花菖蒲を添えて



いつもならば、
アラームのなる直前にふと目が覚めて

なったと同時にそれを切って、起き上がるのに。

今日はアラームよりもずいぶん早い時間に
自然と目が覚めた。


朝日を迎えるために、遮光カーテンを少しあけると
外はあいにくの雨模様。



ああ、こんな日だからか。


といっても、梅雨という季節。
最近は毎日、グズグズした天気が続いていたが今日は朝から雨が降っている。



雨の日は、何となく、それだけで気が重い。

折角、早起できたというのに
まったくもって、得な気がしなかった。


二度寝しようにも中途半端な時間だし、

濃い目の珈琲でも淹れて、せめて、
出社時間までの僅かな優雅なひと時を。


コーヒーメーカーをセットしてから
シャワーを浴びれば、ちょうどバスルームから出てくる頃には

部屋中が香ばしい香りで包まれていて、
少しだけ気持ちが豊かになった気がした。



出社時間まではまだだいぶ余裕があったから
スーツではなく、バスローブを羽織って、
大雑把に濡れた髪をタオルで拭っていたら、

なんとなく、玄関の扉の向こう側に

人の気配を感じた。



不思議と、嫌な感じはしなくて

むしろ、もしかして、なんて思って。



バスローブのままだけれど、
念のため、少し開きすぎた胸元を手繰り寄せてから


そっ、と扉を開けた。


細く開いた扉の隙間から外を見る。




…なんだ、誰もいない。




そのまま、扉を閉めようとしたら
ホラー映画のように、それを阻む手が、


ぬっ、と現れた。




まだ活動している人間もまばらな早朝の静かな時間。

幸か不幸か、鍵は開けたけれど、
チェーンはつけっぱなしだったので
扉は腕一本が入る隙間くらいしか開かない。

扉と壁を繋ぐチェーンの引かれ合う音が、
煩く感じた。



腕一本分の隙間から覗いたのは、

ドアを開ける前に想像していた人物だったので
まだ少し、ドキドキと動悸の煩い胸を撫でながら大きく息を吐いた。



「ごめんね、朝から驚かせちゃって。」



そう言って申し訳なさそうに眉尻を下げる秋山。

透子がチェーンを外している間に、もしかして、俺だって分かってた?と
少し嬉しそうな声色で言うから、

透子はドアを改めて開けてから
態とらしくため息と一緒に大きく肩をすくめて見せた。


「なんとなく、ね」





秋山を部屋に招き入れて、
再度、鍵とチェーンをかけると
淹れたばかりのコーヒーをまるで自分の家のようにソファでくつろぐ彼にも差し出した。


片手を上げてそれを受け取るとまず一度
その薫りを楽しむ。

満足げに頷いて、火傷をしないように
ゆっくりと一口飲んでから、秋山はまた頷いた。



「うん、美味いね。君と一緒に飲む、夜明けのコーヒーだからかな。」


「違うわ。いつもより良い豆なのよ。」



同じソファに少し間隔をあけて腰掛けた透子も
同じ様にしてコーヒーを味わった。

二人の好みはわりと似ていることに気づいたのは
知り合って間もない頃だったような気がする。


チラリと時計に目をやれば、
まだ余裕はある時間だけれど出社時間から逆算して、
分刻みでこれからの行動予定を頭の中で練る。


そんな透子の横顔を眺めながら
秋山は、しばらく静かにコーヒーを啜った。



雨音と、コーヒーの薫りに満たされた部屋で、
二人は特にひっつくわけでもなく。

でも、いつのまにか
ギリギリ触れているか触れていないか微妙な距離で
他愛もない話をぽつりぽつりと交わした。


その会話を区切って、透子が立ち上がろうとした時
不意に秋山がその腕を掴んだ。



「ねえ知ってる?今日、雨降ってる」


「ええ、知ってる。
だからこんなに早く目が覚めたんだもの」



そこは俺の気配を感じてとか言ってよ、と秋山が笑う。
透子はそれに対して笑顔で、そうね、と返す。



「雨の日はさ、ほら、電車が遅れたりするもんじゃない」


「だから今日は少し早く家を出なくちゃと思っていたところなの。」



腕を離して欲しくて、振り払うように力を込めてみたけれど意外と強い力でそれを制された。

困った笑顔を浮かべる透子を
困らせた当の本人の秋山が
なぜか自分も困ったような顔で透子を見つめ返す。



「こんな日はさ、もしかしたら頭痛がしたりとか
体調不調になったりするもんじゃないかな」


「心配してくれてありがとう。でも今日は早く目が覚めてしまったけれど割と調子が良いのよ。」



さあ、この後はどんな誘い文句が来るのかしらと
待ち構えていたところで、パッと腕を放された。

思わずバランスを崩しそうになったところを
秋山の掌が今度は透子のそれに重なって強く引いたものだから

ストン、と秋山の膝の間に落ち着いてしまった。



「わかった。回りくどい言い方はよそう。今日は仕事なんか休んで俺と一緒に過ごしてよ」



そのまま透子の肩に腕を回して
まだ少し湿った透子の前髪を掬いながら
つんと鼻先を合わせた。



「どうしたの、急に。」



べつに、と言葉を区切ってから秋山は
今度は自分と透子の額を合わせた。



「人肌恋しい時ってのは、誰でもある。
俺だって、そんな風に思う日があるんだ。」



連日の雨が、彼をそうさせたのだろうか。

そのまま言葉は途切れて、
沈黙が訪れた部屋の中を雨音が包んだ。

サラサラと降っていた雨は
いつのまにか雨足を強くしていた事に気付く。



「ここのところ、休みなく働いている体を癒してあげるから」



その台詞を言われる前に。

もしかしたら、彼を招き入れた時から決まっていたのかもしれない。


俯いたままの彼に、いつの間にか
絡め取られた指先へと、力を込めて応答する。



「…そうね、なんだか、確かにあなたの言う通り。少し体が火照ってきたみたい。熱でもあるのかも知れない。」



そう言って柔らかく微笑んだ透子にキスをして
秋山は満足そうに笑うと、耳元へ唇を寄せた。





【 花菖蒲を添えて 】


ゆるやかに、そっと解き放って








2016/06/16



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