千手の家紋を書いておけば、怪我をしても誰かが届けてくれる。
 どこへ行っても、帰ることが出来なくなっても、きっとここに戻ってきますようにと願った。
 先のことを考えようともせず、明日も、明後日も、永遠に“昨日”と同じだと思っていた。いつか死ぬ生き物だと分かっていたはずなのに、自分が死なないから、自分は明日も明後日も同じだから、この腕のなかの命がそうでないことを忘れてしまった。これからも、トバリには分からない。
 神樹に魅入られて正気を失った母親は勿論、母親を屠ることで神威を捨てた長兄たちにも、母親に従うことで産まれ直すことが出来ると信じる兄にも、誰にもトバリの気持ちは分からない。
 この猫の飼い主は愛猫が天命を全うするまで、そして自分の悲しみを分かち合ってくれる者たちと生きていく。でもトバリは、この天にも地にも自分と同じ時間を生きる者は存在しない。
 他人を妬めば、母親と同じ狂気に食われる。トバリを作ったカンヌキが罰せられる。センテイが愛した里が瓦解する。センテイが丹精した美しい庭が崩れ落ちる。正気を保たねばならない。

 それでも……何故、あれを失いたくなかったなら、傍を離れなければ良かったのだ。

 トバリは二三瞬きしてから、自分の“幸運”ではない猫の頭を撫でた。
「あなっ」シスイに猫を手渡そうと顔をあげた途端、何の前触れもなく左目に指を突っ込まれる。トバリは咄嗟に目元を手で庇おうとした。が、慌てて前腕を使う。「……なにを?」
 低い声で問い質すと、シスイは彼らしくもない狼狽えた声を出した。「あの、」ちょっと考えてから、ズボンのポケットをまさぐる。取り出した懐紙の一二枚目で自分の手を拭ってから、その残りをトバリに付きだす。トバリは顰め面で、懐紙とシスイの顔を見比べた。
「ふまんがあるなら、手を出す前に口で言ってくれ」
「いや、それは本当にごめん!」シスイは居た堪れない様子で、眉間にしわを寄せる。「目潰しする気はなかったんだけど、急に顔を上げたから、目んとこゴミついてたの取ろうと思ったんだよ」
「こんなゴミだらけの場所に引きずり込んでおきながら、今更目元もクソもない」
「結局オレ一人じゃ捕まえらんなかったし、しょうがないだろ? 誰かが連れて帰らないと、」
 ツラツラと言い訳めいたセリフを漏らしていたシスイが、不意に言いよどんだ。ちょっと考えた後に、トバリから目を逸らす。貰った懐紙全てを使って、目元、手のひら、指の股を拭い清める様が嫌味っぽいと思ったのだろうか。トバリはシスイを無視して手の甲を拭う。これからまた汚れるとしても、一時でも衛生的でありたい。猫はトバリの気持ちなど何処吹く風で、綺麗になった手に泥のスタンプを押してくれる。わあ、可愛い。肉球型で、泥に砂利が混じって立体的になってる。
 トバリがしょっぱい顔でスタンプを見ていると、シスイが猫を抱きとった。

「さっき、薄情とか言って悪かったな」
 トバリは怪訝な顔をした。
 何故今になって出会い頭のやり取りを蒸し返されるのか、シスイの考えていることがよく分からなかった。シスイはトバリの膝の懐紙でもう一度自分の指を拭うと、その指でトバリの目尻をなぞった。落とし損ねた泥が付いていたのだろうか。シスイが触れたところを、自分でも撫でる。
「べつに、手伝おうともせずに追い返したんだ。あなたに比べれば、充分“はくじょう”だろう」
 トバリはそう淡々と呟いてから、シスイの腕を取った。「背を腕で支えて、しりを手のひら全体で持て。また逃げられるぞ」シスイが頷いて、言われた通り抱き直す。猫はもう暴れなかった。
「……さ、出よう。猫はつかまえたし、飼い主は分かった。あとは一人でがんばってくれ」
 シスイは無言で頷くと、来た時とは逆に縁側へ向かって進み出した。

「あのさ、オレんちの近所で猫生まれた家があって里親探してんだけど……見にこないか?」

 蜘蛛の巣は相変わらずだが、土は乾いているし、ナメクジやカマドウマの気配はない。
 どうせ床下に入れば手と膝が汚れるのは避けようがないのだ。トバリは「最初から縁側から入れば良かったんだ」と言う気も失せて──というより、気を抜けば詰まらない嫌味が漏れそうなのが嫌だった。シスイには、センテイやアスマ、ヒルゼンのような配慮は望めない。それ故に口数を増やさざるを得なかったわけだ。飽く迄シスイに自分の意思を伝える必要が生じたから喋っていただけで、トバリ自身の意思でシスイと喋っていたいわけではない。もう会話は不要だ。
「何ならオレが一匹連れてきてもいいし、家に篭りっきりだと詰まんないだろ」
「いい、どうせ死ぬ」
 口にしてから、ハッと我に返る。シスイがあれこれ話しかけるので、つい応じてしまった。
「……せわをしていただけで、かっていたわけではない。半分のらだったんだ」
 手を繋いでるわけでもないのに、もう終わりなのに、二度と会わない相手に振り回されている。
「のらねこが庭をうろつくのにたえられなかった家政婦が毒を盛って殺した」
 自分でもシスイに口を利くことで苛立つ理由が分からないまま、感情任せに喋る。
「もうその家政婦はいないけれど、きっと同じことのくりかえしになる」
 そうだ。シスイと来たら何も分かっていないくせに口を挟んで──抱き方さえ分からないなか、迷子の猫を保護するようなお節介、腹が立たないほうが可笑しい。トバリは一言だって猫が欲しいだなんて言わなかったのに、家から出たことがないなんて言わなかったのに、あんまり当たり前みたいに見透かすから、イライラする。シスイなど、どうせトバリよりずっと弱い、いつか死んでしまう生き物なのだ。そんな惰弱な生き物に目下扱いを受けるなんて、腹立たしいったらない。
「“そっこうせい”の毒で、さして苦しまなかった。そう言っていたから、」
 白目を剥いた苦悶の表情。だらんと伸びた舌。吐しゃ物で汚れた毛並み。痛みに縮まった体。汚物にでも触れるかのように猫の死体を指先で摘まむ女。おぞましいものでも見るような視線。
 全部に蓋をする。それは全部終わったことだ。今シスイに真実を告げても、何にもならない。
「そう言っていたから、そうなんだろう。おだやかで、わたしには眠っているようにみえた」
 苦しまなかったんだ。センテイの言葉を心中に繰り返す。即効性の毒で、猫は苦しまなかった。穏やかで、まるで眠っているように見えた。苦しまなかった。ちっとも苦しまなかったんだ。

「……んだよ、それ」
 いつの間にか隣に並んでいたシスイが、怒気のこもった呟きを漏らす。
 トバリは俄かに居たたまれない気持ちになった。見ず知らずの迷い猫を家まで送り届けようとする正義漢が、トバリの話を聞いて腹を立てないはずがない。シスイの反感を買うのは仕方のないことで、十分想像出来たはずだ。それなのに、反感を買った事実に嫌な気持ちになる。
 何故なのか、心のどこかでシスイの反感を買いたくないと思っていたらしい。分からない。
 トバリはシスイの顔を見つめたまま、逡巡し始める。自分の考えていることが分からなかった。シスイはじきにこの庭を出ていく。そして二度と戻ってこない。トバリはカンヌキの許しを得た一握りの人間にしか会わないし、この庭の外へは行かない。だから、如何思われても良いはずだ。
 シスイはぱっと視線を逸らすと、腕のなかの猫を宥めるように背を撫でた。
「オレ、おまえに怒ってるわけじゃなくて……なんか、さっきから、顔がピクリともしないで」
「わたしは生まれつきこういう顔なんだ」
「違う」
 突然ひとの顔を侮辱しておいて何が違うんだ。
 そう思ったけど、シスイが一生懸命なので皮肉を飲みこむ。

 出会ってから未だ短いけれど、シスイは何をするにも一生懸命だ。トバリは思った。
 お節介なところがあるものの、トバリが斯様にめんどうくさい生まれでなければ有難く感じるはずだ。自分が間違っていたと知るや不貞腐れるでもなく直す。闊達としていて、きっと頭も悪くない。言葉も達者だ。まだ十二歳じゃなかろうに、もうアカデミー卒業見込みが立っているのだから、忍者としても優秀なんだろう。行動力がある。汚れるのを厭わない。シスイは良い子だ。
 言葉を探すシスイを見つめて、トバリは思う。きっと“トバリ”はこんな子どもだったのだろう。


「床下に宝箱でもあったかな」
 ──冷ややかな声に鳥肌が立った。

 恐る恐る声の方角を確かめると、沓脱石の脇にしゃがみ込んだカンヌキが床下を覗き込んでいた。逆光で表情こそ読めないものの、声の調子から露骨に不機嫌であることが分かる。
 やや遅れて、使い古された長靴がカンヌキの隣に並ぶ。
「坊ちゃん、」センテイがワナワナと唇を振るわせる様子が目に浮かんだ。「坊ちゃん、オレんが相手しますから、坊ちゃんは部屋にへえっててくだせえ……そんな大したことでもねえに」
「センテイ、下がってろ。あれが僕の言いつけを破った、充分大したことだ」
 シスイは呆気にとられた様子で言い争う大人を見ていたが、幾らもしないうちにトバリに目をくれた。目は口程に物を言う。一体あれは何だと問う眼差しに、トバリは唇を噛んだ。
「父だ」喉がカラカラに乾いて、そう言うのが精いっぱいだった。「わたしに怒っている」
 シスイは何を言うでもなくトバリの顔をマジマジ見つめていたが、それ以上何か聞いてくることはなかった。その代わりに猫を片方の腕に収めて、空いた手でトバリの手を取った。至近距離に顔を寄せて囁く。とりあえず出よう。トバリはもう永遠に床下にいたいような気持ちにもなっていたが、どの道反抗的な態度を取れば更にカンヌキの機嫌が損なわれる。諦観と共に静かに頷いた。
 裏門を開けなければ良かったとか、すぐセンテイを呼んでいれば、床下に入る前に家政婦の助言を仰いでいれば、せめて床下にいるうちに敷地内の気配を探っていれば──色んなことを悔いたけど、さっきまで気持ち悪かったシスイの手に安心を見出す自分がいて、それに驚くあまり、ほんの少しだけ後悔を忘れた。アスマとも、センテイとも、ヒルゼンとも違う生き物は無遠慮で、新鮮で、一緒にいると考える間もなく口が動いて、色んなことを思いついて、少しだけ安心する。

 庭でああだこうだ言い争っている二人の声を聞きながら、シスイに導かれるまま床下を出る。
 下手に慣れあっていると余計カンヌキの怒りを買うのではと気づいたと同時、シスイがトバリの手を振り払った。幸いカンヌキはセンテイを追い払うのに夢中で、床下から出るまでの間ずっと手を繋いでいたのにも気づいた様子はない。気づいたら問答無用でトバリの胸倉を掴むだろう。
 そもそも、何故、よりにもよって今日帰っているのだ。それに、カンヌキは我が子に会わないという話なのに、初対面を装ったほうが良いのか、子供相手に嘘を吐く必要はないと思っているのか、分からない。カンヌキが表向き我が子に会ったことがない体を取りたがるのだって、理由が分からないのだ。トバリにはカンヌキのやることなすこと一から十まで理解出来ない。

「本当にすみませんでした!!!!」
 噤んだまま思案し始めるトバリと、少しずつ二人に近づくカンヌキ、それを邪魔するセンテイ──混沌とした現場に、シスイの声が響き渡った。今度はトバリたちが呆気にとられる番だった。
 シスイは頭を下げたまま、有無を言わせぬ調子で言葉を続ける。
「猫が入りこんじゃったんで、お邪魔させてもらいました。おかげで見つかりました!」トバリたちに輪を掛けて混乱している猫を、カンヌキの前に掲げる。「ありがとうございます!!!」
 フリーズしているカンヌキたちを無視して、シスイは再びトバリの手を取った。じっとりと汗ばんだ皮膚が、きつく絡みつく。何故こんなに強く握られるのか、よく、本当に分からない。

「で、オレ、どっから出ればいい?」

 どっからも何も、斜め後方に裏門があって、そこから入ったのだから、そこから出れば良いのは自明の理だ。馬鹿正直にそう答えそうになったところで、シスイの手の力が増す。言外に「ちょっとは考えて物を言え」と咎められた気がして、慌てて考え直す。シスイの言動から推察するに「裏門まで一緒に来い」ということなのだろうが、でも、カンヌキを後回しにすることは出来ない。
 トバリは目を白黒させながらもカンヌキの様子を伺おうと振り向き、絶句した。
 カンヌキは僅かに目を細めて、楽し気にシスイを見つめていた。その口端はつり上がり、傍目にも彼が“笑っている”らしいことは明らかだ。センテイも目を剥いて、主人を凝視している。こわ。

「君は頭のいい子だね」
 揶揄されたと思ったのか、シスイが眉根を寄せて口を尖らせる。
 なんなんだ、これは──そう思案する間もなく、シスイに引っ張られて一歩退く。それと同時にカンヌキが一歩踏み出していた。シスイの小さな肩越しにカンヌキを見上げる形になって、トバリは小首を傾げる。シスイは、そんなにカンヌキと喋りたいのだろうか。そう不思議に思った途端にカンヌキが冷たい視線を寄越したので、何となく安心する。いつものカンヌキだ。
 それでもシスイに笑みを浮かべる訳は分からないまま、カンヌキが見慣れた冷笑に切り替える。
「僕の友だちにもね、君のような頭の良い子がいたよ。頭が良くて、優しくて、いつも他人のことばかり。それに、僕は忍者としてはほとほと出来損ないだけれど、」カンヌキの背後にいるセンテイの顔が引きつる。「……その子には才能があった。僕は彼に、彼が望む全てを教えた」
 トバリはセンテイに目をやった。カンヌキが何を言っているか分からない以上、そうするのが一番無難だと思ったからだ。しかしセンテイは沈痛な面持ちで俯くばかりで、トバリの視線に気づかないらしかった。トバリの不安が通じたのか、シスイの手がぎゅっとトバリの手を強く握る。
 シスイの顔が見たいなと、トバリは思った。トバリには、人間同士のことは分からないことだらけで、他人の感情や知ってることを組み合わせなければ“自分が如何振る舞うべきか”判断できない。千手扉間については沢山の書物が残されていた。でも、カンヌキについては。
 不意に、トバリはカンヌキのことを殆ど知らないことに思い当たる。千手扉間については幼少期の出来事から晩年の野望まで知っているのに、実子であるはずのカンヌキのことは何も知らない。あの膨大な記録のなかに、末子に纏わる記述が殆どない。それに何の違和感も覚えなかった。
 一緒にいても、碌に口も利かない。何か本に残っているわけでもない。センテイが教えてくれるわけでもない──センテイでさえ知らないことが、あんまりにも多すぎる。親戚はカンヌキの愚痴を言うだけで、今どこで何をしているのか知る者がいない。ヒルゼンにしても同様だ。
 以前、最近は“ダンゾウ”や“オロチマル”と一緒にいることが多いと聞いた覚えがある。よりにもよってカンヌキと付き合いの深い二人が一度も顔を見に来ないのだから、薄情なものだ。ヒルゼンがセンテイにぼやいていた。それに、センテイは苦笑していた。あん二人にゃあ随分困らされましたで、いっそトバリ様に会わないのが友達孝行かもしれませんわ。
 センテイが暗に「トバリに会わせたくない」と言ったのは、後にも先にもあれっきりだった。

「坊ちゃん、子どもに話すこっじゃあねえ」
 トバリより一足早く我に返ったセンテイが、カンヌキの肩に手を掛けて制止する。
「何が?」それに応じるカンヌキの声はどこまでも冷たい。「二代目火影が我が子の不出来を公言していたのは然したることじゃあない。何しろ、あの人はこの子のお祖父様がお気に入りだった」
 シスイの肩がビクリと揺れる。俯きがちだった頭が真っ直ぐカンヌキを見上げたのが分かった。
「見てすぐ分かった。センテイだって分かるだろう。カガミの孫だ。
 二代目火影が愛した俊英の血筋なんだから、早い内に大人にしてやったほうがいい。いや、もう、とっくに知ってるかな。結束力の強い一族のなかにあって、何故自分の家だけ」
「坊ちゃん!!!」
 センテイが殆ど悲鳴に近い声を上げて、カンヌキの台詞を遮った。
 カンヌキは如何にも気分を害したと言わんばかりの表情でセンテイに振り向く。「……分かってるさ。フガクだって僕の教え子だった。負い目のある彼らが露骨な村八分をするわけがない」
「だからと言って──こんな子どもに、こんな……坊ちゃん、嬲るようなことは止めてください」
 今、シスイを帰らせればいいのだろうか。トバリは迷った。今なら、シスイ一人帰らせられる。じきに日も暮れるし、猫だって退屈して、また逃げ出すかもしれない。トバリはシスイの手を引いた。流石に至近距離にカンヌキがいる状況で耳打ちは出来ないが、シスイなら察するだろう。
 シスイの手を、裏門のほうへ引っ張る。でもシスイは動かなかった。カンヌキを見上げている。

「はたけサクモ上忍は、立派な忍者で、オレの憧れの一人です」
 センテイとカンヌキ、その二人共にギョッとした様子でシスイを凝視する。
 シスイは覚悟を決めた声で言葉を続けた。
「オレが産まれてすぐに首つりしたのも知ってます。父さんが惜しい人を失くしたとずっと言っていたし、オレは一人息子なので、父さんも母さんも子ども扱いせず色んなことを教えてくれました。だから、なんで、そうなったのかも、幾らかは知ってます……機密事項はわかんないけど」
 スラスラ出てくる口上は年不相応に落ち着いていて、トバリよりずっと大人びていた。
『六歳で中忍は無理だったけど、カカシ上忍と同じ十二歳までには絶対上忍になりたい』
 先の言葉を思い返して、それが決して分不相応な理想でなかったことを理解する。この子どもは、トバリよりずっと短い時間しか生きていないけれど、そのなかでトバリよりずっと色んなことを学んで暮らしてきた子どもだ。そんな子どもがいるとは思いもよらず、言葉を失う。尤も、世の子ども全員がシスイ並に賢しいわけではないらしい。その証拠に、カンヌキも口を噤んでいる。
「オレは、はたけサクモ上忍は全部間違ってたとは思いません。一度の失敗で信用を失うほど生半可な仕事をしてきたわけでもなし……生きている限り、汚名を晴らすことは出来たはず」
「あの子のプライドは、生きることに耐え切れなかった」
 カンヌキが語気を強めてシスイの言葉を阻んだ。ちょっと顔を歪めてから、表情を失くす。
「……今こうやって彼を庇う僕にしろ、彼に首を括らせた人間の一人だ。半人前の子どもにその絶望が分かるはずもない。増してや君のお祖父様は愚かな盲信から一族を売ったんだ」
「坊ちゃん、もう」見かねたセンテイが、シスイに掴みかからん勢いのカンヌキを羽交い絞めにする。「もう、もう……カガミは二代目が好きだったんです……カガミがいなけりゃあ、うちはは」
「……祖父ちゃんがいなかったら、うちはは?」
 シスイの唇から幼い好奇心が漏れる。咄嗟にセンテイが口を押さえ、その隙にカンヌキがセンテイの拘束を払いのける。カンヌキは面白いものでも見たかのように、楽しそうに笑っていた。
「勘違いしないで欲しいのだけれど、僕は君のお祖父様のことだってとても好きだったんだよ。優しくて、明るくて、僕の兄と親しくってね。僕だって本当の兄のように思っていたんだ。
 でも生きることへの執着が無さすぎた。サクモと同じだ。君のお祖父様はね、僕の父が仕出かした愚行の責任を取るよう強いられたんだよ。君のお父上が蔑ろにされてるみたいにね。
 親しい仲間から、共に育った友から、教えを乞うた師から“生き恥を晒すな”と言われたんだ」
 センテイは地面にしゃがみ込んで、頭を抱え込んでいる。センテイがカンヌキの暴走を止められないのはいつものことだ。だから、トバリは気にしない。カンヌキに何を言われても、何をされても、トバリは如何でも良い。でも、シスイは……トバリは、そっとシスイの前に出ようとした。
 トバリは何をされても死なないけれど、シスイはそうではない。ここまで激情すると何があるか分からない。前に出て、一番マシな結果にしなくてはならない。そう思っているのに、上手く足が動かない。そうこうするうちに、またシスイがトバリの手を握る。ぐっと自分の後ろに引いた。
 それに気づいてか、もしくは回顧に耽るあまり見落としたのか──カンヌキが微笑する。

「きっと、君もそうなるよ。もう、ここから先を生きるのはやめようってね」
 シスイの手が緩んだ。それを握り返すのも躊躇われて、手が落ちるままに委ねる。
 
 カンヌキは微笑みを崩すことなく、柔和に話しかける。
「さあ、その手を離して、ひとりで帰りなさい。
 君が連れていこうとしているのは、少しばかり君の手に余るものだ」
 命は大切にしなくてはね。そう低く囁いたカンヌキがトバリに手を伸ばす。咄嗟に身構えたものの、いつまで待っても続く衝撃はなかった。カンヌキはトバリの頭に手を乗せただけで、微動だにさせない。シスイに笑いかける傍ら、ようよう顔を上げたセンテイにも悪戯っぽく目を滑らせる。
「自分の責任を負うならまだしも、こんなものを背負って死んだら良い笑い種になるよ」
 もう、誰も、何も言わなかった。トバリも、如何したら良いのか分からない。こんなことになるのなら裏門を開けなければ良かった。でも、開けてしまったものは仕方ない。ぎゅっと口を引き結んで、俯く。些細な好奇心からこんなことになるのだとは、想像もつかなかった。いや、そもそも好奇心を抱いたことが悪いのかもしれない。化け物の自分が外へ行ってみたいなどと。

「トバリ、見送っておやり」
 ……トバリはカンヌキを見上げて、コクリと頷いた。


 トバリはシスイの手を取ることもなく、一歩裏門のほうへ足を踏み出した。
 未だカンヌキの前で立ち尽くしているシスイを手招きして、誘導する。シスイはカンヌキに一瞥くれてから、無言でトバリに付いてきた。来た時とは逆に、遅々とした足取りで二人進む。
 暫く歩いて、カンヌキから十分離れた途端にシスイが口火を切る。
「一緒に来るか?」
 一瞬、何を言われたのか分からなくて振り向く。いっしょに? オウム返しで口に食むと、シスイが力強く頷いた。小走りでトバリとの距離を詰めて、横に並ぶ。トバリは目を瞬いた。
「オレ、おまえのことも、おまえの家の事情も何もわかってないけど……でも、ダメだろ」
 シスイの声音は元通りの、闊達なものに戻っていた。さっきカンヌキと話していたのがウソのようだと僅かに思う。そう思ってから、この子どもの明るさは“そういうものなのだ”と察する。
「おじさんがおまえの頭に手を振りかざした時、体、竦んでた」
 それが何だと、トバリは思った。痛覚がある以上、必ずそれに対する躊躇が生ずる。でも、それだけのことだ。増して今日は何もされなかった。そこに一体何の問題があると言うのか。トバリはシスイの目をじっと見つめた。その網膜に、彼の感情が記してあるのではないかと期待した。
 さっきまで、シスイと一緒の時は考えるまでもなく口が動いた。それが嫌だった。でも、もう、トバリの唇はピクリとも動かない。これが自分の本来あるべき姿だとトバリは安堵した。
 何も感じない。何も考えない。何も欲しない。それで、そうしていれば、悪いことは起きない。

「オレんち来いよ。そっからトウヤの親とかさ、親戚頼って、」
 トバリとちぐはぐに、シスイはヒートアップしていく。
 シスイの顔が、グッと泣きそうに歪められる。トバリは、それを漫然と眺めていた。
「オレは……何人背負っても、それで辛くても……絶対、自分のためだけに死んだりしない」
 トバリは無表情のまま、シスイに手を翳した。虚を突かれた表情のシスイを置き去りに、その頭に触れる。癖のある黒い髪はまだ柔らかかった。トバリの指がたどたどしくシスイの髪を梳いて、頭を撫でる。シスイが年相応の幼い顔で、トバリを見下ろす。その物言いたげな目に頭を振った。
 この子どもは、トバリとさして年が違わない。精々が七つかそこらのはずだ。
 それなのに、色んなものを背負っているのが見える。自分に言い聞かせているのだと、トバリは思った。この子どもは、これから色んなものを背負って生きる子どもだ。些細な過ちから中傷の的にあることもあろう。責められることもあるだろう。その時に、トバリには如何することもできない。トバリは他人に何を言われても傷つかないし、責め詰られても何とも感じない。
 そういう生き物が、この子どもと一緒にいてはならないと思う。

 シスイの拘束が緩んだ隙に、それまで大人しくしていた猫がトバリの腕に飛び乗る。
 トバリはシスイから手を離して、猫を抱きなおした。トバリが失ったものによく似ている猫は、あの子と同じように柔らかくて、温かかった。最後に一度両腕で抱きしめて、シスイに手渡す。
 いつの間にか終わりだった。シスイは猫を抱きとっても、その場から動かなかった。すぐ横に裏門があるのに、帰ろうとしない。すっかり慣れた手つきで猫をあやしながら、トバリを見ている。
「思えば……出会いがしらから、あなたにはすまないことをした」トバリは真っ直ぐ、シスイの目を見つめた。「今日のことはだれにも言わないでほしい。そして、もう二度とここへは来るな」
 シスイは静かだった。反論するでも、茶化すでもなく、真っ直ぐトバリを見つめている。
 もう“あの時、裏門を開けなければ良かった”とは思っていない。
 シスイはアスマとも、センテイとも、ヒルゼンとも違う生き物で、無遠慮で、新鮮で、一緒にいると考える間もなく口が動いて、色んなことを思いついて、少しだけ安心する。

 トバリは、あの子猫に一切の苦しみを知って欲しくなかった。
 あの短い命の、ほんの僅かでさえ痛みや苦しみと無縁であってほしいと願った。
 死を免れることがない命だからこそ、一分一秒でも長く、安らかでいてほしいと望んだ。
 ……ここに、未だ起きていないことで、自分の意思で変えられる未来がある。

「わたしは、あなたとは行かない」


 トバリの返事を聞いたシスイは二三頷くと、黙ったまま裏門へと歩き出した。
 その腕に抱かれた猫が、名残り惜し気にミャアーンと鳴く。トバリは心中で別れを告げた。
 トバリにはあの猫が自分の猫と違うことが分かっている。生きるということは、そういうものだ。もう二度と戻ってこないものの存在を認め、どれほど近しいものがあろうと同一でないことを識って、それでも飽かず探し続けてこそ“生”なのだろう。気が遠くなるような時間を……。
 不意に頭痛がして、トバリは額を押さえた。シスイの背に縫い付けられた家紋に意識が向く。赤と白に彩られた団扇型の家紋。うちは一族の紋だ。それだけの、関係ないものなのに、視界が緋に染まる。トバリは戸に寄り掛かって、気持ちを静めようとした。おもいだしたくない。しわにまみれ、枯れ木のように痩せ細った腕が伸ばされる。赤い双眼がじっとこちらを見つめている。
 霞んで焦点の合わない瞳は疾うに“今”を盲いて、“先”しか映さない。ひとも、屋敷も、刀も、何も見えない孤独のなかで、わたしの手だけ握っていた。わたしだけが見えると言っていた。

 十年百年千年……気が遠くなるような未来にトバリが呪われることを祈った男。
 友も父も、弟さえ要らぬと拒絶して、いつも敵だけを探す男だった。シスイの背が遠ざかっていく。彼の赴くところ全てで戦火は滾り、美しい春も、鮮やかな夏も、静かな冬も……全てを緋に染めて往く子ども。偶さか、暮れゆく秋だけは穏やかだった。背の紋に見覚えがある。あれのものだ。紅葉を背負った子どもは冷たい指に筆を握らせ、死んだ体に書をしたためさせる。寂しい目をした子だった。何度も、何かを祈っていた。あの祈りは成就したのだろうか。

『……おまえに呪いをかけたかった。気が遠くなるような果てで、彼方でこそ結ばれるものを』
 永久に叶わぬ呪いを願い続ける悲しい佳人。その名をインドラと言う、トバリの甥だ。


 甥と言っても色々あるが、記憶が確かであれば長兄の子だったはずだ。
 同じ時代に在ったにも拘わらず、トバリは長兄との面識がない。肉親だと思ったこともないので、インドラにしろトバリを“叔母”として意識することはなかっただろう──そも当時のトバリは人間ではなかったのだが。何にせよ“甥”と思うのは今のトバリだけで、過去にはそのような意識はなかった。そうでなければ、和合の真似事に付き合わされることもなかったに違いない。
 どういう経緯で知り合ったかまでは覚えていないものの、どうせ兄の悪巧みが発端なのに決まっている。定型を持たない故に自在に姿を変えられる妹と、定型を持つ故に異形から逃れられない兄。どちらが人間の懐に入りやすいかは一目瞭然だ。四六時中変化の術を維持するだけの技量もなく、兄は死体をつぎはぎして“妹の体”を作った。成長することはなく、腐敗を免れただけの動く死体。悍ましいことに“それ”で動くのだから、トバリの思考中枢は頭部にないのかもしれない。

 その、到底“ひと”とは言い難い化け物に、インドラは言葉を教えた。
 文字を教え、彼自身の意志で捨てたはずの家族の情を求めた。やがて利便性を見出したのか、性欲処理にまで付き合わされた覚えがある。インドラは死体の硬い頬に触れて、血の気のない唇に自身のそれを重ねる。動かすのがやっとの指に自身の男性の部分を触れさせ、低い声で何事か話しかける。指が折れ、足が外れるのもお構いなしの行為に、厭わしいような、不愉快な感覚を抱いたのを覚えている。それだけだった。当時のトバリにはインドラが執拗に問うほどの好きも嫌いもなく、理解出来ない行為を強いられる疎ましさだけがあった。四肢がほつれたら、二度と動けなくなる気がして、億劫なような、厭わしいような、何とも言えない不快感。それを伝えることもままならないもどかしさ。知識が蓄積されればされるほどに、知性の無さが過去のトバリを苦しめた。
 あれが所謂“性行為”と悟ったのも、たった今だ。扉間が細君との夜の記憶を残してなければ未だに分からなかったに違いない。確かに時の奔流が記憶を薄れさせた面もあるものの、そもトバリの知性は宿主の肉体に依存する。何の感情も絡んでいない、単なる記録は思い返しづらいのだろう。
 今になって行為のなかに意味を見いだしても、当時は目に映るままにしか受け取れなかった。

 死体の手を掴んで離せない子どもが、トバリではないトバリに囁きかける。
 お前だけは分かってくれ……この怒り、果てのない残虐、焦燥、苦しみが何だったのか。
 息も絶え絶えに──それでも瞳の赫は褪せることなく、彼に千年万年彼方の孤独を伝えて止まない。その異能の瞳が産む未来視の故に自らが欲した全てを失った。それを、トバリではないトバリは何ともいえない空っぽな感覚で見守っていた。寂しいとも、悲しいとも思っていたし、この男から解放されるという喜びもあった。自分は、目の前の男が視るだけで苦しむ“先”へ往くことが出来る。繁殖という明確な目的を有するが故に判断を誤ることもない。わたしは、これとは違う。
 どことなく浮ついた死体人形に、インドラは言葉を続ける。死の際で肉体から剥がれかかった魂が千年万年越して、数億光年の先までも視たのだろう。この世の理から外れた神威へ予言する。
 千年後の未来におまえは肉の体を得る。人智を超えた己に関係がないと見下していた痛み、怒り、苦しみ、渇望も、お前らが俺の瞳力を育むために利用したものの全てがお前を蝕むだろう。

『その時にこそ、おまえは俺の呪いを解する』
 それが彼の終わりだった。


 自分と同じ骸と化した老爺を見下ろして、トバリではないトバリは思った。
 星の寿命を丸ごと費やして呪うほど憎いなら、いつまでも傍に置くことはなかったのに。
 あなたの瞳に宿った異能はあなたの欲したものを根こそぎ奪っていったが、異能によって生かされる身の空虚を知ろうともせず良い気なものだ。千年万年、億年超えて光年までも……それがどれ程永いかも知らぬ身で安易に神威を呪ってくれるなよ。トバリは、本当に千年経ってしまった。
 インドラの呪いは成ったのだろうか。約束の千年を超えて、彼を思い出したことこそ成就の証なのかもしれない。痛み、怒り、苦しみ、渇望……インドラの瞳力を育むために利用したもの。
 人を人と思う脳もなく、兄の言いなりになっていた罰が下ったとでも言いたいのか。
 それが、あなたが人の身で識った絶望を未来永劫味わい続けることだと言うなら、最初から、いや──どうせ、インドラが視ようと視なかろうと、肉体を得ることに代わりはないのだ。

 ただ千年前にトバリを呪った男がいただけのこと。
 そして今も、トバリを呪う男は存在する。
 この二人の存在をして「大したことではない」と結論付けるべきなのか、何か違う解があるのか。この疑問を解いた果てに、何か救いはあるのかと考える。この苦しみは終わるのか、と。
 


「行ってくだせえ」
 緩慢な仕草で振り向くと、裏門から少し離れた場所にセンテイが立っていた。
「あとは全部オレんが何とかします、だから、もう……あなたの心が望むままにして下さい」
 頭痛は失せて、視界も思考も明瞭そのもの。ほんの僅かばかり四肢の繋ぎ目が気になったが、肉の体は脈絡もなく腐り落ちたりしない。トバリは目を眇めて、センテイを見つめる。
 外へ出たいと思う。一人は寂しいと思う。自由がなくて退屈だと思う。自分のことを分かってほしいと思う。その何れも……他人が心から願ったものの、何一つ与えることはなかった。
 トバリは母を見限り、兄を裏切り、インドラを理解せず、“トバリ”を殺し、カンヌキを狂わせた。そんな自分に、この老爺は“欲しても良い”と言う。望んでしまうものは仕方がない、と。
 それ故に、自分に僅かばかりの善性があるなら、この老爺だけは決して苦しめてはならない。

 トバリは後ろ手に門扉を閉めた。
 センテイが今にも泣きだしそうな顔をするので、気を逸らすために口を開く。
「さあ、カンヌキのところへもどろう。この“ぐこう”のもうしひらきをしなくてはな」
 何でもない風に振る舞って、何も思い出しはしなかったと言い聞かせて、どうせ呪われているのだと開き直って、センテイの下へ近寄る。その潤んだ目元を拭って、しわだらけの手を取る。
 じき、トバリはこの屋敷を出ていく。センテイとの約束を違えることになるけれど、戦争も終わって、これからはカンヌキも屋敷に帰ってこないでは居られない。何かと敵を作りがちなセンテイは、暇を持て余した親戚にとって都合のいい玩具だ。センテイ一人で凌いでいた嘘も、カンヌキが間に入れば滅茶苦茶になってしまう。ボロが出る前にこの家の“一人娘”は消えたほうが良い。
 この庭は美しいし、センテイにトバリの名で呼ばれるのも好きだった。
 ここに自分の居場所があるかもしれないと思った。ここに自分の居場所が欲しい、とも。
 でも、結局のところ、ここはトバリの居場所ではなかった。
 思えば、トバリの願いは“外へ出たい”わけではなかったのだろう。

 トバリはただカンヌキの二人目の娘に成って、ここへ帰ってきたかったのだ。




 カンヌキの折檻はさほど酷くなかった。兄の精神支配が随分緩んでいるらしかった。
 いつもどおりの怪我。いつもどおりの痛み。体を気遣うセンテイが、あたりの血痕を始末しながら「今日はまだてえしたことにならねえで、ホッとしました」と漏らす。きっとシスイのおかげだと思っているに違いない。実際、その通りだった。何故なのか、カンヌキはシスイを気に入ったらしかった。多分“はたけサクモ”に似ているからだ。自分の失ったものに似ているから、少しだけ優しい気持ちになったのだろう。シスイがいなければ、もっと手酷く扱われたかもしれない。
 トバリ様、どのような形であれ……お嬢様を戻すことは出来ねえでしょうか。おれぁ、坊ちゃんは何か、区切りが欲しいんだと思う。だから、今すぐは無理でも……。センテイが低く呻く。トバリはそれを、なんだか、遠くの見知らぬひとの言葉のように感じていた。汐のように全身の感覚が失せては、僅かな間をおいて打ち寄せる塩水に浸される。その繰り返しに意識が遠のく。
 おじょうさま……“トバリ”を蘇らせろと言っても、それは無理な話だ。トバリは母や兄と違って、この身に宿る神威を行使することは出来ない。飽く迄“神威そのもの”なのだから、ハサミに向かって「紐を切れ」と言うのと同じ。増して、トバリは呪言に縛られている面もある。インドラの未来視から免れて、その更に先……彼が視ることの出来なかった時を迎えるまで“カグヤの系譜”という、所謂“神格”を得ることは出来ない。トバリはその性質が既に“隷属”であり、それと同時にその言動が人間から逸脱しすぎることがないよう縛られている。要するに、何もかも識っているだけで何も出来ない存在なのだ。ただ使われるだけで、トバリには自らの神威を使うことは出来ない。

 そんなら、人間でも……使い方さえ分かれば?

 どこまで話したか、切れ切れにしか話していないのか──何にせよ、安易に話して良いことではなかった。今日は然程殴られなかったのに、何故頭がボウッとするのだろう。色んな事があって、色んなことを思い出したからだな。もう、もう……センテイ、もう、この話はやめだ。
 結局のところ命というのは、定数だ。この地にはこの地の理があり、生きる者は皆それに縛られている。そうでなければ生きていくことが出来ない。私と兄はそうではないんだ。上の兄たちは人としての側面が強かった。母がまだ人だった頃に産んだからだ。彼らは母の胎で十月十日過ごし、産道を通ってこの世界にやってきた。でも私たちは違う。私たちが母のなかで二月も過ごさないうちに、兄たちが彼女を殺した。私たちは産まれそこなった。それを、人の形で固定した男がいる。
 本来なら──ほんとうは、母さまだって出来ないんだ。偶さかの偶然で、兄は運が良かった。いや、もしくは……こうなることも見越して……センテイ、今日が新月でもこれで終わりだ。
 あの人たちが何を考えているか、何が出来るのか、私にだって分からない。ただ、大きな流れをそっくり変えることは出来ないはずだ。だから、一を入れるなら一を外さなければならない。

短針で一回り

「……私を受肉させるために、あれの魂は輪廻から消え去ったんだ」
 襖の向こうで、床板が軋む音がした。
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