俺は神など信じない。
もし本当はいるのだとしても、俺が神に救われた事など無いのだから、そんな物はいないのと同じだ。



そう、何時だって誰も俺を救ってくれはしなかった。
憐れみすら、かけて貰った記憶などない。
信じる事が出来るのは自分だけだった。
俺が生きる為には、自分の手を汚すしか無かった。


マークと出会って、少しだけ自分の世界が変わっても、神に願う事だけはしなかった。
願った所で、それが叶う筈など無いのだから。




だが、神よ。

もし、いるのならば。

こんな俺の願いでも、叶えてくれるというのならば。



叶えて欲しい、願いがある。










俺には大切な人が二人いる。



一人はマーク。


初めて出来た、自分以外にも信じる事が出来る相手だ。
マークには、返しきれない恩がある。
何時も思っているが、照れ臭くて、言えない言葉が沢山ある。
言葉では表す事など出来ない程、彼には感謝している。
独りだった俺に、初めて手を差し伸べてくれた………大切な人だ。



もう一人は、ヨーコ。


ほんの数日前に出会い、共に行動している相手だ。
ヨーコには、マークと違い、大切だと思い始めた確たる理由は無い。
出会ってからたった数日間しか、共に過ごしていないのだ。


初めて出会った時は、弱々しい女だと思った。
他人に流され易く…………良く言えば従順、悪く言えば自分の意志が無い………そんな女だと。
まだ二十歳かそこらの……若いが…化粧っ気の無い……女としての魅力には乏しい……そんな女だと、思った。


ヨーコを助けてやったのには、唯の気紛れ………その筈だった。


だが共に過ごしている内に、ヨーコがふとした拍子に見せる仕草が、何気無い気遣いからくる行動が、時には自分の身を呈してでも誰かを護ろうとする勇気が、あまり多くを語らない俺の言葉の一つ一つを真剣に聞いてくれる優しさが、……そして……何にも代えがたい…全てを優しく包み込む様な微笑みが、……ヨーコの全てが…堪らなく愛しくなっていた。








神よ。

もし、俺の願いを叶えてくれるなら。





大切な人に、してあげたい事が沢山ある。




マークから貰った沢山の物を、………それに見合う何かを、彼に返したい。


ヨーコには、もっと沢山してやりたい。
色々な場所に連れて行ってやりたい。
ヨーコが見た事が無い様な、美しい何かを沢山見せてやりたい。
幸せにしてあげたい。
もっと、笑顔にしてあげたい。

ずっとヨーコの傍にいて、有りとあらゆる災いから彼女を守りたい。
ずっと一緒に………二人で歳をとっていきたい。





神よ。

いるのならば、どうか叶えて欲しい。



大切な人に、言いたい言葉が沢山ある。
言えていない………、伝えなくてはならない事が、沢山ある。


ありがとう、も、愛している、とも、俺は何一つまだ伝えていない。











………………………。








…………もし、俺の願いを本当に叶えてくれるのなら、他の願いは叶わなくてもいい。


一度だけでいい。


たった一つだけでいい。





今、俺に寄り添ってくれている彼女を……。
ヨーコを、…………生かして欲しい。

この街からヨーコだけでもいいから、……逃がしてあげて欲しい。


その奇跡を起こせるというのならば、俺のこの身を差し出そう。


だから…………。









「ヨー……………コ…………」




思考が霞がかかった様に纏まらない。
発した言葉すら、…どう言えているのか分からない。

俺を苛んでいるのは、耐え難い飢餓感だった。

それは時間と共に増していき、今はそれを傍にいるヨーコに向けない様にする事で精一杯だ。

視界は白く霞み、傍にいるヨーコの顔すら判別が出来なくなっていた。



誰に言われずとも分かっている。



自分はもう、助からない。



きっと、今まで屠ってきたゾンビ達と同じモノへと成り果てる。


そうなった時に、俺は真っ先にヨーコを、誰よりも大切で守ってやりたかった存在を、その手にかけてしまうのだろう。



そうなる前に、俺を殺して欲しい。



だがそんな事を、心優しい彼女に頼む事は出来ない。




だから。




ヨーコには、ここから逃げて欲しい。



俺が俺でなくなる前に。




「ヨー…………コ……………おれ……は……い…………から……………………に…………げ…………」





夜が明ければ、この街は消え去る。
だからその前に何としてでも、ヨーコをこの街から逃がさなくてはならないのだ。

もう、夜明けまで時間が無い。



「デビット………!…そんな…っ!
あなたを置き去りにするなんて……!」


ヨーコは、嫌だと駄々をこねる子供の様に首を横に振る。

そんなヨーコがどうしようも無く愛しいが、彼女をここに残らせる訳にはいかない。



「ヨ……………コ…………はや………く……い……け……」



俺が再びヨーコの背を押すと、彼女は泣きじゃくりながらも頷いて立ち上がった。



繋いでいた指先が離れていく寂しさを押し殺して、俺は少しずつ遠ざかるヨーコの背を、霞む目で見詰めた。



そう…………。
これで、いいのだ。




後もう少しだった。

俺も、ヨーコも、……共に脱出出来るまで、後ほんの少しだったのだ。



だが、ゾンビ達の些細な攻撃からヨーコを庇った時に、俺の体は限界を迎えた。


こうなってしまっては、折角のワクチンも何の役にも立たない。
俺は手遅れ………だったのだ。




……………俺の事はもういい。
ヨーコだけでも、脱出させなくてはならなかった。






去り行くヨーコを見詰め、俺は苦しいながらも息を吐いた。



これで、いい。



これで、何も思い残すことは…………。








それなのに。



朦朧とした意識の中、俺が呟いたのは。







「 ……………コ……………そば…………いて…………」









決して大きな声では無かった。

囁きにも負ける程の……微かな…。



だが、遠ざかりつつあったヨーコは振り向いて駆け寄ってきた。





何をしている………!
………早く俺など放って、脱出しろ!



そう言った積もりだったデビットの口から出たのは、



「ひと…………しな……い…………で………くれ……………」



ヨーコに縋る言葉だった。




違うっ!
……俺は、……俺は何を言って……!






その時、俺の体はふわりと抱き締められた。




「………デビット……、私は………ここにいるわ。
あなたの、傍に。
だから、…………もう、泣かないで………。」



優しくそっと俺の頬を拭うヨーコの指は、濡れていた。




泣いている………?
俺が…?




「大丈夫よ、デビット。………私は、何処にも行かない。
ずっと、ここにいる……。
あなたを、独りになんて………させないわ……。」



すっ、と、ヨーコは微かに俺と額を合わせた。



「ほら。………私は、ここにいるのよ。」



合わせた額からヨーコの温もりが伝わる。



「ヨー……コ………………にげ…………」



ヨーコは静かに首を横に振った。



「いいえ。逃げないわ。
あなたを、置き去りになんて………出来ないもの。」



それにね、とヨーコは続ける。




「私が、あなたの傍にいたいの。」




その時、ヨーコはどんな顔をしていたのだろう。

俺は、どんな顔をしていたのだろう。





ヨーコは段々と白み始めた夜空を見上げた。


ヨーコも、この夜が明ける意味を知っている。
だがヨーコは澄みきった湖の水面の様に、穏やかに続けた。




「…もうじき……夜が明けるわ……。…。
……………でもね………とても不思議……。
なぜだか、とても嬉しいの。」



もう俺には見えないが、ヨーコが微笑んでいる様な気がした。



「私……いつかあなたと一緒に、星空を見たかった……。
……もう、叶っちゃったわ。」



ヨーコが俺を抱き締める力が、少しだけ強くなった。




「………私ね………あなたに、言いたい言葉があるの。
……今、言ってもいいかしら?」




「おれ…………も………つた………え……る…………こと……………あ……る……」



ヨーコはふふっと笑った。



「奇遇ね。
先に私から言ってもいいかしら?」



俺は、頷いた。

ありがとう、とヨーコは囁く。




「私は…………あなたの事を、愛しています。
だから。

ずっと、傍にいて下さい。」









息をする事さえ、一瞬忘れた。







それでも、何とか言葉を絞り出す。





「おれ…………も…………だ」










ポタッ。

温かな雫が俺の頬に伝い落ちてきた。





「ヨー………コ…………?」





微かに震える声で、ヨーコは答えた。




「…………ありがとう、デビット。
…………今まで生きてきた中で……………、一番嬉しいわ……。」



ヨーコの涙が、デビットの瞳を濡らした。





その瞬間、白く濁っていた視界が晴れ渡る。





「ヨー…………コ」




俺の声が微かに震えた。






ああ…………。
ヨーコの顔が、涙でその頬を濡らしながら微笑む顔が、はっきりと見える。




俺は堪らず、鉛の様に重たい腕を上げて、ヨーコを強く抱き締めた。





これは、奇跡、だ。
紛れもない………、奇跡……。



これが神が叶えてくれたものなのか、偶然の為した業なのかは分からない。
だが、俺は全てに感謝したい。




ヨーコに巡り合わせてくれた事。

最後に、こんな奇跡を起こしてくれた事。


その、全てに。



ありがとう、と伝えたい。





「ヨー…………コ……………きれ…………だ…………」





夜空は白み、星明かりはその光に消されていく。


それでも輝き続ける星達は、まるでヨーコの様だと思った。



「デビット……、………目が…………。
……………そうね………………とても………綺麗だわ……。」



ギュッとヨーコは俺の手を握ってきた。



俺はその手を握り返す。







「……………とても……幸せだわ。
………ねぇデビット……。……私、あなたに出会えて、本当に良かった。」




「お……れ…………も……………だ」














明るんだ空を切り裂いて、ミサイルが街を焼き尽くす。




最後の一瞬も、互いを抱き締め合っていたデビットの頬を濡らしていた涙は、何よりも温かなものだった。


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