明治25年。


ガス灯がぽつぽつと点きはじめ、夕暮れの街に溶け込んでいく。
大通りを歩く人波の中には外套(コート)を身に纏い、帰路を急ぐ人の姿が見受けられる。
その様子が目に入った桜小路 花は肩を震わせた。


 title by 菜花さん



「冬が近づいているのね」

白く染まった息を吐き、花は隣を歩く級友のミヨに顔を向けた。

「寒いから人力車にしましょうと言ったのに」

寒いことが苦痛なのだろう、ミヨは口を尖らせぶつぶつと小声で文句を言った。

「えへへ、でも冬の風に当るのも気持ちのいいものでしょう」


濃紫の袴に編み上げの深靴を履いた花が手を広げると、赤紫をした矢がすり模様の小袖が大きく踊る。


「そんな調子だから学長先生にお転婆娘と言われるのよ」

「……どうしてそれを知っているの?」

「そんな予感がしたの」


ミヨはくすりと笑みを浮かべ、花は乾いた笑いでそれに応えた。

ふたりが通っている華族女学院は名家の子女しか通うことしか許されておらず、入学前から教養と作法の素地が備わっているが求められる。
また入学後にも、良妻賢母になるための教育として、料理、裁縫、茶道などの授業が取り入れられている。

周りは生粋のお嬢様ばかりという環境にいるにも関わらず、花とミヨは自由奔放に学園生活を送り、教師たちからは半ば呆れられているに近かった。
無論、このふたりも由緒正しい家柄の子女であることには変わりない為、教師たちは多少黙認している部分もあるのだろう。



「怒られたこと内緒にしてね」

「まぁ、怒られたの。それでは内緒にしていてもすぐに話が回ると思うわ」

「お父様の耳に入ってしまったら新しい髪結い紐が買っても貰えなくなってしまう、困るわ」


長く伸ばされた花の髪に結ばれた、深紅の結い紐が風で大きく靡いた。
金色に縁取られた幅のある結い紐は最近買ったものだった。


「学長先生が仰しゃっていないことを願うしかないわね」

「ほら、袴の色が海老茶色に変わるかもしれないんでしょう。それに合うものが欲しいの」

「近頃は格子模様が流行りみたい」

「……もし、よかったら明日にでもお店をのぞきにいってみない?」

花の宝石のように輝いた瞳にミヨは諦めたよう肩を竦め頷いた。



「また明日」


ミヨと分かれた花は門限に間に合わせるために坂道を駆け上がった。この先の小高い場所に花の家は建っている。
近所の人に見られたらまたお転婆娘と言われることが容易に想像出来たが、今はそれを気にしている余裕が花にはなかった。

思いがけずミヨと長く話しすぎてしまいふと、気付いたときには門限が近づいていたからだ。
門限を守れなければ、明日買い物に行けなくなってしまうだろう。
それどころか学院まで人力車の送り迎えを付けられしまい、今日のように会話をしながら帰り道を歩くことが許されなくなってしまう。


「尋ねたいことがあるんだが」


後ろから声が聞こえ、花が振り返ると6尺近くありそうな長身の男が立っていた。
その身長にも驚いたが、見たこともない男の髪色にも仰天した。


驚くほど鮮やかな、栗色の髪。


その髪を見上げていると、その男と目が合い花は、はっと息をのんだ。


「そんなにこの頭が珍しいか?」


花の視線で気付いたのだろう男が自らの頭に手をやり、金ダワシで鍋を擦るようにがしがしと力任せに数回頭を掻き混ぜた。

少年のような仕草と強い意思を感じさせる男性としての目力に花は圧倒され背筋が伸びる思いがした。
花は密かに学生だろうか、と己に問う。
世の男性の中では洋服が主流となりつつあるのにも関わらず、男は見事なまで袴を着こなしている。
落ち着いた深緑の袴に上衣の襟元はぴんと張り合わさっている。
背筋を伸ばした出立ちが男の長身を強調し、威圧感が生まれている。


「ごめんなさい、あまりに髪色が綺麗なのでついじっと見てしまいました」

髪を凝視したことが男の気分を損ねてしまったのでないかと花は思い、素直に述べた。

「そう言われたのは初めてだ、大抵の人間は目を逸らす」

「とっても綺麗です。……あの、男の人に綺麗と言ったこと気を悪くなさらないでください」

「気になどしない。それで道を尋ねたいのだが、柔道場はどこにあるんだ」

真っ直ぐな男の視線に花は今までにない胸騒ぎを感じた。

「柔道場ですか…」

確かにこの辺りには、古くから続く家々が密集している地区ではある。
日本経済に名を轟かせている財閥の本家や茶道の家元などが並んでいる一等地なのだ。
そのひとつに代々柔術を学んでいる家があり、その敷地内に柔道場があることも花は知っていた。

「右を曲がったところのお屋敷の敷地内に道場があります」

「そうか、助かった」

「いえ、ではこれで失礼します」

「おい、名前は?」

軽く頭を下げ花がその場を去ろうとしたときに男の声が辺りに響いた。

「はい?」

「名前を聞いているんだが…」

「桜小路 花と申します」

「旧制中等部3年、不二山 嵐」

「……嵐さん」

初めて耳にした名前なのに、どこか懐かしい響きに花は何度も頭の中で反復した。
遠い記憶にあるような、新鮮な春の息吹を思い出すような。
そんな歯痒い感覚が電流のように花の身体を巡った。

「では、また」

男が言ったことに花は耳を疑い聞き返した。

「また、ですか」

「ああ。またお前に会うだろうからな」

何からの確信を持って真面目に言う男に花はただ小さく頷くことしか出来なかった。
感じたことのない感覚に花は戸惑う。
そんな言葉を異性に言われた経験がないというだけでなく、その一言で水風船が割れたように何かがぴしゃりと弾けた。


名前しか知らないこの男と再び、逢う。
それが明日なのか、明後日なのか。
初雪の降る瞬間に、菜の花が咲き誇る前で、うだるぐらいの暑さの中で、粛々と散りゆく紅葉の隙間で、出逢う。
遠い未来かもしれないが、この男は再び逢うと断言した。


男は花に教えられた道へと歩き出し、あれほど威圧感を感じた身体はあっという間に小さくなってふつりと消えて行った。
その背中を見送りながら、花は門限のことを思い出し、はっと頭を数回振り、時刻を確かめる。
門限は数分過ぎてたが、花の心の中には門限さえどうでもいいと思えていた。
何故だか分からないが、良かったとさえ感じていたのだ。

明日学院でミヨにこの出来事を話そうと決めて、花は大きな一歩を踏み出し、勢い良く坂を駆け登った。


暗くなった空には、数え切れないほどの星が輝き、月の光が花の行く道を明るく照らしていた。


fin.
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