あの災厄を撃破してから二年と数日。レイヴンは騎士とギルドを行ったり来たりと、ここ十数年とまったく変わらない仕事をこなしていた。変ったこととすれば、彼が自分を偽るということをしなくなったことだ。二年前まではシュヴァーンという戦争の英雄としてギルドと騎士とでスパイ活動をしていたが、それが公になった今、そんなことをする必要はない。
彼はレイヴンという最も自分らしい姿のまま、騎士とギルドの橋渡しとするという彼にとって最高の仕事をこなしているのだ。
今日もその帰り。今回はわざわざ帝都に赴くことなく、ハルルでそれをすませただけだったが。ついでにエステルやリタとも会う事ができ、レイヴンは久々に充実した気持ちでダングレストへ帰ろうとしていた。


「(まぁ、今回も話し合うことといえば『魔女』関連のことだったし)」


最近、巷を騒がせているという魔女。
正体も目的も不明。少し前からその存在は確認されていたらしいが、最近になってとうとう人を襲うようになったらしい。ギルドにも騎士団側にも危険と判断された魔女を、彼らは団結して捜索、その対処をすることになった。
フレンともよく話し合って、レイヴンもギルドの人間を何人かその部隊に派遣した。今回はその結果を聞きに来たのだ。
――どうも、状況はよくないらしい。今回顔を出したエステルたちも深刻そうな顔をしていた。魔女の探索には成功したものの、とんでもない事実が分かったからだった。


「(…思っていたより、事態は深刻そうだなこりゃ…)……ん?」


この報せは一刻も早くダングレストに持って帰らなければならない。そう考えていたレイヴンは早足で帰路についていたが、ちょうどエフミドの丘を過ぎた後…大きく開けた街道の隅で見覚えのある後ろ姿を見かける。
――デュークだ。あんなにも特徴のある美丈夫は多くの人間を見てきた中でも彼しかいない。レイヴンは目を丸くして彼の後ろ姿を追った。災厄を倒す際、自分たちの前に立ちはだかったデュークは、依然と変わらず世界中を旅して回っているようだった。相変わらず会いたいからと言って会える人間ではなく、彼を見つけるのは骨が折れる。
そんな彼が、今レイヴンの前にいる。後ろ姿の為、レイヴンには気付いていないようだが、幻覚なんてものではないのは確かだった。…そういえば、エフミドの丘はデュークの盟友であるエルシフルの墓があると聞いている。前から神出鬼没だった彼を見かけるのは、いつだってエフミドの丘付近であったことをレイヴンは思い出していた。


「また人のいないところで散歩でもしてるのか、デューク」
「……お前は…」
「よう。あんたも相変わらずみたいね」


多少は改心したものの、デュークは相変わらずとっつきにくい男だ。レイヴンはその後ろ姿を見れただけでもよしとしようと思っていたが、例の『魔女』のことを思い出し、彼なら何か知っているだろうかと咄嗟に声をかけた。
やはりデュークは相変わらずで、久々に会うというのにやはり眉一つ動かさないまま、無表情な男だった。


「…ちょうどいい。お前を訪ねようと思っていたところだ」
「え…なになに? あんたが俺に用があるって只事じゃないでしょ」
「聞きたい事があっただけだ。最近騒がせている『魔女』について」
「ちょ…それは俺も聞きたかったことなんですけど」


レイヴンは目を丸くした。あのデュークが、人の世から完璧に退いた彼が、自分に用があると言い出すなんて。
しかし彼の口から零れたのは、レイヴンもたった今訪ねようと思っていた内容だった。魔物を率いているという女。今回の探索で只者ではないことは分かっていた。


「騎士団とギルドが合同で『魔女』の捜索を始めたというのは風の噂で聞いた。…お前は参加していなかったようだな」
「まあ一応ギルドの幹部なんでね。そう簡単には動けない身なわけよ。…ちょうどさっきその捜索について報告を受けたところ。…まあ、あんたも知らないってんならお手上げ状態なんだけどね」
「どういうことだ?」
「始祖の隷長(エンテレケイア)である可能性が上がってきたって事。その女、魔導器(ブラスティア)がないこの世の中で魔術を使ってたらしいのよ」
「……始祖の隷長だと?」


やっと顔色を変えたデュークに、レイヴンは今回ハルルで報告を受けた内容を話した。
捜索隊はシャイコス遺跡付近の人が寄り付かない森の奥で魔女の隠れ家を見つけたらしい。魔女自身はいなかったようだが、代わりにその隠れ家を守るように大量の魔物が襲い掛かってきたのだと。捜索部隊だったが、多少の魔物との戦闘にも備えがあったため、それに対処はできたみたいだが、その魔物たちは異様に量が多く、一歩たりとも捜索隊の人間を隠れ家に近づけようとはしなかった。
だがその隠れ家の付近で戦っていた為か、その飛び火が隠れ家にも及び、木造だった小屋はすぐに全焼してしまったという。――魔女が捜索隊の前に姿を現したのはその時だった。


「対面した騎士の話によると、思ってたよりも幼い顔をしてたって話だ。魔物と生活してたみたいで、身なりもボロボロだったって。…でも問題はそこじゃない。魔女は捜索隊を見つけるなり、炎の魔術で牽制してきたんだと」


報告してきた騎士たちも満身創痍のようだった。魔女はどうやら、全焼してしまった自分の家を見て激怒してしまったらしい。その炎を利用して、魔術で襲い掛かってきたのだと。
最初は騎士たちも目を疑った。あの炎は、あの魔術は、二年前にぱったりと消えたはずの魔術だったのだから。さすがに予想していなかった事態に、捜索隊はハルルまで急いで引き返してきたのだと言う。
その判断は正しい。しかし、魔女を怒らせてしまったという点が気になる。小屋を燃やした炎は捜索隊に襲い掛かってきた魔物の炎が飛び火して燃え移ってしまったものらしいが、魔女にはそんなこと関係ないのだろう。いつ、魔物の軍勢を率いて街に襲い掛かってくるか分からない。


「……」
「あんたは知らないか? バウル以外の始祖の隷長を。魔術を使うってんなら、始祖の隷長である可能性が高い。…もしくは、なんらかの理由で魔導器を所有してるかって話だが…その可能性は極めて低いでしょ?」
「その魔女が、魔導器を持たずに魔術を扱える人間だったら?」
「……え」


話を聞いたデュークは眉間に皺をよせ、険しい表情をしていた。あの無表情なデュークがだ。レイヴンはその雰囲気に冷や汗をかきながら、デュークが零した一言に目を丸くする。
魔導器なしで魔術を扱える人間? それはエステルのような満月の子でないとありえない能力のはずだ。普通の人間ではまずありえない話。……ありえない? レイヴンはハッとして自問自答を繰り返した。
満月の子の力を受け継いでいるのは基本的に皇族であるはずだが、その血筋はどこまで及んでいるのか分からない。目の前にいるデュークも、元は皇族の遠縁であったという話もある。皇族の…満月の子の血が現在の皇族だけに留まっているとは限らないわけだ。…もしかしたら、まったく皇族とは関係のないところでその血が繋がれていた可能性だってないわけではない。


「…魔女が、満月の子だとでも言うわけ?」
「可能性は低い。だが、有り得ぬ話ではないということだ」
「随分突拍子もない話だけど…あんた何か手がかりでも掴んでるわけ?」
「突拍子もない…確かにそうかもしれんな。…少し前のお前と同じだ」


レイヴンはだんだんとデュークの態度が刺々しくなっていることに気が付いていた。彼の無表情が崩れるにつれ、ただならぬ冷たい雰囲気が彼を取り巻いていく。
魔女のことで何か気に食わないことがあったのか、それとも、気に入らないのはレイヴンの態度なのか。もし後者なのだとしたら、レイヴンにはその対処方法が分からない。一体自分の何が彼を苛立たせているのか分からないのだから。


「それってどういう意味?」
「…いや、分からないのなら私から言う事は何もない。…魔女のことは分かった。それは礼を言う」
「…俺たちはこれからも魔女を探るけど…あんたはどうすんの? 魔女の正体が始祖の隷長にしろ、満月の子にしろ、あんたは黙ってないだろ」
「教える必要はないだろう。どちらにせよ、お前たちの邪魔はしない」
「でも何かしらはするんでしょ? 昔みたく敵同士ってわけでもないんだから、ここは一つ協力するってわけにはいかんかねぇ」
「協力か…それなら間に合っている」


え…。レイヴンがそう声を漏らした直後、デュークが視線を向けていた茂みの奥から予想外のものが顔を出した。


「バウッ!」
「お前さん…ラピード!?」


随分と久しぶりに見る戦闘犬に、レイヴンは今度こそ言葉を失くした。
ここにいるはずのないかつての仲間の一人。何故デュークと一緒にいるのか。彼の本来の主である男は一体どうしたのか。
…いや、レイヴンはフレンから何度か話を聞いていた。ラピードは前と違い、ユーリとは別行動をしているのだと。ユーリは元々、世界中をのらりくらりと旅していたが、半年ほど前から何かを探して旅をし始めていた。その旅に彼の相棒だった犬はついて行っていない。元々、ユーリの旅にはついていかず、ずっと下町に身を置いていたと聞いていた。もちろんレイヴンはそれを不思議がったが、フレンだけは何かを察しているようだった。ラピードも付いていけなかったんだろう、と。その理由をレイヴンは最後まで聞くことが出来なかった。フレンとユーリ、そしてラピードという昔馴染みにしか分からないことがあるのだろうと。


「なんで…」
「さあ、その理由は私にも分からない。ただ彼が私についてくるだけだ」
「…いや、それにしたって…」
「彼は言葉を語らない。だが、お前たちよりも多くの事を知っているようだ」
「バウッ」


デュークは淡々とレイヴンの顔を見ることなくラピードの頭を撫でる。ラピードも大人しいもので、二年前に戦ったことが嘘のようだった。
ラピードは自分の主が分からないほど馬鹿な犬じゃない。ついて行くべき人間を見誤る事だってない。それどころか、人間を見る目は仲間の中で誰よりも一番だったはず。
なのになぜ、このタイミングでデュークの側に? レイヴンはいよいよ、この悪寒がただデュークの雰囲気に圧されているだけではないと察する。


「…デューク、あんた何をする気だ?」
「何も。"お前たちに影響のあること"は何もしない。……ただ、」


――取り戻しに行く。
デュークの強い言葉に共感するかのようにラピードが再び強く鳴いた。
そんな一人と一匹の姿に、レイヴンは軽い頭痛を感じ始める。なんだか自分がデュークと共に行かないことに違和感があった。何故だ。彼が言っている言葉の意味をよく理解していないのに。ラピードがついて行く理由も分かっていないのに。
何故自分は"取り戻し"に行かないのかと、頭の中で誰かが叫んでいた。
レイヴンがそう呆然としている間に、デュークは彼に背を向けて再びエフミドの丘方向へと消えていく。彼の考えていることは相変わらずよくわからない。ただ、彼が自分たちの邪魔をしないということは、そういうことなのだろう。レイヴンは頭の中を整理しようとため息をつく。
デュークの行動がつかめないのはいつものことだ。そう、いつもの…。


「ワンっ!!」


レイヴンはその声にハッと瞬きをした。
ラピードはレイヴンを見上げ、何かを差し出している。レイヴンは目を丸くしたまま、それを受け取った。突然の事で何もラピードに声をかけることができなかったが、ラピードは特に気にしていないようだった。彼はもう一度強く鳴くと、デュークの後を追いかけてエフミドの丘の方へと駆けて行った。
とうとう一人で残されたレイヴンは自分の頭を抱える。今の数分だけで色んなことがありすぎた。さっさとカプワ・ノールまで行って宿をとり、さっさと身体を休ませた方がいい。ため息をつきながらデュークとは反対方向に歩き出す。
ラピードは自分に何を渡したのだろう。歩きながらその手に握ったものを見てみるが…ただの紙くずだった。どう見てもゴミ箱に入れる前の物にしか見えない。


「ラピードの中で俺の評価ってそんなに低かったのか…」


自分の代わりに捨てておけということだろうか。くしゃくしゃになった紙くずに苦笑いを零しながら、それを握りしめようとした直後、その紙くずに何か文字が書いてある事に気が付く。
見覚えのある文字だった。レイヴンは、その文字を書いたのが誰なのかをその一瞬で察する。見覚えがないはずないのだ。―――それは、自分の文字だったから。


「レイヴン…今、幸せ?」


その文字を見た瞬間、その紙くずがただのゴミでないことを悟ったレイヴンは、慌てて丸めてあるその紙を開く。捨てられる寸前だったその紙はあまりにもボロボロで、文字も擦れてしまい、わずかにしか読めない。…けれど確実に、自分の文字だった。
心臓の鼓動がやけに大きく、そして早鐘のように鳴り響いていた。じわじわと、紙を広げる手に汗が流れ始める。そして、全身が熱くなるような奇妙な感覚がレイヴンを支配し始めていた。


『リク』

「この世界の誰が忘れようと、私だけはちゃんと覚えてるって決めたもの…!」

『アウラ』

「空っぽだなんて言わせない。あなたには私がついてる」

『クロノス』

「私は精霊になっても変わらないわ。…リク、あなたの願いは私の願い。私の力はこれまでも…そしてこれからもあなたの為に使いましょう」


『忘れるな』

「あなたが自分をどう言おうが勝手だけど、私は居場所がないだなんて思わない。私はたった一人のあなたを"覚えてる"」

『忘れるな』

「私もキャナリにたくさん報告したいことがあるんだから。今も昔も、レイヴンは手が付けられないって」


――忘れるな。

「お別れ、しなくちゃ」



喉から熱い何かが、込み上げようとしていた。
ただ叫びたくて、泣き出したくて、たまらなくなってしまう。
瞼が焼けそうだった。溢れだす熱は涙となって視界を歪ませる。レイヴンはただでさえ皺くちゃなその紙を強く握りしめ、憎らしいほど晴れ渡っている青空を見上げた。
この空のどこかで、"彼女"はたった一人きり。この二年、ずっと一人で誰とも会うことなく過ごしてきたんだ。――同じ空の下に、いたのに。


「……絶対、許さない。許してやらない」


青空を見上げたまま、レイヴンは一人、低い声で呟いていた。
しかしその表情は恨みがましい言葉とは正反対であり、嬉しいと言わんばかりに口端を上げ、瞳からは今にも涙が流れそうだった。


「二度も約束を破るなんて、俺は絶対…許さないからな」


一度目は十年前。
そばにいてくれると言った彼女は自分の手の届かない場所に行った。
二度目は二年前。
一緒に墓参りをすると約束した彼女は自分から消えることを選んだ。

――覚えている。全部、思い出したから。
レイヴンはその紙くずを握りしめ、カプワ・ノールへ向かおうとしていた足を逆方向へと向けた。それは、デュークが消えた方向と同じ方向。『魔女』がいる場所と同じ方向。


「今度は絶対、取り戻す」


意味が分からなかったはずのデュークの言葉を呟き、レイヴンは急いで来た道を戻った。
あの約束をちゃんと果たしてもらうために。
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