追記

 きみにひとつの呪いをかけてあげよう。
 そう言って無垢に笑う女は、果たしてどんな絶望から出奔したのかと思うことがある。

 波打つ金の髪に緑の瞳――もうずっと昔のこと、自分の生涯の主に似た色彩を持つ女がいた。
 もう俺の物心ついた時にはシェヘラザード様に忠誠を誓っていて、あまりに気高すぎるこの国の守護者を視線で追えば、必ずと言っていいほど彼女の姿も目に入った。シェヘラザード様のことしか見えていない彼女は、俺の叔母だった。

「ムー、シェヘラザード様のことが好き?」
「うん」

「私も好き」

「この国を亡ぼすための王を産みたいわ」
 叔母が何を言っているのか、無論当時五歳の俺にはよくわからなかった。
 最後に会ったということで父親から色々なことを聞かれたが、何故なのか叔母の違和感を口に出来なかった。元よりたった五歳の息子から何か聞き出せるとも思っていなかったらしく、それ以上追及されもしなかった。


「ムー」
「貴方もそろそろ身を固める年頃でしょう。誰か好い仲の娘はいないの」
「生憎と」

「ドンャザードのようなことを言うのね」
 一瞬、おまえは信頼がおけないとでも言われたのかと思った。動揺を露わにするムーに、シェヘラザードは緩く頭を振って否定した。
「深い意味はないわ。強いて言えば、貴方もドンャザードのことが嫌いではなかったでしょう」
 貴方もということは、シェヘラザード様もまだ叔母のことを憎んでいないのかと思った。
「まあ、随分と構ってもらいましたからね」

「貴方と同じ、二十三歳だった」
「あの子と会った最後の夜に、そろそろ身を固めなさいという話をしたの」
 レームの街へ星々のように散らばる灯を眺めて、青い瞳を細める。

「生きていれば、今は四十一歳かしらね」
「……結局、足取りは掴めなかったんですか?」
「詳細は分からなかったわ」

「あの子は、本当に優秀な魔導士だった」
「膨大な魔力を持っていたから、早くから私の下で学ばせたわ。賢い子だったから、十三歳の頃にはもう一端の魔導士として戦場へ往くこともあった。兎に角私のことを尊敬して、慕ってくれて……殆ど私が育てたようなものね」
 シェヘラザードはきゅっと唇を噛んだ。普段は感情が死んで気だるげな瞳が大きく開かれて、夜の果てを見つめている。
 叔母とシェヘラザードの間に何があったかは、ムーの知るところではない。しかし、この気高く優しいひとは、レーム帝国を愛するのは別のところで叔母を愛していたのではないかと思った。武官の真似をして剣を捧げる叔母と、それを受けて満ち足りた笑みを浮かべるシェヘラザードの姿を忘れることは決してないだろう。パルテビアとの戦事と自らの欲得しか関心のない貴族たちの権謀術数の狭間で、ひたすらにこの国を愛し守るひとがいる。その貴人にすべてを捧げて生きることが、ただひとつ穢れない生き方なのだと思った。
「……育て方を間違えたわ。もっと突き放して、無感情に接するべきだったのに、愚かにも情を注ぎすぎてしまった」
 冴え冴えとした冷酷ささえ感じとれる声音だった。

「貴方は違うわね、ムー」


「早く好い娘と所帯を持ちなさい。そうすれば、この国を捨てた叔母のことで私にからかわれることもないのだから」



 ほら、シェヘラザード様に薔薇を持ってまいりましたと笑う。するりと他人の心に入り込むのが上手い子だった。その明るさはどこかムーに似ていたけれど、ムーよりずっと作為的なところのない明るさだった。今思えば、あの子の魅力は魔性に近いものがあったのではないかと思う。名門のアレキウス家に産まれ、魔導士としての素質に恵まれているばかりか文武両道を地で行く“完璧な騎士”だった。

『殿方には興味がないのです。でも、子を産むことには興味があります』

『シェヘラザード様。私の死後も、貴方の御世に永年続きますように』
 膨大な魔力を持ってはいても、所詮マギでもない普通の人間だ。五型魔法を得手としていた彼女は私の老いと衰弱を食い止めようとしていたが、最早それは誰にも叶わないと知るや考え込むことが増えた。彼女を取り巻くルフに黒いものが混じるようになっても、私には如何にも出来なかった。その絶望が私に向けられた好意故のものであり、私への情を失えばこの娘はレームからも去ってしまう。放逐するにはあまりに優秀な魔導士を、レームの脅威になりかねないという疑心から殺せと言うのだろうか?
 忠誠を誓われたことは少なくない。私のために命を落とす民も、私を愛してくれたひとも両手に溢れる。ただ、あの子があんまりに直向きに私を愛し、激しい向上心と探求心を見せるから過剰な期待をかけてしまった。今はまだ精神的に未熟でレームへの愛情も薄いけれど、いつかは……私がこうしてレームを愛するように、私が死んだ後も、この国を守ってくれるのではないかと思ってしまった。
 愚かなことをしたと、思う。感情を露わに他人と接してはいけないと己に科していたはずなのに。

 例え堕転しても、あの子は決して私の下を離れない。私と、私の愛する帝国に仇なすことはない。その無自覚の重石から、あの子はこの国を出ていってしまった。ドンャザード、私が教えたなかで最も魅力と才能に溢れて優秀だった魔導士。私の最後の弟子。



 君に一つの呪いをかけてあげよう。明日にはきみの全んぶが消え去ってしまう、そんな悪夢を分けてあげる。
これは二人だけの秘密だよ、ムー。絶対に誰にも話してはいけない。例えそれが私たちのシェヘラザード様でも、絶対に。何故って、子供は親に秘密を作るものだからね。ムー。きみが好きだよ。私よりずっと素直にシェヘラザード様のことを慕うきみが好き。シェヘラザード様のことが好き。あの方のことが、とても好き。ムー、誰にも内緒だよ。
 私はもうすぐ堕転する。でも、世界で最もうつくしいひとの前で堕ちていくことは出来ない。


 あの頃の叔母と同い年になってみて、はじめて分かることがある。
 帝国を守り続ける美しいひとが、どれほどの傷と傷みのなかで永らえているか知っていて、最早あのひとには耐えきれなかったのだろう。自分と同じ年を生きていると信じている相手が数百年の歳月を生き抜いて、いつ死んでも可笑しくない。その恐怖から、堕転に最も近いところまで落ちてしまったのだと思う。

 あのひとは、この国を亡ぼすための子をどこかで産んだのだろうか。

 どこか遠い国がいいな。戦で荒れていて、王位が乱れに乱れている国。いつか必ず歴史が動く時がくる。その時に、レームやパルテビアより先んじてこの世界を終焉に導くことが出来る、そんな国に私の血を残したいわ。
 やがて堕転する私の黒い血と膨大な魔力を受け継いで全てを呪う、そんな子供を産みたい。
 潤んだ緑眼がムーを映しこんで、微笑みかける。シェヘラザードと同じ波打つ金髪は、彼女の自慢だった。その美しい金糸がムーに覆いかぶさる。あどけない温もりがこもる額に口づけて、約束だよと囁く叔母は――それは、凄絶に張りつめてうつくしかったのだ。
 琥珀がはめ込まれて美しい金細工が、幼い掌に落とされる。約束の印だと握らされた耳飾は、今もまだムーの手元に残っている。あの対は、今もまだ叔母の耳朶に寄り添っているのだろうか。それとも、あのひとの堕転の罪と共に潰えてしまったかもしれない。

 ねえ、ムー。君にひとつの呪いをかけてあげる。
 明日にはわたしの全んぶが消え去ってしまう、そんな呪い。百年千年、永遠に終わらない悪夢。

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