琥一は昇降口に足を踏み入れた瞬間、眉を顰めた。
普段の朝と違い色めき立っている雰囲気と、グループと化して群がる女子の声がいつもより数段大きい。
きゃきゃ、と何やら話に花が咲いている。朝からその高い声は聞きたくない。
ささっと教室に行くか、と琥一は靴を乱暴に下駄箱に入れその場から逃げるように歩き出す。
朝からよく喋れるな、と教室に向かいながら働かない頭で漠然と考えた。
女のおしゃべりほど怖いもんはねぇな、しみじみと思うのだった。
そんな寝起きのような状態では、今日が何日か、気付くわけもなく。
浮かれている校内にも、朝からいちゃつくカップルにも視界に入っていない。
あー、そういえば、あいつも朝からちょこまかと小動物みたいに動き回るもんな、そのくせ、力を入れたら簡単に折れそうな腕してやがる。
思い出し笑いをしている琥一の横を他の生徒がびくびくして通っていることに気付かない。
タイミングよく琥一の目に彼女の後ろ姿が入り、声をかけようと背後に近付いた瞬間。
琥一の中の時間が止まったかのようにその場から動けなくなってしまった。
瞬きも呼吸さえするのを止めて、それを見ていた。
彼女が親しげに男と話をしていたから。
それだけでなく彼女は恥ずかしそうに目を伏せて、ピンク色の紙袋を差し出していた。
小さな紙袋を男に渡しているのを見て、琥一は今日がバレンタインデーだと思い出した。
恥ずかしそうに俯きながら、彼女が両手で差し出した小さな紙袋は、一目見て高級品だと琥一でも分かった。
なんだ、そういうことか。出てくる言葉などない。ただ何かに向かって嘲笑う。
自分に対してなのか、男に対してなのか。彼女が男に向け赤らめた頬なのか。
どうでもいい、何もかも、終わったんだ。
その笑い方は自分だけが見られるものだと勘違いしていた。
特権だと思っていたんだ。
まぁ、確かに幼なじみの特権だというのは間違っていなかったが、それ以上でもそれ以下でもなかったのだと、琥一は思い知らされた。
幼なじみの関係の曖昧さが、窒息するほど苦しく感じた。
失望か、絶望か。
限りなくそれに近い黒い感情が琥一を飲み込もうとしていた。
一番近くにいると、一番近くにいられると、それを信じて疑わなかったのに。
今はそれが崩れ去るのをただ見ていることしかできない。
琥一は教室へ行くのを止め、今歩いてきた廊下へと戻る。
彼女は気づいていないのだろうそのまま男と話している。
琥一の足は自然と屋上へ向かっていた。
気温は低いが太陽の熱がじんわりと屋上のコンクリートに伝わっていて、寝そべるとそのまま夢の中に引き込まれそうだった。
「一時間目からサボるの?」
起きているんでしょ?と彼女は琥一の近くに腰を下ろしひとり話を続けた。
お前だって授業に出てねぇじゃねぇか、と琥一は言いかけて止めた。
「コウ君、今日何の日でしょう?」
「知らねぇし、興味もねぇ」
「えっ、あ、……そっか」
明らかにトーンダウンした声を聞き、仕方なく琥一は起き上がると彼女の方を向き答えた。
「ちっ、バレンタインデーなんだろ」
「知らないって言ったくせに」
「今、思い出した」
嫌みを言った彼女に嫌みで返すと、もぅとお決まりの言葉を琥一に返してきた。
「それでね。もしよかったら、これ」
琥一は彼女が差し出した赤いチェックの袋から一瞬で目を逸らす。
「あいつにもやったんだろ」
「えっ、あいつって?」
「朝、やってただろ」
「朝?うん。普段のお礼も込めて義理チョコだよ?」
「でも、やったんだろ?チョコレート」
チョコレートをあげたという事実は変わらないと、琥一は彼女に突き付ける。彼女に突き付けたのか、自分に言い聞かせたのか。琥一にはそれが分からなかった。
「どうして、そんな意地悪言うの」
琥一の目に唇を食いしばり必死に涙を堪えている彼女が映った。
分からねぇんだ、どうしていいのかと琥一は深いため息に言葉を込めた。
「コウ君に食べてもらおうってそれしか作ってるとき考えてなかったんだもん」
「……作ったのか」
「うん、ガトーショコラ」
「作ったのは俺のだけか」
「そうだよ、何度も言ってるのに」
彼女の瞳がじわりと滲んだ。だからなんで泣くんだよ、泣きたいのはこっちなんだと琥一は首をうなだれた。
これではどっちが意地を張っているのか。最後に折れるのは決まっているのに。
「コウ君、食べてくれないんだもん」
「ぁあ?誰が食わないなんて言ったんだよ」
「そんな嫌々で貰ってほしくない」
「……来年は義理でも他の野郎にやるなよ」
彼女の手から紙袋を取ると、琥一は彼女の髪をくしゃりと撫でた。
互いの気持ちに気付いた日。
春が始まる、バレンタイン。
fin.
―――
バレンタインリク◎バンビが他に(高級)チョコを渡すのを見て嫉妬、のあとに手作りを貰う
バレンタインデーって春の始まりだなと思ってます。上手くいかなくても先に進まないといけない季節で、上手くいったら一緒にお花見デート。
バレンタインデーがこの時期でよかった。真夏だったら、チョコレートの代わりに何を渡すのが定着していたのかな。
20110214