ない」
「まあ、あんたならそうだろうよ」
「いたくプライドの高い男だったから、成人前の小娘に命を救われたのだとは──増して途方もない無様を仕出かしたのだとは認められなかったのだろう。
 私が仲間の下に戻ったときには、既にいなかった」
 どういう視点から他人の猥談を流しているのかは不明だが、結局のところナマエへの怨嗟があるに違いなかった。馬鹿馬鹿しいと思うだけで、怒りは浮かばない。
 これだけ長い間負の感情を維持しているということは、案外嫌がらせではなく、精一杯頑張った結果が“アレ”だったのかもしれない。ほんの数年で、何とか傭兵としてやっていけるまで成長したのなら大したものだ。もう組みたくはないが。
 ナマエがしんみり回想していると、クロードが深いため息を漏らした。

「あんたが何をされたか、気づいた奴は?」
「いない」
 ちょっとの間も置かずに断じて、そんな自分に苦笑する。

 勿論、嘘を吐いたわけではない。
 “いない”と断言した通り、仲間は皆ナマエの無事を疑っていなかった。服が違うことも、返り血だろうということで納得したものだ。仲間が入れ替わっても、入れ替わっても、ナマエを“女”として見る者はいなかった。いつ如何なる状況でもナマエは強者として君臨し、父親でさえナマエのなかに“弱さ”はないと思っている。
 ナマエも、そう思って欲しいと望んだのだ。

 弱いと思われることに我慢ならなかった。
 それがたった一つ、分厚いガラスのなかで産まれたナマエの感情だった。
 幼稚で、みっともないことだと思う。この大人びた教え子を前にすると、尚更。

「正直言うと、当たり前だと思った。私は物心ついた時にはもう剣を振るうことに慣れていたし、父さんの才能を受け継いだのか挫折を知らずに生きてきた。私を傭兵以外の何かとして見る者はいなかったし、これから先もいないと思っていた」
 皮肉っぽく吐き捨てると、ぽんと頭の上に何かが乗った。

「あんたは強いよ。俺が今まで出会った人間のなかで、一番」
 クロードの手が、ナマエの頭を撫でていた。
 父親よりずっと小さくて、自分と同じぐらいだけど、手を覆う皮膚は窮屈そうに突っ張っている。そのうち、ナマエよりもずっと大きくなる手だ。
 その未来に自分がいるかは分からないけれど、立派な盟主になるだろう。
 ナマエはクロードの目に映る自分を、じっと見つめた。ガラスより柔らかい緑の光彩に、小さい自分の姿がある。居心地の良さそうな場所だと、漠然と思った。
「……私は、君たちに“先生”と呼んで貰えるのが嬉しい」
「うん」
「だから、何だろう。そうだな。確かに馬鹿なことをしたけれど、今ならもっと上手くやる。それに、君たちにも過去の私より上手くやってほしいと思っている。
 あとは……教師として相応しい人間になるよう努力する」
「あんたは少し手抜きするぐらいで丁度良い。ヒルダの言う通り、倒れるぞ」
 ポンポンとからかうような手つきで宥めてから、クロードは手を降ろした。

 雨はまだザアザアと激しい音を立てていて、世界中が深い眠りに落ちている。
 クロードの体には未だ酔いが残っているのだろう。ナマエも段々、眠気で頭がぼーっとしてきた。かくっとナマエの頭が揺れる。不器用に船を漕ぐ様を見て、クロードは右手にある寝台から、掛け布団をひっぱりおろした。

「俺はさ……今まで習った教師のなかで、先生のことが一番好きだよ」
 中腰になって、ナマエに掛ける。かくっとなりながら、ナマエは頷いた。

「あんたみたいな人間は他にいない。出会った順番や過ごした時間に関係なく、特別な出会いだと思ってる。俺がそう感じているように、先生にも思って欲しい」
 うんうんと頷きながら、ナマエは寝台に寄り掛かる。マットレス部分にこてんと頭を乗せていても、その手には剣が握られたままになっていた。クロードが笑う。
 ナマエは律儀に頷いているが、最早睡魔に侵されているのは誰の目にも明らかだった。口を噤んだままのクロードに、ナマエはこっくりこっくり頷く。
 クロードは微睡んでいるナマエの隣に移動すると、自分も寝台に身を委ねた。
 あどけない寝顔を晒す師を至近距離で見つめて、自分のなかの感情を探る。
 生温かくて、か弱いのに、激しくて、寂しいもの。まるで、この教師の写し鏡のようだと心中に零す。ナマエは眩しいものを見つめるように、生徒たちを見つめる。その無表情のなかに、情が深く、脆い素顔を秘めた美しいひと。
 小さい声で「先生?」と話しかけても、もうナマエは相槌を返さなかった。剣の柄を握る華奢な手に、自分のものを重ねてみる。小さいなあと、心から思った。
 酔いに任せて、バカな質問をしにきた自覚はある。
 それが何故かと問われれば、きっとナマエはその答えを欲しないだろう。

『……私は、君たちに“先生”と呼んで貰えるのが嬉しい』
 そうかあと、改めて心中に呟く。

 クロードは他人より──少なくとも、士官学校の同級生たちのなかでは──多くのものを見て育った自負がある。それ故に好奇心が強く、広い視野を保てるのだと思っていた。何となく因縁ありげなエーデルガルトとディミトリを見るにつけ、漠然と「もっとデッカいものを見たいとは思わないのかね」と感じることもあった。
 尤も、あの二人が君主としての才に溢れているのは火を見るよりも明らかだ。勿論クロードの暮らすレスター同盟領と他の国では、上に求める資質も異なる。
 一旦は母親を勘当した祖父がクロードを受け入れたのは、少なからず盟主としての器があると踏んだからだろう。だからクロードは、他人に引け目を感じることもなかった。第一、本音を言うと盟主になりたいわけではないのだ。少し“面白そうだな”とか、“やっとくと便利かな”と思うだけで……こんなんだからローレンツも突っかかるんだよなあ。世慣れていないナマエに、クロードの不真面目な本音が分かるはずもない。まあそれを見越してローレンツを焚きつけてる面もあるのだけれど、生真面目なナマエは毎回のように二人の口論に割って入る。陰で「先生、同盟領の地理に中々詳しくなってきたな。次は何の話で揉める?」と言ってるのが申し訳なくなる。でも「男子ってサイテー(棒読み)」と言う女子も、一度騒ぎが起こるとナマエのズレた仲裁を聞きに集まってくるじゃないか。あいつらも共犯だ、共犯。

 部屋のなかを見渡して、クロードは長閑な気持ちになった。
 生徒に“無知”を悟られまいと必死に予習復習するナマエの部屋は、本が多い。訳が分からないぐらい強いのに、何故知らないことばかりなのか時々不思議になる。
 あんまりに無知なので、最初はその強さを利用してやろうと思った。人間離れした部分を知って「神輿にするのに捗るなあ」と感じた。それが“はじまり”。
 悪いね、先生。俺はここから出てく時には、絶対あんたを連れてくって決めてるんだよ。無数の運命を断ち切ってきたにしてはか弱すぎる手を、きつく握る。
 あの日、ルミール村で出会った時から──この人が、クロードの運命が変えた。

 この人をうまく使えば、自分の野望は机上を飛び出すかもしれない。
 いつからか、この人が……自分を見つめる瞳、触れる手が、その存在全てが自分のための“神託”だと思った。セイロス教を信じない自分のための、幼い神さま。
 どんな過去を歩んでいても、どんな人と出会っていても、クロードのいない世界でどれほどの傷を負い、苦しみ──楽しみや喜びがあったとしても構わない。

 安らかな寝息を立てる師の睫毛を数えて、クロードはナマエを呼んだ。
 先生。俺があんたに、同じように感じて欲しいって思ってるって知っててよ。
「……俺と出会うまでの長い時間を、俺と出会うために生きてきたんだって」
 眠る佳人を起こさないよう、クロードは掠れた声で続ける。

『……要するに、今の今まで私のことは女ではないと思っていたと?』
「俺は、あんたが俺の性別に気付くまで待つよ」
 ふふんと低く笑いながら、目を閉じる。

 明日起きたら、ナマエは再び“教師”としての顔でクロードを叱るだろう。
 酒を飲んでも呑まれるなとか、真夜中に胡乱な話を持ち込むなとか、あーだこーだ一から十まで丁寧に、少し斜め上にずれた叱責をするに決まってる。それを適当に切り上げる方法を考えるか、ハイハイ殊勝な態度で応じて午前一杯独り占めするか、中々に悩ましい。尤も、優雅にナマエの説教に付き合う暇はなさそうだ。
 先生について面白いネタをくれた男には感謝しているが、まあそれはそれとして先生の代わりにお礼参りをしておかないとなァ。大した腕の傭兵でもないし、適当な依頼したら、あとは勝手に野たれ死ぬだろう。ナダルにあれこれ突っ込まれるのも癪だし、直接頼むのは死亡確認だけにしよう。クロードは難しい年頃なのだ。


 無感動な藍色の瞳が、クロードの視線の先を映して和らぐ。
 いつからか「この人が幸せそうに微笑うのが、自分の思う“一番美しいもの”の前であって欲しい」と願うようになった──彼女より強くなった自分の隣で。

痴ぐの神

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