※来神



走る、走る、走る。人影が見当たらない校舎内を、全力で駆け抜けた。滅多に上がらない息が切れる。俺は何故こんなに必死に走ってるんだ。冷静な自分が呟くが、そんなの、分からないに決まってるだろ。ぐちゃぐちゃになった脳内には、つい先程の光景が浮かんでは拒否するかのように消えていく。意味が分からない。俺はその光景を振り払うかのように、目の前の階段を一気に駆け上がった。





それは全くの偶然としか言い様のなかった。

俺は忘れ物をしたことを思い出し、靴箱から出しかけていた靴を元に戻した。既に日は傾きかけ、ほの暗い校舎の中教室へと向かう。放課後、俺は教師から呼び出しをくらい、永遠と続くかと思われるほど長い説教を終えたばかりだった。一緒に帰る奴は居ない。新羅はセルティに早く会いとかで帰っていった。門田は確か委員会で、その委員会が終わったのなら帰ってしまっているに違いない。あと一人は…そこまで考えて、眉根を寄せた。

(何であの野郎は怒られねぇんだ)

元は俺がこの世の中で一番嫌いな…いや、嫌いだけでは言い表せない程むかつく人物が悪いというのに。ちっ、と舌打ち少し歩くペースを早める。そう、むかつく奴だ。そいつの顔を思い出した瞬間、少し胸が暖かくなった気がして、いらいらが増す。俺は早く帰って寝てしまおうと考えながら教室の扉を開き。

「!?」

そこで、固まった。誰も居ないだろうと思った教室には、二人だけ居た。しかも、片方はよく見知った人物。

「折原君、ずっと好きでした…良かったら付き合ってください」

べたな告白な台詞。一番悪いタイミングで入ってしまったという考えより、告白された人物に俺の脳内は止まる。呼吸が、出来なかった。見開かれた彼女の目、その端正な顔にさす朱。何より振り返った男の、驚きを浮かべる紅い瞳に。男───臨也の口が息を吸い込む。何かを告げるために開かれた唇に、俺は背を向け走った。…俺は初めて臨也から逃げたのだ。そして冒頭に戻る。ぜぇぜぇと息が切れようが、ただ全力で走った。止まることは出来ない。立ち止まれば、そこで何かが崩れてしまいそうだった。
目的地などなかったが校内であるからには、いずれ行き止まりがある。駆け上がり辿り着いたそこは屋上だった。吹き抜ける凍える風に思わず手を擦る。傾きかけていた日は既に地平線へと沈もうとしていた。

(ッ…くそ)

弾む息を落ちつかせ、痛む胸を抑えるように鷲掴む。何もかもが痛かった。全力で走ったために悲鳴をあげる身体も、冷える空気を吸い込んだ肺も、煩いほど脈打つ心臓も、全部。はぁ、と一つ息がこぼれた。ずるずると壁を背にしゃがみ込む。
沈む夕陽が一際眩しく光ったかと思うと完全に姿を消したのを見届け、ゆっくりと目を閉じた。俺は何を勘違いしていたのだろう。ぬるま湯の様な幸せに浸っていて、忘れていたのか。あいつが…臨也がどんな奴であれ、人から好意を寄せられてることを知っていたと言うのに。表面上だけの歪んだ形だが、人当たりが良い臨也のことだ。俺という存在が居なければ、女性と付き合い周りにはもっと人が居ただろう。そこまで考え、ずきんと胸が痛んだ。

(何で…)

物理的な胸の痛みとは違う、その苦しさに蹲る。分からない振りをしていた感情が溢れる。耳を塞いで目を閉じても、溢れ出たものは戻らない。脳裏には告白される臨也と、俺なんかより綺麗で柔らかくて暖かそうな女性の姿ばかりが浮かび、苦しさが増した。臨也が居なかったら、俺はどうなるんだろう。きっと独りだ。独りになるという恐怖に身体が震える。家族と、新羅やセルティは傍に居てくれるけれど、愛を与えてくれるのは、臨也だけだった。いざや。反芻するように呟く。愛しさに涙が溢れた。臨也が与えてくれる愛は、溺れてしまいそうなぐらい心地よくて。でもそれは何とも危うい綱上の温もりだったことに気付いたんだ。気付いて、しまった。

臨也は、俺に愛を語ったその唇で、他の女性に愛を囁くのだろうか。俺の愛を受け取ったその耳に俺のものじゃない愛の言葉を聞くのだろうか。何も臨也がその女性と付き合うのは決まったわけではない。でも、いずれ、臨也は離れてしまう気がした。だって仕方ないだろ。愛する資格なんかない。俺は化け物、なんだから───



思考を断ち切るかのように鼓膜を叩く靴音。どうして場所が分かったのだろう。早まる鼓動に目を開く。澄んだ夜空が目を刺し痛かった。
この場所から逃げることなど出来ないのだから、何をしても意味はない。

「シズちゃん」

扉の開く音と聞き慣れた声に、俺は断罪を待つように再び目を閉じた。








夢の切れ端