近頃、帝都の周辺で囁かれている噂は城にまで広がっていた。
魔物の動向がどうも可笑しいというものだ。まるでヘルメス式魔導器(ブラスティア)が拡がっていた数年前のときのように、妙に統率のとれた魔物たちの行動が気味悪く思えるのだ。
種族の違う魔物たちが行動しているのはあまりない。他の大陸の魔物を見るのは特にありえないことだというのに、近頃はよく見かけるようになったのだ。
魔物たちが妙な行動をしている。まだ目に見えた被害があったわけではないが、騎士団もギルドも警戒を強めていた。魔導器があった時代とは違い、魔物を倒すことが容易ではなくなっているからだ。
ただ、魔物の動向が気になるというそれだけなら、騎士団も警戒を強めるだけで良かったのだが…。現在騎士団のトップであるフレンはそう眉間に皺を寄せた。


「――その魔物たちを、統率している人間がいるとの情報が入りました」


フレンは背筋を伸ばしたまま、目の前にいる主君に向けて険しい表情でそう告げた。
ここはテルカ・リュミレース唯一の帝国を治める皇帝のいる部屋。現皇帝ヨーデル・アルギロス・ヒュラッセインは騎士団長フレンの報告を真剣な表情で聞いていた。
世界を覆った災厄を討ち滅ぼし、もうじき二年になる。世界にはまだまだ問題が残っていたが、それでも確実に前よりも良い方向に動いているとヨーデルは確信していた。…フレンの報告は、そんな矢先のこと。数十年にもわたって対立していたギルドとの和解は成功したが、言葉の通じない魔物にはその手が通じない。
魔導器という人にとって最大の武器であったものが使えなくなってしまった今では、魔物との戦いが一番の問題であると言えるだろう。ヨーデルは困ったと言いたげにため息をついた。


「人間? 魔物が人間に従っているということですか?」
「信じ難いことですが、どうやらそのようです。魔物の群れの中に人の姿があったと多数の報告を受けています」
「精霊たちではないようですね。彼らは人にも魔物にも干渉をしない存在になりましたし…」
「一応ギルド側にも確認を取りましたが、やはり人を見ているそうです。人の姿に化けた新種の始祖の隷長(エンテレケイア)とも考えられますが…。…どちらにせよ、確認が必要です」


現在世界で確認されている始祖の隷長は、ジュディスと共に世界中を駆け回っているバウルのみだ。他の始祖の隷長たちは全て精霊として転生をしている。
始祖の隷長たちがどうやって生まれてくるのか詳しくは分からないが、様々な種族から生まれるらしい。世界のために自然と生まれてくるのだろう。クロームが人間として騎士団に潜入していたように、人に化ける始祖の隷長が生まれたかもしれない。もしそうなのだとしたら、一度話し合うことが必要だ。魔物を率いているのも、良い意味でない確率が高い。


「しかし、もしそうならバウルが何か気付いているはずなんですが…」
「もしかしたら本当に人が魔物を従えているのかもしれませんね。その方法がないわけでもありません。苦い記憶を呼び覚ますようですが、あなたにも覚えがあるでしょう」
「…はい。騎士団が魔物を従えていたときもありました」


フレンは改めて昔のことを思い出す。今や大罪人となっている元騎士団長アレクセイの指示で魔物を従えていたその時を。しかしあれは、魔導器というものがあったからこそ成立していたものだ。始祖の隷長ベリウスが従えていた闘技場で飼われていた魔物とは違い、騎士団での魔物の扱いは常に慎重さを求められていた。動物を飼うのとはわけが違うのだから。
特別な訓練を受けた兵がやっと飼育することを許された魔物。それを普通の人間ができるとは思えない。


「この話は数か月前から広まっています。…このあたりの魔物の群れには、必ず"彼女"がいると」
「彼女?」
「はい。その人間は黒髪の女性だそうです。…街の者は皆、彼女を『魔女』と呼んでいます」
「『魔女』…」


魔物を率いている黒髪の女。
帝都の人間だけでなく、その気味の悪さから民の中では『魔女』と忌み嫌われているらしい。なんともいえない仇名だが、確かに正体不明で不気味であることに変わりはない。
ヨーデルは考え込むように顎に手を添える。そして、皇帝の間に飾られている皇帝家の秘宝、宙の戒典(デインノモス)へと視線を向けた。


「彼は…デュークさんは、何か知っているのでしょうか。始祖の隷長と一番繋がりがある人間なのは彼です。…何か、知っているかもしれない」
「…ですが彼は星喰みを撃破して以来、世界中を回っているようでして…目撃情報があるのも時々でこちらから見つけ出すには時間がかかりすぎます」
「…急を要することなのですね」
「――『魔女』が従えている魔物がとうとう人を襲ったと、報告がありました」


フレンが先ほど部下から報告を受けた内容は、帝都に向かっていた商人を魔物が襲ったというものだった。…それだけなら日常的に起こりえることだが、今回は違う。
『魔女』と噂されている女性が魔物の群れの中にいるのが目撃されているのだ。商人を護衛していたギルドの人間も証言していたため、間違いはない。『魔女』が魔物に何かを語りかけていたのだと言う。あくまで遠くから眺めただけだという報告だが、聞き流すわけにもいかない報告だ。
『魔女』が魔物に人を襲わせているという報告はここ数週間で急に増えていた。少し前までは噂だけで納まっていたものが、取り返しのつかない事態にまで発展しているのだ。


「…確かにそれは、見過ごすわけにはいきませんね」
「はい。つきましては、騎士団とギルドの合同でその魔女の探索…および撃退を決行いたします。陛下にはそのご報告を」
「分かりました。騎士団のことはあなたに任せますよ、フレン。…ですが、出過ぎた真似はしないように。始祖の隷長である確率もあるのですから」
「はっ」


皇帝であるヨーデル直々の言葉に、フレンは頭を下げてその場を退室した。
確かに謎に包まれた『魔女』の存在だが、情報がなにもないわけではない。少なくとも、この帝都周辺にいるというのは確実なことだろう。急いで騎士団をまとめなければならない。ギルドにも協力を要請するため、レイヴンの力も借りなければ。
フレンは城の広い廊下を突き進む。前だけを見ている彼の強い瞳は騎士団長に相応しいものだった。


「…平和が訪れても、問題はやはり起きてしまいますね」


そんなフレンが退室し、問題がまた増えてしまったことに頭を抱えるヨーデル。
皇帝に即位して二年。自分がその名にふさわしい人間になれているかどうか、彼自身にはまだ分からなかった。もちろん皇帝の仕事も生優しいものではなく、帝国だけでなくギルドにも目を向ける体制を整えきれていない。昔ほど険悪ではないが、やはり評議会ともうまくやれていないのだ。
世界を救った功労者の一人としてフレンが正式に騎士団長に就任してもその流れは変わらない。旧騎士団本部の事件が表に出た今、評議会は昔ほどの力を持っていないのだ。だからこそなのだろう。陰口としてあらぬ噂を立てたがる評議員が多い。これは本格的に貴族制度を見直す必要があるだろうか。ヨーデルは毎日のように頭を抱えていた。


「私もこの剣に、相応しい皇帝にならなければ」


部屋に飾ってある秘宝の剣を眺め、ヨーデルは自分を落ち着かせるように深呼吸する。
もし、数年前までこの剣の持ち主であった男が皇帝になっていたら、もっと帝国を平和にできただろうか。冷静沈着であった彼だったなら、より良い帝国にできただろうか。
皇帝家の遠縁とされるバンタレイ家。この話が本当ならば、本来この部屋にいるのはデュークであったのかもしれない。
…弱気になっている自分を戒めるように、台座に鎮座している宙の戒典に触れる。剣がからきしである自分がこの剣に扱うことはないだろう。…ここで秘宝として飾られているより、使われた方が剣として幸せなのだろうか。そんな答えの出ない考えを巡らせていた。
――その時、


「……っあ…」


ヨーデルの宝石のような蒼い瞳が、零れ落ちそうなほどに見開かれた。
目の前が急にチカチカと白く点滅し、妙な頭痛がする。あまりに大きな眩暈にヨーデルはそのまま膝を折った。突然の痛みに背中を丸め、荒くなった呼吸を整えようとする。
――見開かれた目は、そのままだった。
側近が見たら卒倒するような様子で、ヨーデルはひたすら呼吸を整えようとする。こんな持病を持った覚えがない。あまりにも突然の出来事。必死に、自分を落ち着かせようとした。


「う……、あ…っ」


必死に整えようしているのに、呼吸は乱れる一方だった。
そこでやっとヨーデルは気が付く。自分が叱られた子供のようにボロボロと涙を流していることに。
こんなに泣いているのだから、呼吸が乱れてしまうのも当然だ。…何故、こんなに涙があふれてくるのか。ここ十年は一度も泣いたことなどなかったのに。
こんなところを誰かに見られでもしたら、皇帝としての威厳は地に落ちてしまうだろう。ヨーデルは涙を流しながら、必死に瞼を抑えた。…しかし、この涙は簡単におさまってくれそうにない。なぜなら、


「―――リク、」


自分が今まで忘れていた一番大切なことを、思い出したからだった。
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