私よりもボロボロになっている彼女の姿を見て、事態は最悪の方向に向かっているのだと改めて実感した。…いや、向かっているんじゃない。もう最悪な状況なんだ、今は。
魔物たちに囲まれているボロボロな彼女は息も絶え絶えに私を見上げていた。情けない姿でごめんなさい。そう申し訳なさそうに肩を落としながら。いつもの私なら、気を配る一言もちゃんと言えるはずなのに、あまりにも衝撃的すぎてそんな言葉も見つからなかった。ただ目を見開いて、頭の中でこの最悪な状況をどうするかを考えてしまう。
これだけ冷や汗が止まらないのはいつぶりだろう。眉間に皺を寄せ、苦渋に満ちているだろう私の顔を見て、彼女は更に申し訳なさげに視線を泳がせる。


「……精霊の力でもなんとかならない事態か」
「私もここまでとは想定外だわ…本当に情けなくてごめんなさい…」
「ううん。クロノスがいなかったらこの子たちも守れなかった。だから、ありがとう」


感謝しているのは本心だった。今、彼女が背に庇っていた魔物たちは、私の小屋にいた魔物たちだろう。彼女はその魔物たちをここまで避難させて、今まで守ってくれていたんだ。彼女がいなければ、魔物たちはもっと多くの仲間を失っていたことだろう。…けれど、それでも私は笑顔を作れずにいた。
――何故、クロノスがここまで傷ついているのか。相手は魔導器(ブラスティア)も持たない人間たちだったはずだ。精霊である彼女にとっては取るに足らない相手のはず。精霊でも特別である彼女なら尚更。それなのになぜ、ここまで傷つけられているのか。
想定外の事態。彼女がそう言っているように、世界の人々が私を認識し始めていることにも直結しているのだろう。ただでさえ色々あったあとのなのに、冷や汗が止まらない。


「見た目ほど酷いものじゃないから、傷はすぐに癒えるわ。…けれど問題はそこじゃないの。なんだか、とても…今の私は不安定で…」
「不安定って…」
「ええ…あなたも気付いているんでしょう? あの災厄…星喰みほどではないにしろ、"歪み"が大きくなっているみたい」


『時』と言う強大な能力を持つ精霊が、ここまで傷つけられるなんて。
精霊がそこまで万能であるわけじゃないのは分かっている。精霊だって怪我はするし、人間よりも数倍知能があっても感情があるし、失敗だってする。それはここ数年、精霊たちとだけは交流を続けてきたからわかっているつもりだ。
でも、それにしたってクロノスのこと弱り方は異常だ。もしかして、今の彼女は始祖の隷長(エンテレケイア)の頃よりも能力が劣っているのではないだろうか。


「とにかく、無事で良かった。…他の精霊たちは?」
「確証を得るために動いてもらってるの」
「"確証"?」
「ええ。もう少しすれば帰ってくるはずよ。…他の精霊たちは私のようになっていないから心配しないで」
「う、うん…」


クロノスは傷を癒しながら私を安心させようと微笑んでくれたが、私は嫌な考えが頭から離れないままだった。
いつも彼女の側にいるウンディーネの姿がない。始祖の隷長だった時に彼女を慕っていたと言って傍について回っていた精霊たちもここにはいなかった。
他の精霊たちには影響がないのに、クロノスにだけ影響があるという"歪み"。つまりそれは、やっぱり私にも深く関わってということになる。…というか、その逆かもしれない。私に異変があったから、繋がりのあるクロノスにもその異変が及んでいるのかも。


「騎士たちが私のことを認識し始めてた。今回、人間たちが襲ってきたのもそのせい。…そりゃ魔物と一緒にいたら怖いに決まってるよね」
「リク…」
「…ユーリも私の事、思い出し始めてた」
「!!」


世界の異変。それを感じ取っていたからこそ、クロノスは私からユーリの話を聞くなり視線を地面にへと下げていた。
…世界を成り立たせている精霊とは思えない姿だ。私は思わず苦笑いを零してしまう。


「早くしないと、みんなが私の事思い出しちゃう」
「…リク、あなたは…思い出してほしいとは思わないの?」
「………その話は二年前に終わらせたはずでしょ。今更穿り返さないで」
「でも、このままであれば世界はあなたのことを思い出すでしょう。すでに思い出している人間もいるはずです。あなたを放っておくはずはないわ」
「歪みをこのままにしておくっていうの? "アウラさん"の台詞とは思えないね」
「そういうことじゃないわ。…でも、この歪みに大きく影響を受けているのは私だけ。エアルも乱れているけれど…精霊たちの働きでどうにかなる程度だわ。世界に大きな影響は…」
「みんなが私を思い出す。…それこそが星喰みに値する世界の危機だよ」


今の私の顔は、自分でも信じられないくらい無に等しいだろう。
私の顔を見たクロノスが、痛々しげに眉間に皺を寄せている。…二年前から、私はクロノスのこんな表情しか見ていない。けれど私はそれに気づかないフリをした。
――本当は思い出して欲しいくせに。私の中の真っ黒な欲望がそう囁く。
ユーリにまた会えて、嬉しかった。ユーリにまた触れられて、本当に幸せだった。我慢していたはずのものが馬鹿みたいに溢れ出て、彼が完全に思い出せなくても…このまま傍にいたいって思ってしまった。


「この世界の歪みは…私」


だからこそ、その歪みを正さなくちゃいけないんだ。――今度こそ。
目を見開いたクロノスの瞳が、まっすぐ私を見上げる。彼女は私に何かを言おうと咄嗟に口を開いていたが、言葉を発することなく視線はまた地面へと戻る。


「精霊たちが戻ってきたら、さっそく対処しなくちゃ。…異変がこれ以上広がる前に」
「ええ…そうね…」


何か言いたげなクロノスに私はまた気付かないフリをする。
彼女の言いたい事は分かっているし、それを聞いてしまったら…また"余計なこと"を考えてしまうだろうから。



***



「ユーリ〜〜〜〜!!」
「ユーリ!! レイヴンとエステルも!」
「お、なんだパティ。それにカロルも。お前らも城に来てたのか」
「来てたのかじゃないよ〜! 連絡取れなくなってから心配してたんだからね!」


悪かったよ。城の広い廊下での再会に、ユーリは素直に謝った。
ユーリが一人旅に出ている間、ギルドの仲間であるカロルたちには連絡をとっていなかったため、こうして顔を合わせるのは本当に久しぶりのことだった。
どうやらカロルはパティの依頼で城まで一緒に来ているらしい。本来ならば子供が普通に入れる場所ではないが、彼らは凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)。世界を救ったギルドだ。その名前は世界に公にされたわけではないが、ヨーデルやフレンを始めとした帝国を治めている人間がそれを知っているため、彼らは特別待遇ということで城への出入りを許されているのだ。もちろん、許可は必要だが。


「ユーリがいなくて残念だったのじゃ〜」
「…悪かったね、ボクだけで」
「パティちゃんは城に何の用があったの?」
「実は、これのことなのじゃ」


そういってパティが取り出したのは、二年前まで彼女が必死に探し続けてきた麗しの星(マリス・ステラ)と馨しの珊瑚(マリス・ゲンマ)だった。アイフリードが長年追い求めた宝として今まで彼女が所持していたが、その使い方を学びに来たらしい。
海精の牙(セイレーンのキバ)の前身である海賊ギルド、海竜の夢(サーペントのユメ)を作ったとされるグランカレイが楽園だと呼ばれている『十六夜の庭』を見つけたという伝説は有名な話だったが、そこへ至る鍵とされている麗しの星と馨しの珊瑚が揃っているというのに、その使い方がどうしても分からなかったため、帝国の資料にも足を伸ばしてみたという。カロルはその付き添いのようだ。
海賊ギルドとして活動を再開したパティにとって、憧れの海賊であるグランカレイが見つけたその楽園に辿り着く事が次の目標なのだろう。自慢げに話すパティの様子を見て、ユーリたちは顔を緩めた。


「ユーリたちはどうしたのじゃ? エステルが帰ってくるのは聞いておったが…」
「色々あってな。皇帝陛下とお話ししなきゃいけないってわけさ」
「ええっ、ユーリが皇帝陛下と? 何事?」
「まあ、少年少女にも関係があるっちゃあるかもな」
「え? そうなの?」
「――エステリーゼ様っ!」


パティたちと話し込んでいると広い廊下の奥から、こちらへ駆けてくる音がした。
振り返らずとも分かる。ユーリたちはそちらへ視線を向けるなり、肩の力を抜いて彼を迎え入れた。


「フレン! ……と…」
「ヨーデルっ!? アレクセイ!?」


廊下の奥から歩いてきたのはエステルを呼んだフレンだけではなく、普段ならこんな場所を通らないはずの皇帝ヨーデルと、未だに投獄状態であるはずのアレクセイだった。
思わぬ人物の登場にユーリたちは全員、目を丸くして驚く。百歩譲ってヨーデルがここにいるのはおかしくないとしても、アレクセイが拘束もされずに…しかもヨーデルの一歩後ろ歩いているというのは異常事態だ。


「気でも狂ったのかよ皇帝陛下」
「ユーリ! 口を慎め!!」
「いいんですよ、フレン。事情をお話していないのですから、そう思うのは当然のことです」
「事情? ヨーデル、一体何があったんです?」
「すみませんエステリーゼ、あなたには話よりも先にこちらを」


ユーリやカロルたちに睨まれながらも、ヨーデルの後ろに控えていたアレクセイは黙ってエステルへと歩み寄る。割って入ろうとするユーリをフレンが止めていた。エステルの側にいたレイヴンも、何かを察してアレクセイの様子を見守る。
アレクセイが差し出したのは、城で保管されているはずの皇帝家の秘宝…宙の戒典(デインノモス)だった。エステルはただ目を丸くして差し出してきたアレクセイを見上げる。


「わたしに?」
「…おそらく、触れていただければすべて分かります」
「触るだけでいいんですよ、エステリーゼ」


ヨーデルに催促されたこともあり、エステルは緊張した面持ちで宙の戒典に触れた。
その瞬間、まるで鈍器で頭を殴られたかのような強い衝撃がエステルを襲う。冷や汗が一斉に溢れ出て、視界もチカチカと発光し始めてしまった。


「エステル!?」


異変に気付いたカロルがそう呼ぶが、エステルに彼の声は届いていなかった。
頭に流れ込んできた記憶。感覚。想い。その情報量が多すぎて、エステルは耐えきれずに下唇を噛みしめた。しかし激痛が襲いかかっているというのに、その原因である宙の戒典からは手を離さないまま。
――エステルがこの激痛に耐えている理由は、ただ一つ。

「だから旅を続けたいの! なるべく長く世界を見てみたいし、ユーリたちといるのが楽しいから一緒にいたいんだよ!」

「その通りだよエステル。…私たち、なりたくてなったわけじゃない」

「でもやっぱり無理だね。私、エステルの傍にいたい。私は始祖の隷長である前に…エステルの友達だから!」

「お、落ち着いてエステル。ゆっくりでいいよ。…私はもういなくならないから」

「――たとえみんなに恨まれようと、私は何度だってこの選択をする!」


「……っもう、いなくならないって…言ったのに…!」


青空のような大きな瞳から大量に流れてきたのは、彼女の涙だった。
視界が潤んでおく見えない。けれど驚くほど頭は冴えており、今の自分たちの状況を飲み込むことができた。
自分が今まで何を忘れてしまっていたのか。何故忘れてしまったのか。今の世界の異変や『魔女』のこと。そしてここまで来る中、レイヴンとユーリが交わしていた理解できなかった会話の内容も。全てを理解したのだ。


「…やはり、宙の戒典の効果は満月の子の血が流れる皇族だけのようです」
「ええ…そうみたいですね。エステリーゼ、大丈夫ですか?」


全てを思い出したあと、エステルの手はするりと宙の戒典から離れた。
顔を両手で覆い、力なく膝を折って蹲った彼女にヨーデルは慰めるように肩に触れる。事情を知らないパティとカロル以外の全員はそんな二人の様子を見て察したようだ。


「…陛下たちはもう全員思い出してるってわけかよ」
「全員ではないよ、ユーリ。僕はまだ彼女のことを思い出せていないから。最初に彼女を思い出されたのはヨーデル陛下だ。今のエステリーゼ様と同じように宙の戒典に触れて思い出されたらしい。…ユーリはまだ、思い出せてないんだね」
「ああ。思い出してるのはおっさんぐらいだな」


ヨーデルとエステルの様子を見守りながら、ユーリは不機嫌と言わんばかりに眉間に皺を寄せていた。
こんなに簡単に思い出せるというのなら、何故自分はここまで追いかけ続けているのに思い出せないのか。…自分は、本人にも会えているというのに。
そんな様子に気が付いているのか、レイヴンとフレンは顔を見合わせて苦笑いを零した。フレンも思い出せていないが、彼女をずっと探し回っていたユーリとは立場が違う。そういった点では、ヨーデルよりも早く思い出していたと言ってもいい。


「…ってことは、大将も思い出してる感じかい、フレン君」
「え? …はい。元々明星弐号に暗号のようなものを残していたみたいで…」
「ふーん。…じゃあ、あいつと共犯してたってのも本当ってわけか」


急に鋭くなったレイヴンの視線が、ヨーデルたちを見ていたアレクセイにへと向かう。
そんな彼の発言が耳に入ったのか、アレクセイもレイヴンを見つめ返していた。ただその視線は睨み返すようなものではなく、ただそれを受け入れているような目だった。何も思い出せていないフレンやユーリにはその"共犯"の意味が分からない。
ヨーデルやエステルの前ということもありこの場で詰め寄るようなことはしなかったが、レイヴンは今すぐにでもアレクセイに問いかけたくて仕方なかった。
――何故、彼女を見殺しにしたのか。


「ユーリたちさっきからなんの話してるの? エステルは大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。…まぁ、ただの昔話ってやつだ」
「皇帝と騎士団長…そんでもってエステルまでに共通する昔話…なんだか壮大そうなのじゃ」
「思い出してみたら、案外そうでもないかもしれないぜ」
「思い、出す?」


カロルやパティが目を白黒させているのと、レイヴンが耐えきれなくなってアレクセイに問い掛けようとしたのは同時のことであり、――騎士の一人が駆け寄ってきたのも同時の事だった。
慌ただしく走り寄ってきたその騎士に、フレンは顔色を変える。


「フレン団長! 大変です!」
「慎め、陛下の御前だぞ!」
「はっ…これはヨーデル皇帝陛下…! 大変失礼いたしました!! しかし陛下にもお耳に入れていた事態が…!」
「何があったのです?」
「今、帝都に……うわっ!?」
「なんだっ!?」


急に騎士が顔を青くして走ってきたと思えば、大きな地鳴りとともに何かが爆発したような音が轟き、ユーリたちは咄嗟に身構えた。
何者からかの襲撃だろうか。だとしても、この城を直接狙ってくるとはよほど命知らずと見える。フレンはすぐにヨーデルとエステルの安否を確認し、騎士に報告を命じた。
しかし、彼が口を開くよりも先に何かに気が付いたアレクセイが、ちょうど近くにあった中庭に向かって走り出す。ユーリたちは顔を見合わせながらも、それを追いかける。
――そして中庭に出た瞬間、今日は雨でもないというのに辺りが急に暗くなったのだ。


「待つのじゃ! アレクセイ!!」
「アレクセイ! あんた何…を…」


一足先に中庭に辿り着いたアレクセイの視線の先を追って、ユーリたちは言葉を失った。
ザーフィアス城の上空。この中庭のすぐ上でこちらを見下ろしている巨大な魔物。巨大獣(ギガント)と呼ばれる人前には滅多に姿を見せない魔物がそこにいたのだ。
結界がなくなったとはいえ、騎士団やギルドの守りで未だに魔物の侵入を許していなかった帝都だったが、巨大獣が相手となるとそう簡単にいくわけもない。フレンもユーリも剣を抜いたが正直魔導器(ブラスティア)無しでこの魔物に勝てる気はしなかった。けれどここにはエステルも、ヨーデルもいる。勝てなくても、彼らを逃げる時間ぐらいは稼げるだろうか。ユーリとフレンはそうアイコンタクトを取ると、一番先頭にいるアレクセイに並ぶように一歩踏み出した。


「――アウラ!!」
「え?」


アレクセイがその名前を叫んだその瞬間、巨大獣の背からこちらへ飛び降りてくる人影が見えた。その人影は、そのままユーリたちの前に着地する。見覚えのある人影だった。全身をマントのようなもので包んでいるその人影は、ユーリたちの前でそれを頭から引きはがす。露わになったその顔は、覚えのある過ぎる少女のものだった。


「リク…!!」


ユーリたちよりも後ろその様子を見守っていたレイヴンが驚愕に目を見開く。会いたくて会いたくて仕方なかった少女が、目の前に突然現れたからだ。
巨大獣の背から姿を現した少女…『魔女』として世間を騒がしているリクはそんな彼らの反応を見て、微笑みを浮かべた。
- ナノ -