「ごめんなさい。…でも、私を見つけてくれてありがとう」


そんなに泣きそうな顔をしているくせに、どうしてそこまでして彼女は言いたがらないのだろう。
自分の手から離れていった正体不明の少女は、そのままユーリの前から走り去ってしまった。自分の視界から消えていく少女の後ろ姿を見て、ユーリは胸の奥からこみ上げる何かを感じる。
――嫌だ。行かないでくれ。やっと、やっと会えたのに。


「おい待て…待ってくれ! ―――リクっ!!!」


思わず叫んだ自分の声に、ユーリ自身が驚いた。
知らないはずの少女の名前。けれど聞き覚えのある少女の名前。


「(…っくそ! やっぱりそうなんじゃねぇか!!)」


知っている。自分は、あの少女の事を確かに知っていたんだ。
この半年間。ユーリはリクという名前だけを頼りにあの少女を探し続けていた。本当に存在するかも分からない、自分たちの仲間であったという少女を。
そしてここへ来てやっと、やっと見つけたんだ。彼女が自ら名乗ったわけじゃない。けれどあの反応を見れば分かる。――オレ自身の感覚が覚えてる。
ユーリはそのまま走り出した。少女の姿はもう見えない。けれど彼女が消えた方向へがむしゃらに走った。このまま見失って終わりたくはない。数年ぶりの高揚感がユーリの全身を突き動かしている。
ただ一言。ただ一言彼女が自分の名前を名乗ってくれれば、全てに決着がつく。ユーリはそう確信していた。ここ数年、自分の中で燻り続けていた虚無感も、彼女を探すと決めたその日からなくなった。何かが足りないと理性を壊す激情もさっぱりなくなった。


「どこいった…!?」


ただ方向だけを気にして走っていくと、ついにタルカロンの周辺を離れ、東の街道に出てしまったらしい。このままいけば、未だに人影が少ないシャイコス遺跡に辿り着くだろう。
彼女の様子は可笑しかった。確かにユーリを見て嬉しそうに、懐かしそうに顔を綻ばせていたというのに突然、何かに気が付いて彼から離れて行ってしまった。一体何があったのだろう。
ユーリは険しい顔のまま、辺りを見回す。まだ遠くへは行っていないはずだ。馬車のような移動手段があれば話は別だが…。
しばらくどこに行くか迷っていると、ここからもっと東の方向に黒い煙が立ち上がっているのを見つけた。あの方向には行ったことがない。確か何もない森の中心だったはずだ。…ユーリは妙な胸騒ぎを感じて、その方向へと再び走り出した。
高く上がっている黒い煙だけを頼りにユーリはひたすら足を進める。気が付けば来たこともないような森の奥へと入り込んでいた。次第に煙は近づいていき、やがてその正体まで辿り着く。
――そして、そこで見えたものに、ユーリは身体を固まらせた。


「あなたたちさえ何もしなければ、私が動くことはありません。…二度と、私たちには関わるなとあなたたちの上司に伝えなさい」


燃えているのは、小さな小屋のようだった。炎が全てを包み込んでいる為、正確な大きさまでは分からない。しかし木造であることは確かなようだ。木が燃える独特の音がする。
しかしユーリが見て驚いたのは、そんなことではない。ユーリが探していたあの少女が、小屋の前に立ち、何故かそこにいる騎士やギルドの男たちを追い詰めているという光景に驚いていた。それに加えて、彼女は炎を操っているようにも見えた。ユーリはその光景に見覚えがある。二年前、まだ魔術が使用できた時代に、仲間であるリタが同じように炎を操っていた。そう、まだ魔導器(ブラスティア)があった時の話だ。
二年前、星喰みを倒す為に全ての魔導器の魔核(コア)を精霊化したため、現在魔術を使用できるのは満月の子であるエステルくらいのはず。なのに何故…。
彼女の魔術で怪我を負った男たちが、彼女のひと睨みで早々に退却を始める。あの少女は一体何者なのだろう。ユーリは空になっていた頭をなんとか動かし、逃げている騎士の一人に声をかける。


「おい、何があった?」
「『魔女』だよ! 団長直々のご命令でここまで調査に来たが…まさか魔術まで使ってくるなんて! 作戦の練り直しだ!」
「魔女…あいつが…?」


騎士の言う魔女の噂は、世界中を旅しているユーリの耳にも届いていた。
少し前から世間を騒がせている魔女。存在が確認されたのは半年ほど前。ちょうどユーリが『リク』を探す旅に出た直後のことだった。噂は聞けど、一般人よりも魔物と戦っているユーリがその魔女とやらに出会うことはなかったが、話だけはやけに耳に入った。そしてその魔女が、最近は人を襲うようになったという事も。
ユーリは瞳を鋭く細める。話を聞くと、この騎士たちはその魔女のことで探索に来たが返り討ちにされてしまったらしい。それはユーリも自分の目でしっかりと見ていた。
――有り得ないはずの魔術を使い、彼女が騎士たちを攻撃していたところを。


「(あいつが魔女…? 噂は本当だったのか…?)」


騎士とギルドで合同に結成されている捜索隊。騎士の方は彼女の炎を見るなりそうそうに立ち去るが、ギルドの男たちはそうもいかなかった。
育ちの違いか、やり方の違いか。ギルドの男たちは引き下がる事を知らない。しかし、残った数人も『魔女』の魔術であっさりと引き上げていった。それもそうだ。彼女の魔術に対抗する方法を彼らは知らない。この二年で、魔導器に代わる有効な戦術もまだ見つかっていないのだから。
怪我人をなんとかして運んでいる騎士や、未だに魔女へ向かっていこうとするギルドの男。捜索隊はめちゃくちゃになっていた。そんな様子を、『魔女』はまるで他人事のように険しい表情で眺めている。
さすがのユーリも黙って見ているわけにはいかなくなった。


「…っ馬鹿! お前らさっさと退け!!」
「あ、あんたは確か、凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)の…!」
「ここはオレが時間を稼いでやる! 引き際を見誤んなよ!」


状況は未だによく読み込めない。しかし目の前で人が傷ついているのを見逃すほど、ユーリは非情な人間ではなかった。
未だに炎の前に立っている魔女に歩み寄る。彼女はまだユーリに気付いてはいない。しかしこのままで、ギルドの男たちは魔術の餌食になってしまうだろう。剣に手をかけたところで、ユーリは手を止めた。
この剣を、彼女に向けるのか。その戸惑いがあった。しかし今は手段を選んでいられない。彼女が捜索隊の連中を後ろから襲わないという確証もない。
ユーリは震えた手でやっと、その剣を握った。どうすればいいのか、頭の整理ができないまま炎を眺める彼女の前へと歩み寄る。


「――ユーリ」


目が合った瞬間、彼女はユーリの名前を懐かしげに呼んだ。
…ただ呼ばれただけだというのに、ユーリは胸が締め付けられるような奇妙な感覚がした。しかしこの状況で、彼女にどんな言葉が届くのか。
ユーリは険しい表情のまま、鞘から抜いた剣を『魔女』へと向ける。
ただの噂であってほしい。彼女が魔物に人を襲わせていたなんて、嘘だ。


「"あんた"、一体何者だ?」


様々な思いをこめて、ユーリはその質問を投げかけた。
間違いなく、彼女はユーリが探していたその人だ。今、ユーリの名前を呼んだのがなによりの証拠。しかしその反面、魔女と呼ばれ魔術をギルドの男たち放っていた。どう考えても只事じゃない。…彼女の正体は一体なんなのか。今のユーリから零れたのはそんな言葉だけだった。
しかし彼女は、そんなユーリを見て懐かしげに瞳を細めたと思うと彼から視線を外して燃え盛る小屋に視線を向けた。


「…さあ…今の私は一体、何者なんだろうね」


小さな声だった。今まで、騎士やギルドの男たちに襲い掛かっていたとは思えないほどか細い声。しかしその声は、彼女自身の魔術によって掻き消えてしまった。
今度は水の魔術はユーリは改めてその光景に目を丸くする。あれだけ激しく燃えていた小屋が、彼女の魔術によってあっという間に消しとめられる。本当に魔術を操っているようだ。見たところ、魔導器らしきものは身に付けていない。
だとすれば、あの魔術はどんな方法で可能になっている?


「…魔女ってのは本当にあんたのことか?」
「違うって言ったら信じてくれる?」
「少なくともオレは、あんたが魔女だとは思いたくない」


はっきりと信じるとは言えなかった。
しかしこれは、ユーリの本心だった。彼女を魔女だとは思いたくない。自分がここまで探し続けた人が、かつて仲間だったという少女が、魔女と名前を変えて人々を襲っているだなんて、それこそ信じたくはない。
彼女の背中に剣を向けたまま、ユーリは言葉を探した。こうして剣を向けているだけでも吐き気がする。彼女を敵対することを、ユーリの全身が拒否しているような気がした。


「……そっか。だからユーリも私の事、覚えてたんだね」


タルカロンで出会ったときのように震えた声はもう聞こえない。
ただ、穏やかな声でそう呟いた彼女の表情を、ユーリはしっかりと見ることができなかった。何かを察したかのように、目の前の魔女は剣を向けるユーリに何もせず、ただ苦笑いを零す。
何故だかそれが無性に痛々しく見えて、ユーリは眉間に皺を寄せながらもゆっくりと剣を降ろした。


「…なあ、ちゃんと教えてくれよ。お前なんだろ…オレに欠けてるものって」
「………」
「大事なことなんだろ…大切なことなんだろ…? そうじゃなきゃ、お前を見てこんなに泣きたくはならない。……お前だって、そんな傷ついた顔をしないはずだ」


喉から搾り出すような声で、ユーリは彼女に問いかけた。
ユーリは確信している。彼女こそが、二年前に世界から忘れ去れた自分の仲間だったのだと。けれどそれならば何故、彼女は素直に話そうとしないのか。
反応を示さず、ただ黒焦げの残骸になってしまった小屋を見つめたままの彼女にただただ歯痒くなる。しかしユーリはそのまま待った。彼女がちゃんと反応を示すその時まで。タルカロンで見た彼女の反応を見れば、誰にだって分かるはずだ。…彼女の方だって、本当は伝えたいと思っていることに。――そしてその時は、案外早くに訪れる。


「中途半端に、思い出しちゃったんだね」


しかし彼女の返答は、ユーリが望んでいたものではなかった。


「…ユーリだけじゃない。噂が立つってことは世界が私を認識し始めてるってこと…でもそれは世界にとって良い状況じゃない…原因を探ってなんとかしないと…」


まるで何かに憑りつかれたでもしたように、魔女と呼ばれた少女は背後にいるユーリも気にせずブツブツと呟き始める。
ユーリはその異様な雰囲気に息を飲むと同時に、自分の声が届いていない事に苛立ちを覚えた。こんなに近くにいるというのに、まるで彼女とは別世界に立たされているような気分だ。彼女はユーリの存在を視界にいれたくないのか、あえて無視しているのかは分からないが、ここにいるユーリをいないものとして話を進めているのは変わらない。
何故だ。怒りの次にユーリに浮かんできたのは疑問だけだった。何故そこまでして正体を明かさないのか分からない。仮に彼女が本当に『魔女』であったとしても、話が通じないわけじゃない。それはタルカロンでの会話で分かっている。たった一言。たった一言だけ…自分の名前を名乗ってくれれば、それで全てが解決するはずなのに。
まだ何かを考え込んでいる彼女の後ろ姿を見て、ユーリは改めて決意した。降ろしたままの剣を握りしめ、構える。


「どうしても答えねぇってんなら、無理矢理にでも答えてもらうぜ」
「……本当に大切なものかも分からないのに?」
「分かるさ。…言っただろ。お前を見てると、情けないことに泣きたくなるんだって」


どうしても知りたいんだ。この痛みの理由を。
剣を抜いてそのまま向かってきたユーリに、『魔女』はやっと表情を変えた。まさか本当に向かってくるとは思ってもいなかったらしい。
目を見開いたままユーリの一撃を退け、慌てて距離をとる。しかしそれをユーリは許さなかった。彼女がいくら距離を取ろうと、簡単にその距離を詰めてくる。魔導器がなく、身体能力の補助がないというのに、なんて素早い動きだろう。そこで初めて、彼女の表情は焦りと恐怖に色づいた。
そんな彼女の様子に剣を振るうユーリは瞳を細める。勿論、彼女を殺すつもりは毛頭ない。しかし、原因が分からずとも魔術を使う相手なのだから、隙を与えて反撃されでもしたらさすがのユーリでも太刀打ちはできなくなってしまう。それだけは避けたかった。――ここで彼女を逃がすわけにはいかないのだから。


「どうした、魔女さんよ。さっきみたいに魔術で反撃しないのか?」
「…っ反撃してほしいの?」
「そうじゃなきゃフェアじゃねぇだろ。魔術を使ってもらえなきゃ、ただオレが女をいたぶってるだけみたいじゃねぇか」
「…私は、あなたと戦う気なんて…」
「オレだってないさ。…だから早く話してくれると助かる」
「……っ私は、」


燃える小屋を見ていたせいか彼女の頬は軽く焼け、煤だらけになっていた。ユーリと出会った時よりも明らかに多くなっていた涙の痕も乾ききっている。…ひどい顔だった。痛々しいのは勿論の事、彼女の瞳は先ほどよりも光を失っているようにも見える。
しかしそんな瞳も、ユーリが彼女との距離をしつこく詰めていくうちにぐらぐらと揺れていく。言い返す言葉を探しているのだろう。この状況をどう乗り越えるのかも必死に考えているに違いない。ここまでしても、彼女は反撃してくる様子はなかった。――もうひと押し。ユーリは距離を縮め続ける。どんなに言葉を投げかけても引き下がらないユーリに、青白かった『魔女』の顔色がとうとう変わった。


「……待って!!」
「!?」


彼女の見開かれた瞳を目の前で見つめた直後、ユーリの視界はブレた。
脇腹に鋭い痛みと、強烈な熱。ユーリの身体はされるがままに傾く。一瞬のうちに何が起こったのかをを理解した彼は、すぐにこの状況をなんとかしようと剣を振るった。
ユーリの脇腹に鋭い牙を建てていた魔物が、か細い声を上げて地面に倒れる。それを眺めながら、ユーリはゆっくりと身体を起した。…目の前の彼女に夢中で、近づいてくる魔物に気配に気づけなかったとは情けない。自分で自分を笑いながら、血が溢れて止まらない傷口を抑える。直撃を受けてしまったためか、傷は深いようだ。
生憎今はアップルグミしか持ち合わせがないが、それでこの傷の痛みが完全になくなると言ったらそうでもないだろう。しかし何もしないよりはマシだ。そうユーリは荒くなってきた呼吸をそのままに、手持ちにグミを口に流し込む。
――魔物は、彼女を助けに来たのだろうか。霞み始めた視界に顔を青くした『魔女』を映しながら、ユーリは再び剣を握りしめる。気が付けば、この場には彼女とユーリだけではなく多くの気配が集まり始めていた。…その気配の正体にさすがのユーリも額から冷や汗が流れる。


「…今のオレは悪者ってか」


ぞろぞろと、彼女の背後から現れた人では影たちの眼光は、まっすぐユーリを睨み付けていた。
傷口を抑えていたユーリも、苦笑いしか零せない。この傷では、さすがにこの量の魔物を相手には出来ないからだ。…しかしここで、彼女を見逃すわけにもいかない。…見逃したくはない。
剣を握る手が汗ばむ。ユーリと魔物たちは『魔女』を挟んで睨み合っていた。


「待って……やめて!!」


彼女の悲鳴を合図としたかのように、魔物たちはユーリへと襲い掛かってくる。そしてユーリも傷口を抑えるのをやめ、魔物たちへ剣を向けた。
- ナノ -