雨粒が窓を叩く音に目を覚ますと、国語科準備室には私一人きりだった。時刻は午後七時過ぎ。部活動のある先生は部活を見てそのまま帰ってしまうし、何もない先生ならば早々に帰っていることを思うと仕方がないけれど、それでも誰か帰り際に起こしてくれてもよかったのではないかと思う。窓の外はいつの間にか土砂降りで、常備している折り畳み傘では防ぎようがない。さらに机の上に広げられた小テストの採点はまだ半分も終わっておらず、自然とため息が漏れた。

「ため息つくと幸せが逃げていきますよっと」

 誰もいないものと思い込んでいただけに、突然戸を開けて入ってきた坂田先生の声にびくりと肩が跳ねる。そんな私に坂田先生は「え、俺なんか驚かせるようなことしました?」と冗談交じりに言いながら、両手に持ったマグカップの一つを私の机に置いた。

「誰もいないと思っていたので……これは?」
「どう見ても名字先生のために俺が淹れてあげたコーヒーでしょ」
「あ、ありがとう、ございます……」

 マグカップを手に取ると、それまで冷たかった指先がじんわりとあたたかくなっていくのがわかる。私のために淹れてくれたコーヒーはブラックで、少し濃い目のそれが寝起きのぼんやりとした頭をすっきりとさせてくれた。

「よくブラックなんて飲めますねぇ」
「坂田先生はお砂糖二つも入れますもんね」

 いちご牛乳やコーヒー牛乳を好み、普段から自分が甘党だと豪語する坂田先生の姿を思い出して小さく笑う。坂田先生はそれをバカにされたと受け取ったのか、糖分であるブドウ糖が脳の栄養となることなど何度も聞いたことのある話を言い訳のように語りだした。そんな坂田先生の姿に私はまた笑ってしまう。

「そういえば、坂田先生もお仕事終わらないんですか?」

 ふと、普段あまり居残って仕事をしているイメージの無い坂田先生が今日はどうしてこんな時間までいるのだろうかと気になった。私の質問に、坂田先生は一瞬目を逸らしてからズズッとコーヒーを啜る。

「ちょっと校長にね」
「坂田先生またなにかされたんですか?」
「オイオイなにそれ、俺名字先生の中でそんな問題教師みたいに思われてんの?」
「あ、いえ口が滑りました」
「否定しないのね。確かに俺も行くまでは遅刻のことかと思ったけど」
「違ったんですか」
「その心底意外そうな顔やめてくんない?」

 坂田先生の話によると、Z組の高杉君の出席日数のことについてそろそろまずいから何とかしろというようなことを言われたらしい。Z組の国語は坂田先生がもっているから私は直接担当したことはないけれど、高杉君は入学当初から色々と悪い噂の絶えない子で、一年の時も二年の時も同じように進級が危ぶまれていると職員会議であげられていた。

「面倒臭ェこと全部押し付けやがってよ」
「でも、坂田先生だから高杉君も言うことを聞くんですよ」
「全然言うことなんざ聞いてくれませんけどね」

 また高杉んち寄ってから学校来る生活か、と項垂れる坂田先生に、私は内心感心していた。普段ちゃらんぽらんに見える坂田先生だけど、きっと一年前も二年前もこうして高杉君のことを気にかけて家に迎えに行っていたのだろう。坂田先生の遅刻も学期末、学年末に多く見られたのはそのせいかもしれない。高杉君だけでない。他にもZ組の生徒は皆個性的でアクの強い子が集まっているにも関わらず、三年間まとめあげているし慕われているのだから凄い。坂田先生があまり居残って仕事をしないのは、デスクワークよりもそういった学校外の仕事の方が多いからなのではないだろうか。

「それより、雨すごいですねぇ」
「止む気配ないですね。坂田先生、傘は?」
「忘れた」
「あら」

 天気予報でも降水確率そんなに高くなかったし、そもそも毎朝天気予報をチェックしている坂田先生を想像したらあまりにも似合わなすぎて笑ってしまいそうになる。

「あれ、今笑いました?」
「いっいえいえ。私傘持ってるんで、一緒に使います?」
「え、いいんすか」

 鞄の中から折り畳み傘を取り出して見せると、坂田先生は「小さいっすね」と笑った。

「頑張れば大丈夫です」
「それ、大人一人もギリギリのサイズじゃないっすか?」
「どうせ一人でもこの雨じゃ防ぎきれませんし、それなら一人も二人も一緒ですよ」

 後ろの本棚に寄りかかり少し考えるような素振りを見せる坂田先生。私は手元の小テストの採点を再開する。

「あ、いいこと思いついた」
「いいこと?」
「俺原付なんで、ニケツしましょう」
「……それ、余計びちゃびちゃになりません?」
「いやいや。俺の後ろから名字先生が俺に傘差して、俺は傘に、名字先生は俺に守られるっていう画期的アイディア」

 そんなにうまくいくかなあ、と坂田先生の提案に難色を示す私に、坂田先生はやってみなくちゃわからない、と強く言う。時計を見ると午後八時目前で、明日も早い上にどうせ濡れる覚悟だったしという諦めから坂田先生の提案を受け入れたのだった。

「じゃ、そうと決まればさっさと終わらせっか」
「あれ、手伝ってくれるんですか?」

 私の隣に椅子を持ってきてドカっと座った坂田先生は、白衣のポケットから赤ペンを取り出して小テストの採点をはじめた。

「これ終わらねぇと俺も帰れないでしょ」
「なんかすみません」
「ま、今日の火器戸締り係俺だし」

 坂田先生の言葉に、もしかしたら寝ている私のために坂田先生はストーブをきらないで待っていてくれたのではないかという疑問が湧いてくる。確かに、守衛さんが見回ってくれる時間までに帰らない場合は、その日の係か残った人が責任をもって火と電気を消すというのがこの学校のルールだけど、寝ている私を起こさないためにわざわざ残ってくれていたのではないか。それなら、校長に呼び出された用事は終わっていたはずなのに私にコーヒーを淹れてくれたことも頷ける。

「ほら、手止めないでさっさとやる」
「は、はい」

 思えば、今まで坂田先生とここまで長く二人で話したりしたことはなかった。それゆえに坂田先生が本当に私を待ってくれていたのかという真意は聞けないけれど、ところどころ敬語が無くなったことや、軽く頭を叩いたその手の感触も、実は心地よく思ってしまったことも今は言わないでおこう。
 静かになった室内には、雨粒が窓を叩く音と石油ストーブの音、そして私と坂田先生が紙の上にペンを走らせる不規則な音だけが響いていた。


 まだまだ素直にはなれません



「あれ、なんか増えてません?」
「ついでなんでZ組の丸付けも一緒にと思いまして」
「もしかして、最初から面倒なZ組の採点手伝わせようって思ってました?」
「あーそういえば名字先生のことウチの生徒が美人って言ってましたよ」
「誤魔化し方がへたくそです」

:)150131
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