最近緑川が元気なさそうにしていることが多い。普段は外にいることが多いのに、午後の燦々とした陽射しの眩しいいいお天気の空を尻目に室内で過ごす様子を見ると、どこか物憂げなのは明らかだ。
ヒロトは皿洗いを済ませてから、ぼんやりとテレビを見ながらクッションを抱える緑川の隣に腰をおろす。リビングからはとうに他に人はいなくなっていた。

「緑川、最近元気ないよね?」

「…う、そんなこと、ないよ」

ヒロトの問いに緑川は否定する。その顔は背けられたままだ。
しばしの沈黙な後、口を開いたのは緑川の方だった。

「たとえばさあ、ここで俺が元気を失うにふさわしい出来事を話したとして…ヒロトは、何をしてくれるの?」

緑川にしてはどこかトゲのある言い方だ。言ってから失言と気づいたのか、ちらりとヒロトの方を横目でうかがったが、ヒロトはきょとんとした顔をしただけだった。

「俺にできることなら、なんでもするけど」

「そうじゃなくて!落ち込んで何も言えない俺がいるとするでしょ?」

「うん」

「ヒロトは、俺に何をしてくれるの?具体的に!」

「緑川がして欲しいことをしてあげるよ」

「具体的に!」

ヒロトが言葉を返すたびに、緑川は声をだんだんと荒げていく。怒鳴っているわけではないが、ヒロトの声が落ち着いているだけにその雰囲気の苛立ちが目立つ。

「…別に、何かしてほしいわけじゃあないんだ。俺の問題だしね」

そう前置きしてから、緑川はふてくされたよえな顔のまま話始めた。


夜道を一人の新妻が歩いていた。電灯のない田舎道、若い女性が一人で歩くのは危険だが、会社に泊まり込む旦那の為に必要なものを持っていくためにはこの道を行くしかない。それに、幼い頃からこの近くに住んでいた彼女にとっては慣れたものだった。…その油断がよくなかったのか、大きな通りに出る少し手前で、彼女は暴漢に襲われた。事の終わったあと、消耗した彼女が願ったのは、「旦那には知られたくない」ということだった。しかし、彼女がとりあえず体裁を整えなくてはと一度家に帰ろうとした時、妻が遅いと心配になっり家まできた旦那と鉢合わせになった。事は全て露見した。しかし、彼女も旦那も全てを忘れることにした。三ヶ月後、彼女の妊娠が発覚したが、ふたりは自分達の子だと思い込むことにした。まさか、まさかどこの誰とも知らない××野郎の子であってはならない。…生まれた子は、O型だった。夫婦ともにB型なのだ、O型の子供が生まれるはずない。夫は妻にショックを与えることを避けるため、その事実を伝えなかった。妻は子供の誕生を喜び、子供を全力で愛した。しかし夫はけして子を愛すことは出来なかった。仕事を言い訳に触れること
すらほとんどなかった。そうしているうちに、妻が死んだ。純然たる事故死であったが、夫は息子のせいだと罵った。母を失った子は父を頼ろうとはしなかった。六歳になった当時、息子と父が会話を交わしたことは一度たりとなかったのだ。父と認識していたかどうかも怪しい。夫は、いや、もう夫ではなくなった彼は息子との二人暮らしを選んだ。祖父母に預けるという手もあったが、自分の咎を押し付けるわけにはいけないのだと考えたのだ。息子は小学校へ入り、夕御飯まで支度をしてもらえるサービスを頼んだ。さすがに二言三言会話を交わすようになったが、それは親子の会話のはかけ離れていた。成長するにつれ、息子は母に似るようになってきた。息子が十になったときからはサービスを止め、彼が食事を担当することになった。その調理場にたつ姿に、父は自然と妻の面影を重ねていた。…ここで父が息子を愛せるようになった、というのならある種の美談かもしれない。しかし、父はかつての悪夢を忘れてはいなかった。ある日、息子は父に筑前煮を作った。それは、妻の得意料理だった。それだけの理由で、父は息子を罵った。お前は××野郎の子なんだ、俺の子供じ
ゃない、お前も××なんだ、××××××で、××××な××××は××、××××××××××××××××××××××!持てる限りの言葉を尽くして、彼は息子に怒鳴り付けた。恐怖に震える息子に、彼は髪を伸ばすように命じた。彼の妻、そして息子の母は髪の綺麗な女性だった。数ヶ月して、息子の姿はますます母に似てきた。髪を伸ばしたせいもあるだろうか。そして、ある日、息子は鯖の煮付けを作った。彼女は鯖アレルギーだったので、彼女の食事レパートリーに鯖の煮付けはなかった。それだけの理由で、彼は息子を犯した。××野郎の子供なんだから××されて当然なんだ、そう言って彼は一週間毎日息子を犯し尽くし、それから捨てた。家を出されたわけではないが、それ以降親子は会話を交わすことも、息子が父の食事を作ることもなかった。それから間もなく、父は自殺した。遺書はない。


「…緑川、それって…」

「…どう思った?」

「分かんない…」

困惑するヒロトをよそに緑川は口調を強めていく。

「分かんないってなに?」

「だって、」

「かわいそうでしょ?ねえ、可哀想がってよ!」

「だって、嘘でしょ、それ」

今度は緑川が絶句する番だった。落ち着いた口調に対して、ヒロトの顔は未だ狼狽したままではあったが、それでも緑川の動揺の方が数段上だった。

「…そうだね、緑川は可哀想だよ」




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