終わるはずだった命がまだ生きながらえていると知った時も、彼の心は空っぽのままだった。
星喰みの脅威が去って二年。それは、自分が生き永らえてしまった時と同じ長さだった。…まだ、二年しか経っていないのか。鎖に繋がれつづけ、ここで何をするでもなく捕らわれ続けてまだ二年。随分長く感じていていたが、それだけ生き地獄だと感じているからだろうか。
アレクセイは二年前、星喰みという災厄を呼び起こしてしまった大罪人としてこの牢に閉じ込められ続けていた。星喰みを撃退する際、その知識を凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)たちに提供し協力したことから、彼の罪は多少軽くなるはずだった。軽くなるといっても、牢屋の居場所が一般牢に変わるだけで、彼の犯した罪の重さ自体が軽くなるわけではなかったのだが。
しかしアレクセイはそれを拒んだ。地道にやり直そうとすることも、その後騎士団の密かな助けにもなることはなく、彼はただ何をすることなくその牢屋で生き永らえていた。
自分が生き残ってしまった理由を知らないまま。何故今も自分が生きようとしているのかも分からないまま。


「アレクセイさんよ、今日はしっかりと食べておきなよ」
「……何かあるのか?」
「詳しくは教えてもらえなかったが…フレン団長がいらっしゃるらしいぞ」
「フレンが…?」


ここしばらく牢屋番をしているこの騎士は、アレクセイが何をするでもなくただそこにいるだけと知っているせいか、気軽に話しかけられるほど彼の扱いに慣れていた。
アレクセイが団長をしていた時代に入った騎士の一人らしく、最初こそアレクセイを前に緊張していたようだが、今では彼の友人のように話しかけてくる。それこそがこの騎士の人柄なのだろう。アレクセイは彼を鬱陶しいとは一度も思わなかった。…彼といて、楽しいと思ったことも。


「こんな薄暗い場所に、いったい何があって?」
「さあ…俺みたいな下っ端には何も伝えられてないなぁ」


彼の仕事は一日中牢屋を見張っていることだ。もちろん彼の他にも当番はたくさんいるだろう。しかしアレクセイのいるこの一番奥の牢屋を好き好んで担当するのは彼ぐらいだ。
アレクセイはいつものように出された食事を眺めたまま、手を付けることなく考えた。団長になったフレンは二年前のあの日以来滅多にここに現れることはない。新しい世界の対応に追われているのだろう。彼らが拓いた新しい世界は彼が望んだ変革そのものだった。…しかし、世界に混沌をもたらした彼がそれを喜ぶのはお門違いというものだ。こうして生き残ってしまったのなら、尚更。


「午前には来るって聞いてたけど…やっぱりフレン団長、お忙しいんだろうなぁ。最近は『魔女』のこともあるみたいだし」
「『魔女』?」
「ああ…なんでも、魔物を従えて人を襲わせてるらしいぜ。おっかないよな〜。でも騎士団がギルドの連中と一緒に討伐しに行くらしいから『魔女』の噂もこれ以上は拡がらないさ」


魔物、人、魔女。
騎士がする噂話は現実とかけ離れすぎていて笑いすらでてこなかった。…なぜだろう。なぜこんなにも胸騒ぎするのか。アレクセイの視線は何故か泳ぎ始めていた。
何もやましいことは考えていないし、いつも通り何もない生活だ。しかし妙な胸騒ぎだけがした。ここ二年、何があっても感情の起伏などしなかったというのに。
あの日、ザウデの頂上で死ぬべきだった自分が、こうして生きている。生きることが償いだと言うのなら、何もせず、何も感じずに生き永らえるのが最良のように思えるのだ。
しかしここへ来て、正体不明の胸騒ぎに動揺している自分がいる。アレクセイは久々に頭を回転させた。この胸騒ぎの理由を、自分は知っているはずなのだ。


「それが、あなたへの罰。これまでしてきたことの報い」

「――フレン騎士団長!!」


誰かの顔が頭を過ったその瞬間、看守である騎士の珍しく緊張した声で現実に戻される。
アレクセイははっと顔を上げた。確かに騎士の言った通りの男が、数年前と変わらぬ姿のままこの独房に入ってくる。用があるというのは本当だったのか。
相変わらず心配りの良く出来た団長のようで、フレンは入ってそうそう、看守である騎士の報告を聞き労いの言葉をかけていた。…いつもならそれだけではしゃぎそうな看守だが、今回は苦笑いを零して背筋を正したままとなっている。一体どうしたのかとアレクセイは訝しげな表情になったが、フレンの背後から顔を出した人物に、その理由を察した。予想外すぎるその人物にアレクセイの口端が無意識に上がる。


「……まさか、このような場所に皇帝陛下自らがいらっしゃるとは」
「お久しぶりです、アレクセイ」


いつも陽気な看守がいつまでも緊張している理由…それは、この国のトップである皇帝がこの場にいるからに他ならない。本来ならば、こんな傍で見る事が叶わない存在なのだから。
アレクセイは、ヨーデルの登場によって更に表情を険しくさせた。こんな独房に、皇帝が自らやってくるなんて本来ならば有り得ないこと。恐らく皇族の長い歴史の中でも初めての事だろう。
アレクセイはちらりとフレンを盗み見る。彼の険しい表情から察するに、これはヨーデル皇帝の我儘らしい。それもそうだ。生真面目が売りであるフレンがヨーデルをこんな場所へ連れてくるわけがない。


「…陛下の御前でこのような姿、お許しいただきたい。陛下がいらっしゃるのなら、それなりの準備はしていたのですが」


突然現れた国のトップに、アレクセイは笑いながら皮肉を零した。
事前に連絡があったとしても、彼は準備などできない。ずっとこの独房に繋がれたままなのだから。
フレンがそんなアレクセイに何か言おうと身を乗り出す。しかしそれを、彼より前に出たヨーデルが手で抑えた。


「こちらこそ、突然おしかけてしまい申し訳ありません。…ですが、今回はどうしても直接あなたにお聞きしたい事があってここに来ました」
「聞きたい事? 二年前の尋問で私が知っていることは全てお話ししたはずですが」
「ええ。私もちゃんと報告を聞きました。丁度二年前…星喰みを倒した後の尋問の話ですが」
「…どういう意味ですか?」
「フレン、宙の戒典(デインノモス)を」


そこで初めて、アレクセイはヨーデルを前にして動揺して見せた。しかし彼の動揺を見ても、ヨーデルが顔色を変えることなく、フレンはヨーデルの指示通りに宙の戒典を手にアレクセイの檻へと近づく。
そして、フレンはそのまま宙の戒典の柄部分をアレクセイへと向けた。まるで受け取ってくれとでも言うように。アレクセイはヨーデルがいることも忘れ「正気か?」と思わず呟いてしまった。宙の戒典といえば、一度アレクセイが利用しようとした剣だ。やっとデュークから返還された皇帝家の秘宝。それを再び自分に差し出すとは正気とは思えない。


「勘違いしないでいただきたい。この剣をあなたに差し出すわけではありません。…ただ触れていただきたいのです」
「触れる? どういうことだ」
「とにかく一度触れてみてください、アレクセイ。…結果次第では、あなたをここから出すことになるかもしれません」
「…私はここから出ることを望んではいませんよ、陛下」


フレンもヨーデルも表情は硬いままだった。ただ、アレクセイが宙の戒典に触れるのをただじっと待っている。
どうやらからかいに来たわけではないらしい。皇帝であるヨーデルが直接来たという時点で、よほどの事だろうとは思っていたが。
アレクセイは鎖でつながれた両手を檻の外へ出し、フレンが差し出している宙の戒典に触れる。…しかし本当に触れるだけで何も起こることはなく、牢屋はただ静まり返った。
長い沈黙のあと、ヨーデルが落胆したようなため息を吐き出す。フレンも険しい表情のまま、宙の戒典をアレクセイの手から離した。


「やはり駄目でしたか…」
「陛下、やはりエステリーゼ様にご協力いただいた方が良いかと」
「ええ。とにかく今は時間が惜しい」
「…罪人の分際で口を挟みたくはないが、事情は説明していただけないのですか?」
「すみません、アレクセイ。今のであなたを試しました。本来ならばその剣に触れることである変化が起こるはずなのですが…あなたのその様子では、何もなかったようですね」
「変化…?」

ヨーデルは残念そうな表情のまま、宙の戒典を触れさせた理由を話した。
数日前、宙の戒典に触れたヨーデルは今まで一つも思い出さなかったある事を思い出したらしい。それはアレクセイやフレンだけでなく、世界中の人間が関係するほどのものだと言う。
宙の戒典に触れたことにより思い出せたため、ヨーデルはフレンたちも同じように触れば思い出すと思っていたが、そううまくはいかなかった。フレンが宙の戒典に触れても、他の騎士たちが触れても誰も思い出すことはなかった。
そこまで聞いてアレクセイは訝しげに眉間に皺を寄せた。ここまで聞いているだけでは、皇帝の狂言にしか思えない。剣に触れるだけで何を思い出すと言うのだろう。…いや、そもそも自分たちが忘れていることの心当たりがない。けれどフレンは、ヨーデルは、それを試しにここまで足を運んだ。それほど深刻な問題だというのか?


「…信じられないでしょう。自分の記憶を疑うのですから、余計に」
「……ですがあなたは、その信じられないことのために自ら私に会いに来た」
「ええ。…私には大切な記憶なのです。それはおそらく、あなたにとっても」
「大切な記憶? いったい私が何を忘れているというのです」
「…フレンは名前だけ覚えていましたよ。だから思い出せなくても、すぐに私の力になってくれたのです。この世界を真に救った――彼女の名前を」


ヨーデルは険しい表情のまま、再びフレンに指示を出した。フレンは黙ってその指示に従っている。
アレクセイはいよいよ頭が混乱してきてしまった。一体自分は、何を忘れているというのだろう。百歩譲って、その『彼女』とやらを忘れていたとしても、ヨーデルやフレンには何の関係もない話のはずだ。思い出せたとしても、自分が罪人であることは変わらない。星喰みのときのように彼らの力になれることもないだろう。
次にフレンが取り出したのは、随分と懐かしいものだった。二年前、星喰みを撃退するためにリタ・モルディオが改造した皇帝の剣。現在はリタ本人が所持していたはずだが、何故ここにあるのか。


「開発したリタにも分からないデータが、この剣に宿っているとエステリーゼ様からご報告がありました。この剣の開発に携わったあなたなら何かご存じではないかと」
「…その話も二年前にしたはずだ。私はそのデータに覚えはないと」
「ええ。ですがこうも言っていましたね。確かに自分が作った暗号文だと。しかし作った覚えもなければ、書いてある内容もまるで分からないと」
「…嘘はついていない」
「私も疑ってなんていません、アレクセイ。ただ、もう一度読み上げてほしいのです。あなたが遺したその手がかりを」


私が遺した、手がかり?
昔からヨーデルは年若くありながら、アレクセイでも何を考えているのか分からない男だった。皇族の模範とも言えるほど穏やかで、民想いの好青年。騎士団と評議会のいざこざが無ければ問答無用で皇帝になっていたであろう器の大きい男だ。しかし口調は穏やかながら考える事は大胆で、己の信念を曲げない頑固な男だった。
決して、自分の欲だけのために臣下を動かすような男ではない。それをアレクセイは知っている。だからこそ、彼は多少疑いながらもヨーデルの指示通りに明星二号に遺されていた覚えのない暗号文を読み上げる。やはりそれは、二年前と同じく一文だけが記されていた。


「――『月の乙女』」

「勝負し直して下さい、アレクセイさん。今度はもう少し渡り合えると思います」

「ああ……やっぱり」


アレクセイがその一文を読み上げると、ヨーデルは感極まるといった様子で肩を震わせた。
知らない。知らないはずだった。アレクセイはたった一つのその単語を何度も何度も読み直した。二年前は確かに訳が分からない一文だったはずだ。…それは今でも変わらない。けれど何故だろう。二年前とは違う妙な感覚がアレクセイを襲い始めていた。


「あなたは知っていたんですね。彼女が世界を救う代わりに何を犠牲にするのか…だからこそ、あなたはその"手がかり"を遺せた」
「手がかり…『月の乙女』がどういう意味か、あなたには分かっているのですか?」
「私よりもあなたの方が知っているはずです。……フレン、アレクセイを例の開かずの部屋へ」


ヨーデルは何かを思い出しているのか、胸に手を当てたまま、フレンへと指示を出した。
看守の騎士に指示をだし、手錠をされたままのアレクセイは二年ぶりにその足で牢屋の外へ出る。…罪を償うためにこの檻の中でずっと居座っていた彼は、何故かすんなりと檻の外へ出ることが出来た。――あれほど、この檻から出てなるものかと思っていたのに。


「あなたは彼女の考えを受け入れた。受け入れたからこそ、抗おうとしたのです」


ヨーデルを先頭に、フレンや看守に警戒されながらもアレクセイは二年ぶりに城の廊下を歩く。何が変わったなど、彼にはまったく興味が無かった。…それ以外のことで頭がいっぱいだったからだ。


「私なぞの頭脳では、どんな方法をとればいいのか見当もつきません。けれどあなたは、あらゆる手段、あらゆる事態の想定をしていたのでしょう」


開かずの間――それは昔、アレクセイの私室および資料室として使われていた城の奥の部屋だった。資料はほとんどリタによって回収され、今ただの物置のように使用されているが、その部屋から通じるもう一つの部屋こそが開かずの間とされていた。
扉はあるというのに、パスワードを打たなければ入れない部屋。この部屋も二年前の尋問でアレクセイに身に覚えがない場所として話したはず。――そこでやっとアレクセイは気が付いた。…自分自身のことであるのに、身に覚えのないものがありすぎていると。二年もたってやっとその違和感に辿り着いたのだ。


「そして彼女も…まさかあなたが布石を打っていたとは思わなかったでしょう」


まるで最初から知っていたとでも言うのに、ヨーデルは扉へパスワードを打ち込んでいく。
『月の乙女』。アレクセイが先ほど読み上げたあの暗号文を。


「たとえ私たちの記憶から消えても―――彼女がいた証までは消えなかった」


あっさりと、開かずの間はその扉を開いた。
その中には多くの本棚があり、びっしりと資料や書類が詰め込まれている。その光景に、アレクセイは見覚えがあった。知らないはずの扉。知らないはずの部屋。どれもこれも不思議なことだらけだと言うのに、アレクセイはただ呆然とその部屋を眺めていた。
ヨーデルは何も恐れることなくその部屋へと入り、一枚の書類を眺める。そして何かを懐かしむように微笑みを浮かべた。


「月の乙女…懐かしいですね。彼女は嫌っていたけれど…私は密かに気に入ってました」
「――ええ…私も、まさしく彼女そのものだと、思って…いました…」


まさか返答が来ると思っていなかったヨーデルはハッとアレクセイの方へと振り返る。そしてすぐにその顔を綻ばせた。
埃の被った部屋唯一の机の上。大量に並べられた書類の中に、一枚の写真を見つけたアレクセイがそれを引っ張りだす。随分と色あせていて見れるものではなかったが、彼が"思い出す"には充分すぎるほどの物だった。


「この為にあなたを助けました。私を、見殺しにしてもうために」

「…すまない。私はもう、これまでのようだ」


色あせた写真の上に、一つ、また一つと水滴が落ちていく。
年甲斐もなく溢れ出てくるそれを、アレクセイは拭おうともしなかった。
今まできれいさっぱり忘れていたことが嘘のように、彼女との思い出が次々と頭の中で過っていく。
自分が彼女にしてしまったこと。彼女が自分にしてくれたこと。そして、自分がここでこうして生きている意味を、理由をやっと思い出したのだ。


「だが、もういいだろう…。もう、君を探しに行っても誰も文句は言うまい。…言わせるものか」


アレクセイは写真から視線を外し、ただ自分を見守っていたヨーデルとフレンに再び振り返る。
二人とも、何かを察したかのように何も言わず、ただアレクセイを見つめていた。


「…ヨーデル皇帝陛下」
「はい」
「これまでの無礼をお許しください。そしてできれば…先ほどの言葉は撤回させていただきたいのです」
「先ほどの言葉…というと?」
「私が牢屋から出ることを望んでいない…というものです」


突然態度が豹変したアレクセイに目を丸くしているのはその場に居合わせてしまった看守の騎士だけで、ヨーデルもフレンもただ真剣な顔つきでアレクセイを見つめていた。
ヨーデルはこれから彼が何をするか分かっているというのに、回りくどく彼に問いかける。はっきりと言葉にし――決意するように。


「私は彼女を……アウラを見つけたい。そして、世界が彼女を覚えていられる方法を探したいのです」


どこかふっきれたようなアレクセイの顔つきは、牢屋にいたころのものとは確実に違う。それは、アレクセイもまたヨーデルとは違う形で、一番大切なものを思い出したからだ。
ヨーデルは微笑み、黙って頷く。アレクセイの強い瞳は少しだけ、十年前の彼を思い出させるようだった。
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