ザーフィアス城の頂上、御剣の階梯から眺める景色は、二年前に見たあの光景とは正反対のものだった。あのときは異常に発生してしまったエアルが帝都を包み込み、視認するようになった赤いエアルが帝都の植物や魔導器(ブラスティア)を可笑しくしてしまっていた。住人の悲鳴が響き渡り、街に似つかわしくない魔物が荒らしまわる。…とても見下ろす気にはなれなかった。
現在の皇帝ですら、よほどのことがない限りここには来ないだろう。そして、その皇帝が認めた者しか自由に立ち入ることができないこの場所に、ユーリは足を踏み入れていた。ユーリ自身も、ここにはよほどのことがないかぎり立ち入らないが、不本意ながら最近はここによく来るようになった。


「…そんなところにいると、また風に吹き飛ばされるぞ」
「今日はそんなに風強くないから大丈夫」


ユーリがここに来るようになったのも、リクがよくここに来るようになったからである。
部屋を訪ねればいなくなっている彼女に最初は声を上げてしまいそうなくらい驚いた。あやうく大事になりかけたが、彼女に寄り添い続けているシルフが楽しげにここにいると教えてくれたのだ。それ以来、彼女の姿が見えなくなったと思えば、ここにいる。車椅子を卒業してからは特にその回数が多くなった。
相変わらずリクには自覚がない。二年もの間一人きりでいたせいか、声をかけるということを忘れてしまったようにも思えた。
ザーフィアス城の頂上という高い場所のせいか常に風は強い。その風に煽られ、車椅子ごとリクが転倒してしまったこともある。――…けれど、そんな状況になっても彼女は笑っていた。何故だか楽しそうに。一人で出歩いたことを時も怒ったときもそうだ。こっちは真剣に怒ったというのに、彼女は笑って謝る。


「(怒られるのも二年ぶりってか)」


リクはこの場所が好きらしい。帝都だけでなくここからなら海も見渡せるからだ。
この御剣の階梯はザウデを起動させるための魔導器がかつてあった場所のためか、ザウデがあった海まで見れるようだ。今は深海に戻ってしまったためか正確な位置を確認することは出来ないが…。


「あの巨大獣(ギガント)はね、友達なの」
「ん…?」
「お城に一緒に乗り込んできてくれた魔物」
「ああ…あのおっかねぇヤツ」
「性格はそれほど獰猛じゃないんだよ。むしろ人間には友好的で…一番最初に仲良くなってくれた巨大獣なの。本当なら巨大獣って長い年月を生きてるから気難しい子ばかりなんだけど」


リクは今、自分の足で立ち、ここから見下ろせる帝都の光景を楽しんでいる。未だに普通の速度で歩くことはできず、完治とまではいかないが。
ここまで回復するのにかかった時間は、たったのふた月だった。彼女の足の怪我は相当なもので、元のように動かせるのに一年はかかるだろうと言われていたのにも関わらずだ。
――この回復の速さは、彼女が人間ではなく、始祖の隷長(エンテレケイア)だからなのだろうか。


「ね、ユーリ」
「ん?」
「手、握って」
「…昔より甘え上手になったな、お前」
「ふふふ、そう?」


デュークと共にエルシフルの精霊化を果たして以来、リクの笑顔が曇ることはなかった。あれから大勢の友人と再会し、レイヴンのときと同じような叱られ方を何回もしたというのに、リクが泣くことはなかった。それは、彼女が感情を抑え込んでいるからというわけではない。心の底から喜んでいるからこそだろう。
『甘える』という方法をやっと覚えたのか、それとも怪我のせいなのかは分からないが、リクはよく他人を頼るようになったとユーリは感じていた。それは彼女が意図的にやっているのかどうか定かではないが、良い傾向だと素直に思う。
笑顔でいるリクに釣られるようにユーリも微笑み、彼女の願い通り、差し出された手を握りしめる。





「―――ユーリは、私のこと思い出してないよね」





思わず離しそうになった手を、許さないとでも言いたげにリクは強く握りしめた。
ユーリの見開かれた瞳が、隣のリクへと向かう。彼女はしばらく帝都を眺めた後、ゆっくりとユーリへと視線を映した。
責めるわけでも、問いただすわけでもない視線。いつもと同じ微笑みを浮かべているリクに、ユーリはどっと溢れ出た冷や汗が引いていくのを感じた。
そして強張った顔も徐々に緩み、やがて観念したとでも言いたげに溜息を吐き出した。


「…いつからだ?」
「最初は分からなかったけど、三日後くらいには」
「そんなに早くか? …さすがだな。二年も離れたっていうのに」
「この二年、みんなとの思い出だけで生きてきたから」
「…きっかけは?」
「…私も、思い出したから。――ユーリが、死んでしまったこと」


今まで少しも曇らなかったリクの表情が、久しぶりに悲しみに歪む。
ユーリの手を握るリクの手がさらに強くなる。言葉を選んでいるのか、リクの視線は泳ぎ、口を開閉させていた。
語ることを戸惑っている彼女の様子に、ユーリは、彼女を救出したときのことを思い出した。




クロノスと共に辿り着いたザウデの最深部には、リクの目的であったと思われる巨大な魔物の死体と、広間の出入り口付近で倒れている『もう一人のクロノス』。――そして、気を失っているリクを守るようにして抱え込んでいる『もう一人のユーリ』がいた。
『もう一人のクロノス』は、クロノスと顔を合わせたと思うと何故かふっと微笑みまるで幻であったかのように跡形もなく消えていった。クロノスはその様子を見て何もかもを察したようだった。
そしてユーリは、もう一人の自分と向き合う。…腹部に穴が開き、左肩は目を反らしたくなるほど裂けている自分と。ひと目で助ける方法がないと分かるほどの重傷。…いや、もう絶命しているのだろう。もう一人の自分が動く様子はなかった。
まさか自分自身の死体を見ることになるとは思わなかった。ユーリは呆然と喉を鳴らす。気味の悪い光景にしばらく足を止めてしまっていたが、もう一人の自分に抱えられているリクもよく見たら酷い怪我だった。微かだが肩は動いている。息をしている。ユーリは"自分"から意識を移し、リクの様子を見ようと彼女に触れたその時だった。


「――二度と離すな」


リクに触れようとした手を、もう一人の自分に掴まれる。
しかし、ハッとユーリが身を強張らせたときには『もう一人のユーリ』は『もう一人のクロノス』と同じように消えていた。
その瞬間は、幻を見たのだろうと思っていた。消える前、もう一人の自分は確かに絶命していた。たとえもう一人の自分がいるという奇妙な状況だとしても、死んだ者が再び言葉を発することはない。……ない、はずだ。
けれどユーリは怪訝な表情のまま、掴まれたような気がした自分の手首を見つめる。――そこにあったのは、乾いた血の手形だった。
そしてユーリは、どこからともなく勝手に頭に浮かんできた光景を見て、この場に起きている奇妙な状況の理由を理解した。


「……離すかよ、二度と」


もう一人の自分が何故ここにいたのか。何故、命を失ってしまったのか。
自分の手首に残る血の手形を見た瞬間、それを理解したユーリは消えてしまった自分が最後に残した言葉に、強く返答する。
軽く息を吐き出した後、ユーリはすぐに気を失ったままのリクを抱き上げ、そのまま地上へと戻っていった。




「お前を助けられなかった未来のオレは、そのショックでお前を思い出してた。…けどオレは、お前を助けることが出来た。思い出すきっかけを失くしちまったわけだ」
「…うん」
「だから正直、オレはお前の知ってるオレだとは言えない」


この二年で伸びてしまったリクの髪と、変わらないユーリの長い髪が風に靡く。
ユーリはこの事実をひたすら隠してきた。仲間たちにも、リク自身にも。やっとここまで生きることを選択してくれた彼女を、また絶望のどん底に落とすことはしたくなかったからだ。


「…でもユーリは、今こうして私の手を握ってくれてる。それはどうして?」
「記憶は確かない。けど、お前を離したくないって気持ちは何故だかずっとある。…オレは根っからお前に惚れてたんだろうな」


だからお前を探し続けていた。名前も分からないお前を。
リクに敵意を向けられたときは戸惑い、リクを思い出せない自分に失望し、リクが死ぬ気であると知ったときには、足が竦むくらい目の前が真っ暗になった。
記憶はないはずなのに、ユーリはリクに対するその想いがどんなものであるかが分かっていた。…もう一人の自分と出会ったその瞬間に、その気持ちは確かなものになる。


「記憶がないのに、お前を好きだって言ってるオレは可笑しな奴か?」


誰よりも、そのことに戸惑っているのはユーリ自身だろう。
リクを取り戻した後のこのふた月は自分でも驚くぐらい穏やかな気分でいられた。リクが笑えば嬉しいし、その肌に触れれば胸が熱くなる。まるで未成年の甘酸っぱいそれのように、ユーリはずっとリクの隣に居続けていた。
記憶がないことを黙っていたのは、そんな日々が幸せだったからというのもあるかもしれない。記憶がないと知れば、彼女は自分を避けてしまうと思っていたから。


「…正直言うとね、ちょっと戸惑ってる。私のことを思い出せてないってことは、私を好きでいてくれる理由も分からないってことだから」
「……」
「でも、更に正直なことを言うとね…すごく、嬉しいの。記憶がなくても、私を好きでいてくれるなんて」


泣きそうな顔をしているユーリの頬に触れる。風が強いせいか、彼の頬は冷え切っていた。
ユーリは涙を流さない。強い心を持っているから、簡単に涙を流すことは出来ないし、その方法も忘れてしまったのだろう。
リクは微笑み、両手でユーリの頬を包み込む。…自分を夢から覚ましてくれたユーリがしたことと同じことを彼にする。


「そんな顔しないで、ユーリ。一生思い出せないわけじゃないんだから」
「…こんな状況になっても思い出せないんだぜ? 思い出すのは絶望的だろ」
「あれ、もしかして自覚ないの?」
「は…?」
「ユーリは私のこと、思い出し始めてるよ。だって私に言ってくれたじゃない」


「最初から言えば良かっただろ。さっきみたいにちゃんと『助けて』ってよ。そうすればオレは…お前がどこにいても助けに行った。…言っただろ。必ず見つけ出すって」

「…謝るのはお門違いだろ? お前、あの時の行動を後悔してるのか?」


「あ…」
「…ね。だから大丈夫」


無意識だった。自分は、そんなことを口にしていただろうか。
確かに口にしたと覚えているのに、その言葉が自分のどの記憶から来たものなのかが分からない。今まで無意識に口にすることはあっても、すぐに気が付いたはずなのに。…今回は、リクに言われるまで気付きもしなかった。
考えてみれば、今まで仲間たちに違和感を持たせることなく記憶がないことを隠し通せたのもおかしな話だ。彼らに嘘はつけない。嘘をついていたとしても、ジュディスやレイヴン、そしてフレンあたりにはバレてしまっていただろう。けれど、それすらも隠し通せたのは、無意識にユーリが記憶を取り戻していたからだといえば説明が付く。
…けれど、何故突然? リクと再会しても、仲間たちに説明を受けようと記憶は戻らなかったのに。ユーリの泳いでいた視線が、目の前のリクを見下ろす。――ああ、そうか。やっぱり…


「…全部、お前のおかげか」
「え? なに――うわっ…!」


自分の頬に触れていたリクを、ユーリは抱きつぶす勢いで抱きしめた。
くすぐったいよ、と耳元で笑うリクの声が心地よくて、ユーリはそのまま瞼を閉じる。
…本当だ。忘れていたのが嘘のように、リクとの思い出が瞼の裏で再生された。
そもそもユーリがリクを忘れてしまった大きな原因は、目の前にいる彼女を救えなかったことにある。守りたかった彼女の笑顔を失ってしまったことにある。
けれど今は、その全てを取り戻した。リクをこの手で救い、こうして笑顔を取り戻すことが出来た。――会うだけでは駄目だったんだ。彼女がこうして、自分の隣で笑ってくれなければ。


「…リク」
「なに?」
「ずっと考えたことがある。オレたちがこうして助けて、怒って、守ってもお前はまた他人の為に自分を投げ出す日が…絶対また来る」
「…ユーリ」
「お前は他人の不幸を見過ごさない。何かと理由をつけて無茶するなんてしょっちゅうだろ?」
「何も言い返せないけど…」
「だろうな。…だから考えたんだ。どうしたらお前が無茶しないようになるか」


抱きしめた身体はそのままに、ユーリは戸惑った顔しているリクの顔を見下ろす。…何故だか、風の音は聞こえなかった。


「――結婚しようぜ」
「……え?」
「家庭を持てば、自分の身が自分だけのものじゃないって分かるだろ」
「は…いや、あの……え?」


みるみるうちに赤くなっていくリクの顔を、ユーリは楽しげに見つめていた。
甘え上手になったリクは、昔なら"赤面していた行為にも笑顔で受け入れるようになっていたため、この反応を見るのは本当に"久しぶり"だった。
視線を泳がせたリクは予想外のプロポーズに返事を探す。勿論ユーリとなら答えは決まっているのだが、結婚という現実的な単語が出た瞬間、言葉が詰まる。


「…ユーリ、私はもう正真正銘の始祖の隷長で…」
「勿論、知ってる」
「だったら分かるでしょ? け、結婚したとしても私は…」
「オレもお前のこと、全部思い出せてねぇし…お互い様だろ」
「全然お互い様じゃないよ! 見どころが全然違う!」


リクはすでに始祖の隷長として生まれ変わったも同然の存在だ。今まで接してきた始祖の隷長たちと同様、常にエアルの安定を心掛け、世界を守り続けなければならない。身体も見た目は普通の人間と変わらないものの、中身はまったくの別物だ。
確かにユーリがそう言ってくれるのは心から嬉しい。けれど、彼とは生きる世界が違う。世界の危機はもう過ぎ去った。…やっと世界のことを考えずに生きていけるのに。
リクの視線は泳ぐ。前のように始祖の隷長になって絶望することはないし、彼らに覚えてもらえれることが出来て良かったとも思っている。彼らと一緒にはいるつもりだ。しかし、必ず別れるときがくる。


「未来に不安なことがたくさんあるのは当然だ。まだ起きてない未来だしな。…それに、もうクロノスはいない。オレたちの未来について助言してくれる奴はもういないんだ。…それがどういう意味か分かるだろ?」
「…うん」
「オレたちが生きてるのは今だ、リク。オレは今あるこの想いを忘れたくない。その瞬間に思ったことをなかったことにしたくない」


不安げな顔したリクを、ユーリはまっすぐ見下ろしていた。陽の光が彼の瞳を、キラキラと輝かせているように見えた。
クロノスはもういない。いなくなってしまった。私を救うために。目を泳がせていたリクの瞳は濡れる。彼女という時の精霊がいなくなってしまったことで、過去にも、未来にも固執する必要は確かになくなった。
あの旅が終わったことで、リクの知る未来はもうない。"現在"を、やっと生きることが出来るのだ。


「…リク」
「……」
「答えは?」


リクは瞳はまだ迷ったように泳いでいる。
未来でも過去でもない。こうして悩んでいる一瞬、一瞬が"現在"であり、過去になっていく。…そうだ。"今"は一瞬しかない。全てがあっという間に過去になっていく。
リクが今悩んでいることも、考えていることも、その気持ちも、全てが過去になってしまう。……この気持ちは、想いは、"今"にしかない。
自分を救ってくれたクロノスが願ったのはリクの幸せだった。レイヴンもリクの幸せを願うと。リクの頭の中で大切にしている記憶たちが次々と再生される。大切な人たちの願いは私が周りの気持ちに背を向けないこと。――私が幸せに…なること。
願望はある。自分のやりたいこと。やりたかったこと。この二年で随分と溜まってしまった自分の幸せな夢。叶うことはないと諦めていた願い。自分自身見捨てた希望。――もう一度、拾い集められるだろうか。夢を現実にしてもいいだろうか。


「……私も、今あるこの気持ちを…ユーリとずっと一緒にいたいって気持ちをなかったことにしたくない。…だから、」


自分の胸に顔を寄せたリクの震えた背中ごと、ユーリは抱きしめる。
二年前、リクは助けてと素直にユーリたちに言うことが出来なかった。夢を見ることを諦め、自分自身の気持ちを切り離してしまったのだ。
でも、今は。この瞬間だけは。


「リク。今までの不幸が霞むくらい幸せにしてやるから覚悟しとけ」
「…もう霞みかけてるよ」


額を合わせた二人は、お互いに瞳を潤ませながらも笑った。
この先に困難が待ち受けているであろう未来でも悲しい記憶と楽しい思い出が詰まった過去でもない。確かに過ぎていく"現在(いま)"を二人は生きていく。
互いに身を寄せ合いながら、二人は笑う。確かにあるこの温かさを二度と離さないために、固く手を握り合った。



世界一幸せになった少女の話。
(ずっと諦めていた幸せを、今)
20160111 END

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