メビウスの指輪・7 1






「待って!」

膝よりもやや高い草の中、蒼衣は目の前の姿を懸命に追っていた。
その男は蒼衣の声に応えなかった。緩やかな緑の勾配を着実に上り進んでいく。不自由な体をがむしゃらに動かしているのであろう。一足ごとに、曲がった背が左右に大きく揺れる。それはまるで、蒼衣が追いつくのを拒んでいるかのようだった。

草は葦に似ていて、ゴムのように柔らかい。侵入した蒼衣の足を傷つける事は無かったが、その弾力は蒼衣と蒼衣のスカートにじんわりとまとわりついてきた。
まるで水中を進んでいるような錯覚に陥る重量感。蒼衣はそれでも、その男、αを追いかけた。
「待って下さ…っ!」
見失わないようにという気持ちが先走って注意が二の次になっていた蒼衣は、不意に足首を何かに取られ、大きく体勢を崩して草の上へ倒れ込んだ。
蒼衣から逃げていた男は、その小さな悲鳴と倒れる音に初めて振り返った。蒼衣の転倒をその眼に映し、酷くうろたえている。このまま行くべきか、それとも戻るべきか。澱んだ瞳が困惑に満ちていた。
が。男はその躊躇を残したまま、不規則な足取りで蒼衣の元へと歩み寄った。
「け、け……怪我は、」
「平気です。…ごめんなさい」
「あ、よ、良かった、」
男はそう言うと、蒼衣の足元の葉を掻き分けて引きちぎった。
「こ、この種は、稀に葉同士がゆ、癒着して、輪が形成される。だ、だから前、前に踏みつけながら進まないと」
蒼衣は無言で手を差し出した。男から受け取ったそれは獲物を捕らえるための罠を想像させた。男には大丈夫と言った蒼衣だったが、その罠にかかった足首には、少しだけ違和感が生じていた。
蒼衣が葉を眺めている間、男は落ち着き無くきょろきょろと視線を漂わせた。暫くの間、そのまま沈黙が流れた。

「あの、」
不意に蒼衣が切り出した。草の上に座り込んだままだったが、居住まいを正して男の姿を仰ぎ見た。
「…約束してましたよね?」
「や、約束?」
「さっき、姿を見かけた時に思い出したんです」
そう言うと蒼衣は、男に微笑みかけながらその名を呼んだ。その言葉に、男の目が大きく見開かれた。
「お、お……覚えていらした」
「ええ。でも……その約束が何だったのかが、」
思い出せないんです。蒼衣は申し訳なく呟いた。
「とても大切な約束だったのに。大切だった事は覚えているのに、肝心な部分がどうしても」
男は黙って聞いていた。ひび割れて色の無い唇が小刻みに震えていた。
「私、その約束、ちゃんと守れましたか?」
男はゆっくりと首を左右に動かした。
「ち、違う。蒼衣様でなく、わ、私が果たさねば…果たさねばならないのです」
「……そうでしたか」
気付かぬ振りをしていたのは、約束を果たせぬ現状で顔を合わせたくなかったのだろう。そう解釈した蒼衣は無理に追いかけた事を後悔した。それをαに詫びた蒼衣だったが、その次の言葉が続けられないまま、術も無く目を伏せた。

「…た、体調は」
今度はαから切り出した。
「おかげ様で元気にやっています。どんなに感謝してもし足りないくらい」
蒼衣の言葉にαは頭を垂れ、何度も違うと首を振った。その様子に蒼衣は戸惑い、何度か男の名を呼んだ。
幾度目かの呼びかけの後。男の喉からはやっと一言、掠れた声が搾り出された。
「し、」
「え?」
「し…幸せ、ですか?」
「…ええ、とっても。」
蒼衣の返事に男の顔がぐしゃりと歪んだ。だが、項垂れ余所を向いた頭からはその表情は窺えなかった。男の口から何やら漏れるものが有ったが、それも蒼衣には意味を持った単語には聞こえなかった。
αはよろよろと蒼衣に背を向けた。ぶつぶつと何事かを呟いているα。その言葉と折れ曲がった背中に向かって、蒼衣はもう一度その名を呼んだ。その言葉にαはびくりと体を震わせ、首だけ蒼衣の方へ傾けた。
「戻、戻って下さい。は、早く」
「え?」
「こ、ココ様の元へ。」
曲がった背中ごしに一瞬だけ見えたαの眼は、縋り付くような鋭い光を帯びていた。蒼衣は反射的に頷いた。と同時に自分を呼ぶ声が聞こえ、蒼衣は辺りを見回した。微かだが、確かだ。ココが蒼衣を探している声が、風に乗っていくつも届く。
「ココさん」
いけない、戻らなきゃ。そう思って立ち上がろうとした蒼衣は、思い出したかのようにαの方へ向き直った。
そこには既にαの姿は無かった。少し先に、緑の中を進む揺れる白衣。呼び止めようと息を吸い込んだ蒼衣だったが、大声を出そうとしてその言葉を呑んだ。
きっと呼んでも振り返ってはくれない。蒼衣はそう思った。そして、小さく溜め息をついた。
(どんな約束だったか聞きそびれたわ)
それから男の態度と、何度も呟いていた言葉を思い返した蒼衣は、申し訳なさからもう一度溜め息が出た。
(私、どんな無理を言ったのかしら)
叶えて欲しいどころか、軽い気持ちで約束なんて言葉を出してしまったのかもしれない。私が何とはなしに話した夢物語に。
実直な方だった。だからこそ、今でも重荷になっている。そして大それた事を言い出した本人がそれを思い出せない。
今度、改めて会いに行こう。今度は、ちゃんとココさんにも断って。そして今度こそ。きちんと思い出して、謝るのだ。
蒼衣は一人頷くと、絶え間なく続く自分を呼ぶ声に向かって、大きく息を吸い込んだ。

「ココさん!こっちです!」

ココの声に、少しだけ安堵の色が混じった。
ココの耳と眼が、立ち上がって手を振る姿を瞬時に捉えたのだろう。そう思って蒼衣はもう一度誰もいない空間に向かって叫んだ。慌てないで、と。
それでもココはきっと全速力でやって来るだろう。その様子を想像して、不謹慎にも蒼衣は噴出してしまった。
そうかからず、ココの姿も見えるようになる。それまで、いや、この場所に辿り着くまで。
蒼衣はその先の景色に手を振り続けた。

腕が左右に揺れるたびに、自身の服も揺れる。それは、誰かの囁きほどの、小さな音だったが。
その衣擦れのリズムが、先ほどまで聞いていたものと似ている事。それに蒼衣は気が付かなかった。
蒼衣の眼にも見えるようになったココの姿に、心が埋められたから。





『赦してください、本当に、赦してください・・・』










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