雲路の果て



真っ白の、清潔感あふれる小部屋。

病院なのに消毒液の匂いすらしなくて、
それどころか少し甘い匂いすら感じるような。




白衣をまとった初老の女医は、
上品なフレームの老眼鏡越しにカルテと先ほどの診察結果を眺めてから、

柔らかい笑顔で言った。



「ご懐妊おめでとうございます。とても小さいけれど、これが赤ちゃんですよ。」



やっぱり、という気持ちと
まさかそんな、という気持ちが相まって
言葉に詰まる。

そんな様子を見て、女医はまた微笑みながら
細くて白い人差し指で、

エコー写真の小さな豆粒を指差した。




「…なんだか、よくわからないですね」


何か言わなければ。

そう思った末に口をついた言葉はなんとも幼稚なそれだった。



そこからは、我ながら情けないことに。
あんまり記憶がなくて、気がついたら自宅のソファの柔らかさに埋もれていた。



ぼんやりと、すっかり日が沈んだ頃に
ふと、財布の中に無造作に入れたエコー写真を取り出した。


暗くてよく見えない。
電気をつけよう。


そう思って顔を上げたと同時にフッと部屋に明るさが灯った。



電気をつけようと思ったら
動かずして電気がつく。

なんて、近未来的。



そんな訳ない。



反射的に、
写真をそっと後ろ手に隠して顔を上げると
途端に嗅ぎ慣れた煙草と香水の入り混じった匂い。



「よお、どうしたんだよ。電気もつけねえで。」


「別に。なんだかちょっと今日は疲れてただけよ。」


「ふうん。疲れてる、ね。」



含みのある言い方に、
少しだけ眉をひそめて佐川を見遣れば

彼は透子の表情から真意を探ろうとしてか、少々目を細めた。


「来るときは一言頂戴って言ったじゃない。」


いいながら、後ろ手のそれを
そっとジーンズのポケットへしまう。


「あいかわらず、かわいくねえな。せっかく忙しい合間を縫ってきたってのに。」



すっ、と透子の横をすり抜けながら
ジャケットを手渡し、慣れた動作でネクタイを緩める。

先ほどまで彼女が陣取っていた場所へ
どかり、と腰を下ろすと佐川が態とらしくため息を漏らした。



ジャケットをハンガーにかけ、
いつものグラスにいつもの酒を。

自分のグラスにも同じように注ごうとしたところで、
はた、と。手が止まる。


ポケットに入れた写真と、初老の女医が頭に浮かんだ。


けれども、傾けた酒瓶をさらに傾けて
トクトクと、軽快な音を立ててグラスに注がれた。



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