時の精霊クロノスは少し前から異変を感じ取っていた。
世界の異変。エアルの乱れと似た何か。しかし他の精霊たちが気づかないほどの何か。クロノスの表情を日を追うごとに険しくなり、水の精霊ウンディーネは何かを察する。
精霊たちは始祖の隷長(エンテレケイア)であった時よりも、穏やかな時間を過ごしていた。人間にも魔物にも干渉せず、ただ世界の流れを見守るだけ。あの日から人間の前に姿を出さないクロノスとは異なり、ウンディーネたちは満月の子であるエステルの呼びかけにはなるべく応えるようにしていた。星喰みを倒したときのように力を貸すことはしなかったが、相談には乗るようにしているのだ。


「…なにか、よくないことが起きようとしているのか?」
「この奇妙な感覚…精霊になったあなたでも何も感じないのね…」
「エアルの変化なら我らにも気が付くはず。人間も、魔物たちも気付いていない」
「ただの悪寒だと思っていけれど…精霊となった今ではこの悪寒も只事ではないはずよ」


ウンディーネの隣で、クロノスは瞼を閉じる。
他の精霊たちが感じない世界の異変とは何なのか。その正体までをクロノスは知らない。だがこの胸騒ぎはただ事ではないように感じる。それは時と運命を司る精霊だからこそなのか。クロノスにはまだ分からない。
しかし、この嫌な予感で一番に顔が思い浮かんでくる少女がいた。人間とも魔物とも一切の関係を断ったクロノスが今、唯一気にかけている少女を。


「リク…」


この胸騒ぎの正体がなんなのか分からない。ただ、あの少女に何も起こらなければいい。
時と運命を司る精霊も、今回は祈ることしかできなかった。


***


クロノスが悪寒して感じていた異変を、リクは感じていなかった。
いや、正確には気付こうとしなかった。全てにおいて無気力な生活を続けてきた彼女には、何もかも関係のない話だったからだ。
もう一度世界に異変が起きようと、おそらく自分が解決できる問題ではない。なぜなら自分はここにいないはずの人間なのだから。どう動こうとも、無駄なことであるのがよく分かっていたからだ。
――でも、


「…頼む。お前の名前を教えてくれ」


その言葉に鳥肌がたった。
もう聞くことができないと思っていた彼の声が私に囁く。
もう見ることもできないと思っていた彼の瞳の中に私がいる。
もう会うことができないと思っていた彼が私の目の前にいる。
それだけのことなのに。たったそれだけのことなのに、リクの瞳からは涙があふれて止まらない。
こんなに身体が熱くなったのはいつぶりだろう。"人間"を相手にするのはいつぶりだろう。いつもなら自分が視界から消えた瞬間、何もかも忘れてしまうはずなのに。
どうして自分を忘れないのか。どうして自分を認識できるのか。今までと違うことがありすぎて、リクの頭は混乱していた。けれど"彼"に見つけてもらえたことが嬉しくて、夢のようで、リクはその異変のことを深く考えられなかった。
――また、あなたに会えた。
その喜びだけで、リクは震える口で名乗ろうとした。


『(――リクっ!!!)』


しかし彼女自身がその名を言う前に、別の誰かがその名を叫んだ。
――クロノスだ。クロノスがリク自身に直接語りかけている。精霊である彼女と繋がりをもっているため、こうして直接語りけてくることは珍しいことでもなんでもない。しかし、ここまで鬼気迫る声が響いたのは初めてだ。
ずっとずっと想っていた彼を目の前にして、リクの表情は再び固まる。自分の頬に触れてくれている彼の手を離し、視線を泳がせた。


『(今すぐ…今すぐ戻ってきて!! 早くっ!!)』
「(まって…まってよクロノス、今…今ユーリが…)」
『(リク、お願い早く戻って! 魔物たちが…あなたの家を守っている魔物たちが、人間たちに惨殺されているの!!)』
「なっ…」


そこでやっと、リクは夢心地だった気分を現実に戻した。
魔物たちが、人間たちに殺されている? 一体どうしてそんなことに?
熱くなっていた頭は徐々に冷えていき、リクは目の前にいる彼から身を離した。――そうだ。よく考えてみればこの状況はおかしい。彼が私を覚えているはずがない。…そんなはずないんだ。
自分に言い聞かせながら、ようやくこの"異変"を受け入れる。自分を落ち着かせるように深呼吸をしてから、リクは再び彼を見た。彼は、様子がおかしくなったリクを見て、どうしたのかと不思議そうな顔をしている。


「ごめんなさい。…でも、私を見つけてくれてありがとう」


万感の思いを込めて、やっとリクは言葉を紡いだ。
まだ止まらない涙のせいで声は震えてしまっているし、よく分からないことを言っているせいで、彼は驚いた顔をしている。…でも、でも駄目だ。ここで彼には甘えられない。誘惑に負けてはいけない。
彼がこうして自分を見つけてくれたこと…自分の目の前にいることこそが"世界の異変"なのだから。
掴まれた手首を振り払い、リクは一人で駆けだした。


「(ユーリ…ユーリ、ユーリ、ユーリ!!)」


ごめんね。何度もそう思いながら、リクは涙を拭う。
あれだけ泣いていたというのに、涙は涸れることを知らないとでも言うように次々と溢れ出てきた。それを振り払うようにリクはタルカロンから、彼から逃げるように走る。
やっと彼に会うことが出来たのに。彼が私を見つけてくれたのに。
叫びたくなるような衝動を抑え込み、リクはただ足を動かした。


「おい待て…待ってくれ! ―――リクっ!!!」


あっという間に走り去ったリクに、彼が呼び止めるその声は聞こえなかった。


***


目の前で起きている信じられない光景に、リクの足は止まった。
呆然とその光景を眺め、絶句する。膝は簡単に折れ、ここまで走って荒くなった呼吸もそのままにリクは無表情のまま涙を流した。
――これまでリクが家としていた小屋が、燃やされている。
自分を慕うようにこれまで集まってきてくれていた魔物たちも、その周りで無残な姿で息絶えていた。
家が灰になっていく熱さと、魔物たち血の臭いでリクの思考は完全に停止した。あまりにも突然の出来事に頭がついてこなかったのだ。
ついさっきまでいつもの生活をしていたというのに、何故こんな悲惨なことになってしまっているのか。リクには分からなかった。分かりたくなかった。


「見つけたぞ、『魔女』だ!」


人の声がする。リクはなんとか頭を動かし、声のする方に目を向ける。
そこには、青色の騎士とギルドの男と思われる大柄な男がこちらを睨み付けていた。――何故、こっちを見ている? まさか、私をちゃんと認識しているというの?
リクが考えをまとめている間にも、騎士とギルドの男たちは彼女を取り囲んでいく。そして、よく切れそうな剣や斧を彼女へと向けた。


「近頃魔物を従えて人を襲わせているのは貴様だな!」
「こんな森の奥に魔物をつないでいたとは…一体何が目的だ?!」


男たちが何を言っているのか分からなかった。リクは再び燃えている小屋に視線を戻す。
――ああ、私が二年かけて作り上げた"生活"が燃えていく。
瞳の中で揺らめく炎が、彼女には走馬灯のように見えた。人の目のつかない場所を必死に探して、やっと見つけたこの小屋を生活できるように一人で整えて、魔物たちとも協力してやっと普通に過ごせるようにしたのに。…やっと、この生活が快適だと思えるようなったのに。


「…あなたたちには、私が見えるの?」
「なんだと?」
「あなたたちは、私を覚えてるの?」
「貴様、何を……」
「あなたたちには私が…分かるの?」


目の前に炎があるせいか、瞳から流れた涙はあっというまに乾いてしまった。
リクは涙の痕と、灰で汚れている自分の顔をそのままに男たちへと向き直る。…ゆらりと幽霊のように立ち上がったリクに、男たちはヒッと引きつった声を上げた。
男たちが言っていた『魔女』という単語も、魔物で人を襲わせているという言葉も、リクにはどうでもよかった。ただ一つ問題なのは、彼らが自分を『魔女』というものとして認識し、ここまでやってきたということだ。――この世界で起きないはずの事が起きている。
リクは燃えている小屋を背後に、徐々に集まってきた騎士とギルドの男たちを見つめた。


「…大丈夫、これくらいの不幸なんてどうってことないんだから。でも…」


魔物たちは何も関係ないのに。
リクが騎士たちを睨み付けたその瞬間、彼女背後で燃えていた炎から巨大な火の玉が飛び出し、彼らに襲い掛かってきた。
男たちはその火の玉を、二年ぶりに見た。まるで生き物のように動くそれは、魔術によるものだとすぐに理解した。しかし魔術は、魔導器(ブラスティア)が使えなくなったおかげで誰も使うことができなくなったはずだ。
混乱している騎士たちの様子に気付かないフリをしてリクは次々と炎を彼らに向けてぶつける。魔導器を持っていない彼らには、それを防ぐ術がなかった。
次々と倒れている騎士たちを眺めたあと、リクはゆっくりと彼らに近づいていく。


「どうして私がここにいるって分かったの?」
「ひっ…ま、魔物たちの…あとをつけて…」
「『魔女』っていうのは?」
「ま、魔物を従えてる女……あ、あんたのことだよ!」
「……人を襲わせてるっていうのは?」


リクが放った炎によって火傷を負った騎士を見下ろし、リクは淡々と質問をした。
どうやら数か月前から自分の存在が認識され始めていたらしい。先ほど行ったタルカロンではそんな様子はなく、いつも通りだったが、その先にいた"彼"は確かに、リクを認識していた。
……誰も思い出したわけじゃない。ただ、見えるようになっただけ。
騎士から全ての話を聞いた後、もう一度詠唱する素振りを見せながら彼らに忠告した。


「あなたたちさえ何もしなければ、私が動くことはありません。…二度と、私たちには関わるなとあなたたちの上司に伝えなさい」


炎の竜が彼女の背後に現れ始めていたのを見て、騎士たちは恐怖に身体を震わせながらその場を離れていった。
情けなく背中を向けて走り去っていく騎士たちもいれば、まだ自分に向かって来ようとするギルドの男もいる。何とも言えない気持ちになった。確かに、ここで簡単に引き下がればギルドとしての面は丸つぶれだ。しかしそれだけで、リクは彼らにやられる気は毛頭ない。引き際を知らないギルドの男たちを更に魔術で牽制した。しばらくそのやりとりが続き、とうとうギルドの男たちも騎士と同じようにこの場を離れていく。
――もうこれは、引き下がれないな。リクは自嘲を零し、改めて火を消そうと踵を返そうとした。……しかし、視界の端に入ったその人にリクの動きは止まる。


「――ユーリ」


黒髪によく映える紫色の瞳が、炎と一緒に立っているリクを映し出している。
…ここまで律儀に追ってきたのだろうか。リクの瞼は再び熱を帯び始めていた。…しかし、さきほど"再会"したときのような感動はもうない。場所が場所で、状況が状況であったためだ。
そして、彼も――…。


「"あんた"、一体何者だ?」


思い出の中の"彼"がリクに優しく笑いかける。しかし目の前の"彼"は険しい表情のまま、リクに鋭い剣を向けていた。
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