弱いわけではないからと少し調子に乗ってしまったようだ。目的の駅まではあと二十分ほど。ふらつく足下を吊革に捕まった片手で必死に保ちながら、右へ左へと周りの人と同じように傾く。先程までの幸福な気持ちは、この金曜日の夜の満員電車という状況によって遠い昔のことのようだ。

「すっすみません!」

 電車が大きくカーブをしたのか、ぐらりと揺れる車体とそれに伴う人波に飲まれ私も体制を大きく崩す。捕まっていた吊革からも手を離してしまい、上体が傾いていくのがわかる。転ぶのだろうな、と脳が理解するも身体はそこまで俊敏に動くことはできない。ギュッと目をつむること数秒。一向に訪れない衝撃に違和感を感じる。むしろ、何かに支えられていて、私はまだ立つことをやめていない。

「大丈夫か?」

 声に反応して急いで目を開けると、そこには銀色の髪をした男の人の姿。眼鏡で、眠たげな目をしている。そして、彼は私を抱きとめる形で支えてくれていた。

「すっすみません!」

 状況を理解して自分の足で立とうとするも、左足の置き場がない。右足だけが地面と接していて、左足はというと少し浮いている。必死に左足の置き場を探している今も、電車は揺れる。

「戻せねーの?」
「す、すみません……」

 大きな揺れにまた銀髪の彼に寄りかかってしまう。私の状況を理解した彼は、その手で私の腰を支えた。

「痴漢です、とかは勘弁な」
「そっそんなこと! ありがとうございます」

 ほぼ真下から見上げると彼の顔はよく見えない。身長は、多分百八十ないくらい。服の上からだとあまりわからないけれど、私を支える腕のしっかりした感じから、結構筋肉質ではないかと思う。しばらく続く沈黙の間、私は彼のことばかりを考えていた。

「なに、飲み会かなんか?」
「は、はい。新歓で」
「大学生?」
「はい。といっても、もう四年なんですが」
「飲まされちゃったんだ」
「はい。調子にのりました」

 ガタンガタンと車体が揺れる度に私と彼も揺れる。彼は名前を坂田さんと言って、高校教師をしているらしい。今日は学校で採点作業の最中に眠ってしまって気づいたらこの時間だったという。

「ふふ、災難ですね」
「笑い事じゃねーよ。ドラマも録画し忘れちまったしよ」
「あ!」
「あれ、もしかして」
「私も、すっかり忘れてました……」

 今日の放送で主人公の過去が明らかになるところだったのに、と悔しさから眉を顰めると、坂田さんは面白そうに私の顔を見て笑った。その間も電車は進み当たり前のように揺れていた。しかし私が先程のように体制を大きく崩さないのは、きっと坂田さんが支えてくれているからだ。片足しか地についていないけれど、それほど疲労を感じないのも。

「あ、そういえば坂田さんって高校の先生なんですよね」
「おーこう見えても公務員だぜ」
「アハハ。私も今年、教育実習行くんです」

 へぇ、と坂田さんは少し含んだような表情をする。私はもし行く先の高校に、坂田さんのような先生がいたら楽しいのにとそんな夢のようなことを考えていた。

「あ、わたし次で降ります」
「おう。俺もだ」
「……あの、もしかして」

 本当はもっと前の駅だったのに私の降りる駅まで付き合ってくれたんじゃあ。途中まで言いかけて、坂田さんの手によって塞がれた。その行動で、私の疑念が確信に変わる。

「す、すみません! 何から何まで……」
「いーっていーって」

 まもなく最寄り駅だというアナウンスが車内に流れ、ゆっくり車体は停止した。その影響で少し傾く身体をまたも坂田さんに支えてもらいながら降車して、久しぶりに広い場所に出た開放感からホッと一息つく。

「今日は本当にありがとうございました」
「おう。気を付けて帰れよ」
「あの、何かお礼がしたいのですが……」

 私の申し出に、坂田さんはあからさまに顔を顰めてみせる。

「なにそれ、一発やらしてとかでもあり?」
「ちょっと坂田さん本当に先生なんですか?」

 明らかな冗談とわかりつつも目を細めると、私の反応に坂田さんは焦ったように「冗談だよ? え、何それまじで冗談だから!」と声を大にした。我慢しきれずに笑うと坂田さんは安心したような顔をする。

「でも、本当になにかさせてください」
「名字さん、だっけ。下の名前は?」
「え、名前、です、けど」

 急な問いかけに意図がわからずしどろもどろになる私に、坂田さんは少し考えるような素振りをして続けた。

「担当教科は国語で、銀魂高校の卒業生」
「え、なんで……」

 まだ言ってもいない個人情報を知っていたことに驚く私の頭に、ぽん、と坂田さんの大きな手がのせられた。もしかしたら自分が思っている以上に私は酔っ払っていて、坂田さんに言ったということを私は忘れてしまったいるだけだろうか。それとも誰か共通の知り合いがいて……確かめたいことがいくつか浮かんで、それをどれから言葉にしようか悩んでいるうちに坂田さんが先に口を開いた。

「六月? だっけ。楽しみにしてるわ、名字センセ」

 その時の表情がどこか魅惑的だったからか。そう言って反対側のホームにきた電車に乗ってしまった坂田さんの後姿を、私はその場でしばらく立ちすくんだまま眺めていた。
 ただ、この日の出来事がまだ記憶に新しいうちに、教育実習の担当指導教諭としてまた顔合わせをすることになるとはこの時の私には想像もできなかった。

:)140511
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