「教師のくせに」

 初めて彼女に会ったときのことをふと思い出す。あの日はジャンプの発売日かなんかでZ組の授業を自習にして屋上で煙草をふかしながらジャンプを読みふける俺に、同じく授業をサボって屋上の扉を開けた高校一年生の名字はそう言った。当然ながら顔は今よりも幼く、風に揺れる染めたばかりであろう茶色の髪を見て「イキがっちゃってまあ」なんて思ったものだ。
 それから授業中屋上に来るたびに名字に出くわすようになった。そしてその度に「茶髪似合ってないぞ」なんてからかったものだ。

「あ、先生」

 高校二年。名字は急に黒髪に戻し、化粧でも覚えたのか急にあか抜けていった。廊下や授業で見かけるたびに大人びていき職員室でも「名字、最近可愛くなりましたね」なんてちらほら話題に上がるほどだった。そしてそれと同じように「何組の誰と付き合いだしたみたいですよ」と男事情が囁かれ、まるで週刊誌においかけられる芸能人のごとく話題が尽きなかった。
 ある日その話題に上がった男と帰るところだった名字と、下駄箱で出くわしたことがあった。その時名字は俺を見つけて、気まずそうに目を逸らした。俺は勿論大人ですからそんな様子に気付かないふりをして「いちゃつくのも結構だが、人前では控えろよー」なんて適当にからかってその場を足早に離れたのを覚えている。
 急速に女になっていく名字を目の当たりにして、混乱している自分と向き合うのが怖かったのかもしれない。

「失礼、します」

 高校三年。三年生が自宅学習期間に入り学校がめっきり静かになった頃、国語科準備室を訪れた名字は少し気まずそうな顔をしていた。名字の担任の話によれば難関大を受験するとかで、学校でも塾でも朝から晩まで頑張っているという話だった。その名字の志望校の試験日は確かあと三日後だったはず。そんな大事な時期に何をしに来たのだろう。国語科準備室には俺しかいないし、それを見ても立ち去ろうとしない様子から俺に用があるのは間違いないらしかった。

「おう。久しぶりだな。なんか飲むか? って言ってもイチゴ牛乳しかねぇけど」
「だっ大丈夫です。すぐ、帰ります」

 こんなに吃るやつだったか。思えば名字とちゃんと話をするのは屋上で会う時以来だ。ということは二年も前なわけで、その月日の経過に俺は密かに驚いていた。二年もロクに関わってなかったくせに、全くそんな気がしないのはどうしてだろうか。職員室でよく噂されていたから? 廊下で会えば会釈くらいはしたから?

「にしてもお前、集英大受けるんだってな。聞いて驚いたわ。Z組のやつらも見習ってほしいもんだ」
「先生」
「……おう」

 何かを決意したかのような目をした名字に、これ以上口先だけの会話を振ることはできなかった。

「これ、貰ってください」

 差し出されたのは小さな紙袋であった。

「ん? ああ……おう」
「差し入れとかじゃ、ないですから」
「……ああ」
「今日、バレンタインデーだから。だから……」

 名字が何かを言い終える前に、俺はその震える身体を抱きしめたい衝動を抑えて、彼女の頭に手を乗せた。彼女の言葉尻は震えていて、尚且つ俺を真っ直ぐに射抜く瞳は潤んでおり、こんな時に抱きしめることすらできない自分が情けない。

「これチョコ?」

 俺の質問にビクっと名字の肩が震えた。そして二回コクコクと頭を縦に振った。

「受験勉強の息抜きとか、そんなんで作ったわけでもないです」

 その自ら逃げ道を潰すような言葉を、ついついおかしく思い噴き出してしまう。
 
「わ、笑わないでください」
「いやいや、正々堂々としすぎでしょ」

 名字はそのまま俺の胸元あたりに視線を向けて、暫く考えるように固まった。俺はそれを上から見つめて、なんと言えばよいものかと次に発するべき言葉を選びながら、彼女から年相応の幼さを感じ取っていた。

「まだ、何も言わないでください」

 しっかりとした声でそういった名字は、少し名残惜しげに俺から一歩を 後ずさった。そして頭を下げてから、部屋を出て行こうとする。

「手作りじゃなくてもいいか?」
「え、」

 扉に手をかけた名字は振り返って少し間抜けな声をあげた。

「だから、ホワイトデーのお返しよ」

 俺の言葉に目を見開いた名字。そして、口元をまごつかせながら「はい」と言った彼女は、勢いよく頭を下げて国語科準備室を出ていった。


 窓を開けると吹きこむ風はあの時とはうって変わって暖かく、白衣だけでは肌寒いものの季節が春に変わっていくのを肌で感じていた。校門にある紅白のペーパーフラワーで縁取られた立て看板の「卒業式」の文字と、証書を受け取る生徒たちの顔が順々に思い出される。校舎内にはまだちらほらと生徒が残っていて、語らいあったり写真を撮ったりと各々最後の時間を過ごしているようだ。

「失礼します」

 あの時とは違い、凛とした声でそう言って国語科準備室に入ってきた名字。振り向いて彼女の表情が見たい。けれど急に自分がどんな顔をしてよいものかわからなくなって、振り向きもしないまま後手を振り生返事をした。

「返事を、聞きに来ました」

 背後に立っている気配。そして、誤魔化そうとしない真っ直ぐな言葉。ゆっくりと振り返ると、そこには小難しい顔をした名字の姿があった。そして例に漏れず、俺を真っ直ぐに見つめている。

「そういや、チョコ美味かったわ」
「一番出来が良かったやつですもん」
「ハハ、何回作ったんだよ」
「だって、得意じゃないんです。こういうの」
「確かにガラじゃねぇな」
「失礼」
「悪ィ悪ィ、これお返しな」

 少し早いけど、と言いながら店で買った時の袋ごと名字に差し出すと、目を丸くさせてから彼女はそれを受け取った。ホワイトデー一色のデパ地下で小一時間ウロウロと歩き回ったことを思い出す。

「あ、りがとうございます」
「おー。心して食えよ」

 紙袋の中を見つめる名字と、手近の煙草に火をつけた俺。暫く沈黙が続く。言うべきは俺なのに、上手い言葉が見つからない。自分でも意外なほどに、緊張しているらしかった。

「屋上で初めて先生に会った時、なんていい加減なダメ教師なんだって思いました」

 表情が固いまま、唐突に思い出話をはじめた名字。

「教師のくせに授業さぼって屋上で煙草吸うなんてありえないって思いました」
「それまんま俺に言ってたもんな。お前」
「はい。でもいつの間にか、屋上についたら先生を探すようになりました。先生に会うために屋上に行くようになってました」

 固かった表情が柔らかなものへと変わっていく。大切な記憶をそっと取り出すような、懐かしげな表情だった。

「茶髪似合わないって言われて、黒髪にしました。他の子よりも大人に見られたくて、化粧も研究しました。下駄箱で先生にクラスの子と付き合ってるって誤解された時、先生の変わらない反応が悔しくて、諦めようかなって思ったけどやっぱり無理でした」

「受験も、受かったら職員室で名前が出たりして先生に思い出してもらえないかな、廊下とかで偶然会った時に褒めてくれるかもって思って勉強してました」

「先生、わたし先生のことが好きなんです」

 好きという言葉と共に、目に溜まった涙が一粒溢れた。もう一粒溢れそうだというところで、俺は感情のままに名字を抱き締めた。肩は小さく震えている。

「先生。私と同じ好きじゃないなら、優しくしたりしないでください」

 本当に高校生か。そう思うほどの強い意志のこもった言葉に反して、声は震えていた。肩にじんわりと生温かい彼女の涙が染みてゆく。

「名字の名前、職員室でよくあがってた」
「可愛くなったとか、彼氏ができたらしいとか、難関大を受験する、とか」
「お前、職員室ではちょっとした有名人レベルだったんだぞ」

 抱き締めたままだから表情はわからないが、ゆっくりと彼女の呼吸が落ち着いていくのがわかる。

「お前に何人彼氏ができたって話を聞いても、ガキの惚れた腫れたくらいで嫉妬なんてしませんよと思ってたんだ。そんなん一過性の風邪みたいなもんだってな。まあ、もうその時点でお前も惚れてんじゃねぇかってツッコミは今は置いといてくれ。
ただ、あの日お前に下駄箱で会った時、話題に上がった彼氏が隣にいるのを見て急にお前と俺の年齢の差や立場の違いってもんを突きつけられた気がした。それでもなんとか平静を装ったけどな」

「それからは気付いちまったことを誤魔化すのに必死よ。まあ幸い三年になってお前とは選択授業でも被らなかったし、勿論Z組でもないわけだからなかなか会わなくなった。無理矢理考えないようにしてたのに、職員室では今度は難関大受験をするってことでまた名字の名前が度々あがったりしてよ。ま、お前の思惑通りだったわけだが」

 きっと面と向かって顔を合わせていたならば、こんなことは言えなかっただろう。彼女を抱きしめる腕に自然と力が入っているのに気づき、意識的にそれを緩める。

「つまり、何が言いたいかっていうと俺もお前と同じ好きってことなんだけど」

 名字の勇気を見せつけられていたからか、好きという言葉に躊躇いはなかった。けれど、やはり照れ臭さは拭えるわけもなく、その後に続く沈黙はそれを余計に肥大させていく。

「あの、なんか反応してもらえませんかね」

 ついに沈黙に耐えきれなくなった俺はムードもへったくれもなく、俺に密着したままの名字の肩に両手を置いた。すると彼女の真っ赤な耳が目にはいる。

「名字?」

 そっと顔を覗き込むと、そこには耳同様に顔を真っ赤にさせて彼女が気まずそうに俺から視線を逸らしていた。

「み、見ないでください」
「いや、ここで今更恥ずかしがるか?」

 さっきまで散々はっきりとモノを申していたくせに。目に涙を溜めて赤面する名字に、先ほどまでとはまた別の可愛さを感じる。どんなに意志を強く持っても、努力をしても、見た目の大人っぽさとは裏腹に年相応な彼女の一面を見た気がした。

「そろそろこっち見てくれませんかね」
「も、もうちょっと待ってください」

 そんな彼女が慌てる姿を見ていると、ついついもっと困らせてしまいたくなる。俺から必死に視線を逸らそうとする名字の頬を両手で挟み、無理矢理視線を合わせる。

「で、どうなんですか」
「ど、どうって……」

 視線を右往左往させた後、消え入りそうな声で「嬉しいです」と言った名字の瞳から涙が一粒零れ落ちた。どんな反応をするかと期待してその涙を舌で掬うと、名字はまたさらに顔を赤くさせ期待通りに慌てふためいた。

「なにするんですかっ」
「なになに? 口がよかったって?」
「そんなこと言ってません!」
「え、したくないの?」
「し、したくないとか、じゃ……」

 なんて楽しいのだろうか。名字が言い終わるのを待たずに、彼女の唇に自分のそれを寄せた。そっと目を開けると、彼女はぎゅっとかたく目を瞑っている。
 それからゆっくりと唇を離し、終わったと思い恐る恐る目を開けた彼女に今度は深く口付けた。舌を入れた瞬間にビクッと反応した名字に更に面白くなった俺は、一つ疑問が生まれつつも何度も何度も角度を変えては彼女の反応を堪能する。

「な、長いです……」

 どちらのものかもわからない唾液で口元を濡らし、頬を上気させ目に涙を溜めた名字はあまりにも色っぽく、もう一度唇を重ねたい衝動をぐっとこらえて俺は一つ気になったことを口にした。

「もしかしてさ」
「はい」
「初めて?」

 何の躊躇いもなくこくりと縦に頷いた名字。初心な反応からまさかとは思っていたが、それにしても意外すぎて開いた口がふさがらない。

「え、なんで?」
「なんでって、ずっと先生のことが好きだったから……」

 名字話によると、職員室で流れていた噂も全て誤解で、誘われて一緒に帰ったりなんだりとしていただけだと言う。それにしてもモテすぎだろうと思うが。

「なんだよモテ自慢か?」
「あはは、でも先生の所為ですけどね」
「なんでだよ」
「お化粧も髪も、先生に振り向いて欲しくてやったことだから」

 なにも化粧や髪を変えたというだけではなかっただろうに。全く想いが届いていない男子生徒たちに同情しつつも、それを名字に伝えるのは大人気ないがやめた。

「とにかく俺が大好きってことか」
「ちがっ!……く、ないです、けど……」

 普段は凛としているくせに。茶化すとこうして顔色や言葉、表情など全身で反応してくれる名字が愛おしくてたまらなかった。ゆっくり優しく抱きしめて彼女の首元に顔をうずめると、薄っすらとセンスのいい香水とシャンプーの良い匂いがした。

「卒業おめでとう。名前」

 まだ呼び慣れないその名前を呼んで、じわじわと気恥ずかしさと幸福感が込み上げてきた。今俺はさぞ締まりのない顔をしているのだろう。暫くはこの体勢のまま幸せを堪能しようと思い、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。

:)150317
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