目を開いた瞬間、私は自分に置かれた状況を理解した。
目の前に飛び込んできた豪華な天蓋と、赤と金色に装飾されたカーペット。やたらと大きい窓からは白いカーテンの向こう側に青空が広がっている。
…ああ…私、生きてるんだな。
ずっと眠っていたらしく、身体はだるいままだ。両手を見ようとして、左腕が異様に重いことに気が付く。両腕包帯だらけだったけど、どうあら左腕は特に怪我が酷いらしい。がっちりとバンドのようなもので固定されてしまっていた。


「気分はいかがですか、リク」
「…妙に、すっきりしてるよシルフ」


あまりにも重い身体に動かすことを諦めて、私は真上にある天蓋を眺めた。そんな私の視界に入ってきたのは、見慣れた精霊の姿。もう会うこともないだろうと思っていたけれど、随分とあっさりな再会だ。


「落ち着いているのですね」
「…うん。想定外なことだらけ、なんだけど…」


他の精霊たちも、人影も見当たらない。まるきり私とシルフだけの部屋のようだ。
…ここはお城の一室と見てまず間違いないだろう。まだ外の景色を全部見れたわけじゃないけど…こんなに広くて豪華な部屋は早々ないはずだ。
大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。身体中動かないし、ところどころ痛むけれど、ちゃんと生きてる。――…私は、生きてるんだ。


「…リク、あなたはもうこの世界の異物ではありません」
「…うん」
「…クロノスが、その命を以てそれを証明してくれました」
「……うん。…うん…」


私が今、妙に落ち着いていられるのはきっと、そのせいでもあるのだろう。
姿は見えずとも、常に傍にあったクロノスの気配がまったくない。この世界に来てからずっと一緒にあった彼女の存在が、なくなってしまっている。
あれは夢だったのか、ただの幻覚だったのか分からない。けれど確かに、彼女の青い光が途絶えてしまうのを感じた。それが私の為だということも。…彼女に一番させたくなかったことを、私はさせてしまったのだ。
彼女がどんな方法をとったかは分からない。きっとシルフに聞けば答えてくれるだろう。けれど聞いたところで、私はどうするのだろう。彼女を助けられるだろうか。私を助けるためにいなくなってしまった彼女を、私がまた助けて……――そうか。私が今までやってきたことってこういうことなのか。


「…私は、これからどうしたらいいと思う?」
「それはあなたが決めることです。…分かっているでしょう?」
「…なにかもに目を背けて、切り捨ててきたから…今更……」


…違う。私はまだ。目を背けているだけ。
彼らに会うのが怖いだけ。クロノスを犠牲にして、ここに立っている罪悪感に押し潰されているだけ。
二年前にしてしまったこと。ザウデに向かう前にしてしまったこと。背を向け続けてしまったこと。たとえみんなが笑って許してくれたとしても、私は私を許せないままだ。その為の償い。その為の二年間。その為の…命だったはずだ。何もかも投げ捨てて命をかけたのに、今更どうしたらいいのだろう。


「投げ捨てたのならば、また拾えばいいのです。…あなたにはまだそれが出来る」
「……」
「…ユーリ・ローウェルたちはあなたの答えを待っていますよ」


シルフはそう優しく囁くと、空気に溶け込むようにその姿を消した。
私がどれだけ眠ってしまっていたのかは分からない。分からないけれど、ユーリたちは敢えてシルフを私の傍に置いてくれたのだろう。
――二年間、まともに話してはいない。みんなは私のことを忘れていたから、それはしょうがないことだ。だからいくらみんなだとしても、私はちゃんと顔を見て話せる気がしない。短いようで長かった二年間。みんなはどうか分からないけれど、私には十数年にも感じた二年間。精霊や魔物たちとしか面と向かって話していない。二年前のことの罪悪感を抜きにしても、私は声を出すことが出来るのだろうか。
…みんなの前に出るのが怖い。話すのが怖い。オーマを前にしても、どんな大怪我をしたって怖くなんてなかったのに。
しばらく瞼を閉じ考えた後、私はやっとの思いで身体を起き上がらせる。…たったそれだけのことでさえ、何故だかとても懐かしく感じた。
この部屋に鏡はない。けれど、包帯だらけの自分の姿は酷いことになっているだろう。ベッドを抜け、足を絨毯に付けたところで、私は違和感の正体に気が付いた。


「……そっか。足…酷かったもんね」


足は痺れて痛み、とても立って歩けるような状態ではなかった。
そこでやっと思い出す。私がオーマとの闘いで負っていた怪我を。あの時はそんなことを気にしている場合じゃなかったから、あんまり見ないようにしてたけど…。
――情けない。率直にそう思った。世界を救う? オーマを倒す? 大口を叩いておきながら結局、何もできなかったじゃないか。まともに足も使えないなんて。
なんだか無性に悔しくて、情けなくて、私は無理矢理足を動かした。しかし立とうとした足は、膝から簡単に折れてしまう。ちらりと動かない足を見れば、白い包帯からは僅かに血が滲んでいた。私はそのまま、治癒術を施す。しかし全快ではないせいか、いつもの効力はなかった。
私はそれで諦め、両手を使ってなんとかベッドに戻る。…どうやら支えがあれば立てるらしい。無駄に立派な天蓋付きベッドの柱を杖代わりにして、やっと立ち上がることが出来た。…それでも、生まれたての小鹿みたいに足は震えてるけど…。
今まで当たり前に出来ていたことが出来なくなる。その現実に、私は背筋が凍りついた。この足で生きていくことは出来るだろうか。…少なくとも、この城から誰にも見つからずに出ることは適わなそうだ。


「お前はもう世界のことなんて考えなくていい。…もう、他人の幸せじゃなくて自分の幸せを望んでいいんだ」



夢だったのか現実だったのか。未だにあのときの記憶ははっきりしていない。けれどあの中でユーリは確かに、そう言ってくれた。
私が私の幸せを望む。…そんなこと、考えたことなかった。だって、みんなの幸せが私の幸せだった。…そのはずだった。みんなが幸せならそれでいいって私は思ってた。だから二年前だってあんな行動をしたのだから。
けれど、実際はそうじゃない。それは私が一方的に満足はしていても、幸せにはならなかった。納得のいく答えだったのに、幸せかと聞かれれば答えはノーだ。…幸せだとずっと自分に言い聞かせてきたけれど、そうはいかなかった。
幸せだと思っていたなら、私はここに生き残っていない。クロノスだって私を助けなかったはずだ。
無意識に流れだした涙が包帯に包まれた腕に零れ、やがて豪華な絨毯に落ちた。…泣いてどうなるというわけじゃない。答えを出すのは私自身なのだから。
この二年。ずっと一人でやってきたじゃないか。今更辛いだなんてことはないはずだ。私は、独りで大丈夫。独りで…。


「………けて…」


けれど涙は止まってくれない。足もとうとう限界がきて、無様に膝から崩れ落ちてしまった。自分の意思とは関係なくボロボロと流れる涙が、絨毯の色を変えていく。
足は動かない。左腕もほとんど動かない。視界でさえほとんど包帯で覆われてしまっている。私は背中を丸め、ただその虚しさに耐えた。
――独りぼっちは寂しい。話す相手がいないというのは虚しい。誰にも覚えられないのは苦しい。独りで戦うのは怖い。先のない未来を歩き続けるのは拷問に等しい。


「……たすけて…だれか…」


寒くもないのに震え出した身体を抱きしめる。
いつも傍にいてくれたクロノスはもういない。私の存在は、もう誰にも左右されない。それは喜ばしいことのようで、そうじゃない。自分の知らないことを一人でこなしていくのは難しい。


「…ああ、傍にいるよ。――最期のその先も」


「助けて…ユーリ…っ!」


たとえ足が動かなくても。たとえ目が見えなくなったとしても。独りじゃなければ…彼がいてくれるならきっと大丈夫。
ずっと会いたくて、一番守りたい人。私が誰よりも信頼している人。二年前までの旅だって、みんなに忘れ去られたあとだって、彼がいてくれたから…彼との思い出があったからこれまで保つことが出来た。
自分の口から自然と零れた言葉がユーリの名前だなんて。返事が来るわけでもないのに…。


「――最初から、そう言えば良かったんだ」
「え…」


その瞬間、私の腕は誰かに強く引かれた。それと同時に自然と上がった目線に、夢と同じあの顔が映る。私を呆れた表情で見下ろしている、懐かしい表情が。


「エステル、治療」
「はいっ!」
「まさかリクの足がここまで動かなくなってるなんて…あの医者、藪医者なんじゃないの!?」
「いや、皇族ご用達のお医者様だよ。とても優秀な方だ」
「ええ。足のことも気付いていましたよ。昨日の診察でも怪我のことと、筋力の衰えが心配だって…」
「ワフッ」
「だったら尚更ちゃんと診ていきなさいよ!!」


温かな光が、私の足を包み込む様子を目に捉えながら、私は目を丸くしていた。
みんながいる。私の目の前に。私をちゃんと見て、私のことを話している。…二年前と同じように、私の、前で……。
口を開こうとするけれど、言葉は嘘のように何も出てこない。喉が震えて、手も震えた。みんなが私を覚えてくれている。みんなが私を見つめている。それなのに、それなのに…。


「リク」


瞳が泳いでしまっていることに気付いたのだろう。
ユーリが、私の名前を呼ぶ。私は咄嗟に反応して視線を上げた。しかし彼の顔を見る前に包帯の上から小さな痛みが走った。……じ、地味に痛い…。


「――言うのが遅いんだよ、お前は」
「え…」
「最初から言えば良かっただろ。さっきみたいにちゃんと『助けて』ってよ。そうすればオレは…お前がどこにいても助けに行った。…言っただろ。必ず見つけ出すって」

「…っすぐに行く。手足千切れようが、エアルで身体が可笑しくなろうが、必ずお前を守りに行く。世界中どこに連れていかれても、必ずお前を見つけ出す!」


ユーリのその一言で思い出したのは、二年前のあの記憶。
いつも一人で思い出しては、悲しくなって泣いてしまっていたあの記憶だ。けれど今は違う。一人なんかじゃない。ユーリは私の目の前で、私に言ってくれている。――"昔のこと"を。私がいた頃の記憶のことを話してくれている。


「…わたしも、怪我をして泣いているあなたを治しに行きました」
「僕も、独りで抱える君を支えたよ」
「あ、あたしだって! リクの為にいくらでも力を貸したわ!!」
「ワンワンッ!!」


助けて。その一言だけ。
ユーリも、エステルも、フレンも、リタも、ラピードも。みんな同じ顔で私を見下ろしていた。二年前と変わらないあの優しい顔で。まるで二年前、私がしてしまったことなんてなかったかのように。


「わ、たし…」


やっと出た声は、自分でも聞き取れるかどうかわからないほど震えてて、笑えるほど小さなものだった。
ユーリたちの前で声を出した途端、またじわじわと目頭が熱くなってきて、情けなく涙が溢れてくる。
私は一度、みんなの想いを裏切った身だ。みんながしてきたことを…みんな気持ちを、記憶を、全てなかったことにした。全部世界が起こしたことだとしても、私はみんなの気持ちを無視して自分のやりたいことを貫いた。…怒られるはずなのに。…口もきかないほど、恨まれるべきなのに。


「ごめんなさいっ…!」
「…謝るのはお門違いだろ? お前、あの時の行動を後悔してるのか?」
「……それは、」
「してないんだろ。お前はお前の信じた正義を貫いただけだ。オレはそれを止められなかった。…それだけだ」


私の目線に合わせて、ユーリが膝をつく。…どこかで見たことのあるような光景だ。…そうだ。あの夢だか現実だか曖昧なあの記憶…。ユーリが私を見つけて、涙を拭ってくれたあの記憶と同じ…。
私の正義は、少なくとも災厄を打ち破るあの瞬間は…みんなにとって悪だったはずだ。阻止しなければならない事だったはず。だからみんなは、最後まで足掻いてくれていた。…けれど、みんなに申し訳ない気持ちはあっても、私はあの行動が間違っていたとは思わない。この二年間、本当に苦しいことだらけだったけど、あの決意だけは。あの行動だけは、間違ってなんかいなかった。…私は、そう思う。


「――まあ、そのことと今回のことは別問題だから、後々覚悟しておけよ」
「そうですよリク! わたしも、言いたいことがたくさんあります!!」
「ユーリはこう言ってるけど、あたしは二年前のことも納得してないんだからね! 二年分の説教があるんだから!!」
「バウッ! ワンワンッ!!」
「はは…みんな程々にね。……僕も色々と彼女に言いたいことがあるから。…色々と」


あんなに冷たいと思っていた身体が、とても温かい。
あんなに暗く見えていた青空が、こんなにも明るい。
相変わらず足は動かないし、身体は重いし、痛いところだらけだ。…でも、さっきみたいに怖いとは思わない。悲しいとも思わない。それは…それは、みんなが私の傍にいてくれているからだ。


「おかえり、リク」
「……ただいま…」


まだ震えている声は、みんなに届いているだろうか。
私と同じく涙目になっているエステルやリタ。そして、二年前と変わらず私が喋るのを待ってくれているユーリとフレン。
―――私の"日常"が、帰ってきたのだ。


「ただいま…っ!!」


一日がとても長かったあの日々も。
いつ死んでもいいと泣いていたあの夜も。
全部全部、溶けていく。温かい熱が氷を解かすように。

溶けた雪が、春を呼んだかのように。
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