「あなたは行かなくていいの? せっかく取り戻せたのに」
「…いや、いい。今顔を見ても、問題が解決しなければ元も子もない」
「冷静なのね。…それとも、一歩下がることを覚えたのかしら」


涙を溢れさせながらザウデ最深部の広間から出ていくエステリーゼたちの背中を見送り、今まで見守るだけだったアレクセイにクロノスは声をかけた。
封印がまだ未完成である状態の時点でなんとか術式の解析に成功したリタたちはザウデの地下に向かったというリクを追いかけた。
自分の身体が軽くなったのを感じたクロノスは、もう手遅れであることを知った。…しかし実際に辿り着いてみればまだ息のあるリクと、大きな刀傷によってすでに絶命しているオーマ。そして――…。


「クロノス。…今からあなたに残酷な提案をしなければならない」


アレクセイの低い呟きにクロノスの口端は上がった。
彼の言う通り、リクがこうして生き残ってくれたところで、彼女を覚えていられなければ意味がない。オーマが…世界のエアルを乱していた原因が消えた今、アレクセイたちが徐々にリクを思い出したように、再び徐々に忘れていこうとしているのだ。
…それだけはなんとしてでも止めなければならない。彼女のことを思い出してからというもの、アレクセイはそれだけのために研究を続けてきた。…そしてやっと見つけ出した答えは、苦肉の策としか言いようがないものだった。
アレクセイの呟きを聞いていた精霊たちや残っていたデュークは怪訝な表情を浮かべる。


「…私とユーリ・ローウェルがザウデの地下で見つけたのは何だと思う?」
「……何、とは?」
「死にかけたリクと、すでに息のないオーマ。…そして…もう一人の私」
「どういうことだ」


アレクセイの背後から、デュークが声をかける。その更に背後にいる精霊たちもクロノスを見つめていた。
――クロノスにはもう、全てが理解できていた。アレクセイがこれから自分にする提案も、これから自分の身に何が起こるのかも。全て。…それは、ザウデの地下で出会った『未来から来たもう一人のクロノス』が教えてくれたのだから。


「もう一人の私は、過去を変えに来た未来の私よ」
「…なんだと?」
「リクを救えなかった未来がすでに存在したということね」
「違う。論点はそこではない。…クロノス、お前が今までどんな状況になっても未来を見ることも過去に戻ることなどしなかった。それは……」
「ええ。それは…"現在"の時間を、世界を消してしまうからよ」


時の精霊クロノスはその能力があるのにも関わらず、今まで大きな時の操作をしたことがなかった。それこそ、二年前デュークとの闘いでリクのために時を数秒止めただけだ。それ以降、時の操作は一切行っていない。
精霊になったことで始祖の隷長(エンテレケイア)のときよりも大きな能力…時を自由に操れる力を手に入れられたのは確かだった。けれどそれと同時に、クロノスはその能力が恐ろしいものだというものにも気が付いていた。
時を戻すことも、未来を見ることも精霊になったクロノスにとっては容易いことだ。けれどそれをしなかったのは"現在"に多大な影響を及ぼしてしまうからだ。


「特に時間を戻すということは…すでに起こっている『現在』をなかったことにすること…過去に戻ったその瞬間『現在』であった世界は消えてしまうの。逆もまた然り…まだ起こっていない未来を未来を見るのだから無から有を作り出すようなものよ」
「…精霊に転生したことによって時の操作がより正確になったことによるデメリットか…」
「ええ。正確な時の操作ができるようなったけれど、簡単に世界の概念を消してしまうような能力よ。…使えるわけがなかった」


――けれど、リクを救えなかった未来にいたクロノスはその能力を使った。だからこそ、リクはまだ生きている状態で救出され、クロノス自身もここに立っている。
それはつまり、未来のクロノスがそれほどの覚悟をもってリクを助けたということだ。未来の世界を消してまでも、リクが救われることに賭けた。あれほど世界を優先していたクロノスが…リクの言葉にただ従っていたクロノスが、彼女の意思に反して時を操作した。
時の概念を超えて、世界を消すことになってしまっても。


「私たちが辿り着いたその瞬間に、未来の私は姿を消したわ。…未来の世界が消えたからでしょうね。『未来の私』の存在はなかったことになった」


未来には未来の時間があった。世界があった。けれどそれが、クロノス個人の独断で全てなかったことになったのだ。――時を操るとは、こういうこと。


「…だから、私はなんでもするわ。リクが生き延びてくれるならなんでも。それが未来の…私自身が出した答えなのだから。リクだけが、世界に…私に残された最後の希望」


もう奇跡はいらない。精霊たちはリクがザウデの地下に向かう直前、そう呟いていたことを思い出していた。二年前に仲間たちが起こした奇跡を、自分が絶望に塗り替えてしまったからこそ、自分を戒めていたのだろう。…けれど、こうして奇跡はもう一度起こった。――彼女自身が新たな希望となって。
この世界がありのまま存在するためにも、リクの存在は必要不可欠だ。エアルが乱れたことがなかったとしても、ユーリたちはその違和感からリクに辿り着いていたことだろう。リクの存在がこの世界自身に否定されていようともそれは"事実"。
声高にそう語ったクロノスは改めてアレクセイに向き合う。彼が言おうとしていることも、クロノスには分かっていた。


「――私という存在をリクに明け渡すわ」
「…っクロノス!?」
「私の聖核(アパティア)がリクの存在をこの世界に定着させていた。それは確かでしょう。ならもう一度私が彼女をここに留めればいい。…そうでしょう、アレクセイ・ディノイア」
「……君たちの研究をして辿り着いた答えは…"アウラとリクは同時に存在できない"ということ…」


答えを求められたアレクセイは重い口を開き、彼女たちのことを語り出した。
世界は、異端を嫌う。そこにあるはずのないもの。あるべきでないもの。人間のそれと同じように、異物は簡単に排除されてしまう。しかし、それが『世界の理』だというのなら、精霊たちや魔物たちがリク覚えているのは何故だろう。エアルのことがあったとしても、リクが消えずにこの世界に留まれているの何故だろう。そこには言葉で説明できる理論では到底説明できない世界の力が働いているはずだ。だからこそ、リタがリクをこの世界に留める方法を見つけたその瞬間、先が見えていたはずのリクは心から驚いていたのだから。
世界に排除されるということが存在を認識される、ということならば彼女は精霊や魔物を含め全てに忘れ去られ、この世界に置き去りにされているはずだ。けれど、そんな最悪の事態にならなかったのは――。


「あなたがいたからだ、クロノス。あなたはずっと聖核となってリクと一体化していた。まるで存在がすり替えられたかのように。世界は、リクをあなただと錯覚していたのでしょう」
「…"異端"の席は世界で一つだけ。そういうことか」
「魔導器(ブラスティア)を通じてリクの存在をこの世界に留めておけたのも、そうやって世界があなたの魔法にかかっていたからだ。世界というのは、もはや強制力と言ってもいい。我々にはどうしようもできない運命、概念、理、因果律…とにかく言葉では言い表せんが…クロノスの能力を見ても、彼女だけがそれに干渉できる存在だというものは分かっているだろう」


アウラがいなかかったからこそ、リクはこの世界に居座ることが出来た。
けれどクロノスとして転生を果たした今、世界にとってリクは排除すべきものでしかない。けれどそれが不完全な排除となっているのは、今も昔もクロノスがリクに寄り添っているからだろう。
世界の概念など、クロノスは考えたことがなかったことだ。自分の命を引き換えにしていたことがこうもうまく結びついていたなどとクロノスは初めて自覚した。
クロノスにはリクを隠すために世界の理を騙すことができる。けれどリクにはその力はない。…そして今、リクはたくさんの人間から必要とされている。クロノスはゆっくりと瞼を閉じる。


「けれど、そうやってクロノスの存在を明け渡しても、リクの記憶を留めさせることは別問題でしょう? あれは本当に魔導器を通じて人間たちに運んでいたものですから…。世界に存在が許されたところでリクは…」
「いいえ、シルフ。魔導器ならここにあるわ。…全世界に影響を与えられるとびきり大きいものがここに」


クロノスの言葉に、精霊たちはやっと彼女とアレクセイが辿り着いた"答え"を察することが出来た。
全世界に影響を与えられる、大きな魔導器。自分たちが立っているこの場所から、クロノスは開けた上空を見上げる。――空に浮かんだ災厄を遠ざけるためだけに作られたザウデ不落宮。世界を結界で覆うための魔導器。千年以上世界を守り続けた魔導器がここにある。
…オーマが現れてくれたのはある意味で朗報だったのかもしれない。ザウデのシステムがまだ生きていると、彼の身を以て知ることが出来たのだから。


「二年前、あなたがリクにやったように…私も、ザウデのシステムと一体化するわ。…そして、彼女の存在を世界中に発信してこの世界に留める。…これでもう、リクが独りで泣くことはない」


今はここにいない少女を想い、クロノスは嬉しそうに声を震わせる。
ザウデのシステムと一体化するというのは、彼女の全てをザウデに捧げるということ。二年前、アレクセイにリクにそうしたときのように、外からの命令なしでは動けなくなるということだ。そして、世界にリクの存在を留めておくとい役目はこれから先、ずっと必要になるもの。――つまり、精霊としての死を意味していた。


「そんな…! そんなことをして、リクが喜ぶと思っているのですか! 彼女はどんな形であれ、自分のための犠牲を絶対に許しません…! こんなことを彼女が知ったら、今度こそ立ち直れなくなってしまいます!」
「そうね。けれど私も、あの子が幸せにならない未来は許せないわ。…それに、今度は独りじゃないのよリクは。…彼らが付いてくれている」
「クロノス…っ! でも…っ! でもせっかくこうしてまた…会えたのに…!」
「ごめんなさい、シルフ。でもリクのためなの。お願い、私にリクを救わせて。…やっとあの子を笑顔にできるチャンスなんだから」


思えば、クロノスはリクとずっと一緒にいたというのに、彼女の笑顔を見たことがなかった。…正確には、彼女の前でリクが笑うことがなかった。今まで彼女にしてきたことを考えれば、その態度は当然のことなのだから、クロノスはそれに対して何をしようとも思わなかったし、咎めようともしなかった。
…けれど、まだ叶うのならば。出来るのならば、自分の力でリクを笑顔に…。


「…やはり、そなたとリクは似ておるな。そうやって自分の命を簡単に捨てられるところもそっくりじゃ」
「ありがとうウンディーネ」
「ウンディーネは褒めてなぞおらぬ。…呆れているだけだぞ」
「けれど私は、この行動を間違いだなんて思わないわ。後悔も懺悔もない。…だから、あとはよろしくねウンディーネ、イフリート」


クロノスは微笑む。リクの笑顔を見たことがないという彼女だったが、彼女自身も、転生してから笑ったことは数回しかない。良くも悪くも、リクとクロノスは一心同体であり、切り離すことのできない関係だ。リクが救われなければ、クロノスも救われることはない。
方法はもう分かっているのでしょう? クロノスはそのままアレクセイに問いかける。彼は静かに頷き、操作盤を展開させた。…こうしている間にも、リクに関しての記憶は世界から消えかけている。全てを忘れてしまう前に、全てを終わらせなければならない。


「…デューク。また、こんなお別れになってしまってごめんなさいね」
「…また、エルシフルに顔向けが出来なくなるな」
「そんなことはないわ。だって、彼もリクの魅力に惹かれていたのでしょう? …きっと、またしょうがないって笑ってくれるはずよ」
「相変わらず、自分勝手な思い込みだな」
「そうかもしれないわね…。だからこそ、彼の親友としてあなたは彼が守りたかったものを見届け続けなさい。そして、あの子をずっと見守っていて。…これまで通り、"それ"をずっと大切にしてね」


クロノスの微笑みに、デュークはただ黙って頷くことしか出来なかった。
最後に再びシルフの頭を撫で、クロノスはアレクセイの隣へと進み出る。


「…あなたは、一度世界を滅ぼしかけた。そして、リクをたくさん傷つけた」
「ええ。そのことに関しては私も、重々承知しています。…だからこそ、これから償っていくのです。私が死を迎えるその日まで。……彼女に見限られる、その日まで」
「…リクがそんなことをする子じゃないって分かってる癖に。でも、あの子にばかり甘えないでね。…またリクの笑顔が曇ることになったら…」


クロノスが言いかけたことが理解できたのか、アレクセイは苦笑を零した。そのまま術式を展開する。…なるほど。リクの為に研究を続けてきたというのは本当のようだ。クロノスから再び微笑みが零れた。


「あの子がこのことを知れば、きっと私をなんとかしようとするでしょうね」
「…そうでしょう。彼女の夢は、彼女の知る者全員が笑顔でいることなのだから」
「…だからね。私がシステムと同化して…無事にリクの存在を留めることが出来たら、お願いがあるの」


クロノスの周りを、アレクセイの術式が取り囲むように覆い尽くしていく。青い光が彼女を包み込む中、アレクセイはその小さな囁きを確かに聞き取った。


「ザウデを、元の場所に。――深海に沈めてほしいの」




***




――何故だかとても懐かしい気分だった。
今の私には、全てが見えている。ザウデのシステムと完全に一体化することが、こういうことだなんて初めて知った。
アレクセイの提案通り、私はそのままザウデと一体化し、その巨大な魔導器の力をリクのためだけに使うように操作をした。半分以上の力を失っていたはずのザウデを精霊の力で復活させるのには骨が折れたけれど…そんな私の苦労なんて、きっともう誰にも分からないだろうし、私には伝える手段がない。
…この方法が成功したのかは分からない。システムとなった今では、命令を聞いて動くだけなのだから、報告も何もできやしないだろう。けれど、こうしてザウデがは海底へ再び沈められているのだから、成功したと受け取っても良いのだろうか。…アレクセイが、私との約束を守ってくれたと、考えてもいいのだろうか。
海底に沈めてもらいたかった理由は三つほどある。まず一番重要だったのが、リクがこれ以上余計な事を考えないようにさせるため。優しいあの子なら、私のことをなんとかしようとするだろうけど、そんなことはもうさせない。だから彼女の手の届かない場所まで沈めてもらったのだ。二つ目は、ザウデに眠る満月の子たちを、静かな場所に送りたかったからだ。この二年で、ザウデは観光地のような場所になってしまったが、この調子じゃ余計なことをする輩も増えてくるだろう。ザウデの真実を知っているのは、結局デュークたちや精霊たちといった限られた者たちだけだ。だからこの神聖な場所を穢される前に…地上から姿を消したかった。最後の理由は、もう二度と、ザウデが誰かに使用されるのを防ぐため。すでにザウデは世界を災厄から守るという役割ではなく、リクをこの世界に存在させるという一瞬たりとも解いてはならない役目がある。アレクセイのときのように誰かに再び復活させられ、その機能を停止させられることは一番避けたい事態だ。

――もう、私の視界には何も見えない。何も見えないけれど、世界のエアルの流れが分かる。エアルがどこでどんな風に使われているのかも。私が精霊に転生できていたおかげで、マナの流れも。…これがザウデの力。世界中に影響する巨大な魔導器の力。
この目で景色を見ることは適わないけれど、世界がどんな動きをしているかはこのおかげでなんとなくわかった。…そうでなければ、私はリクをこの世界に留めておくことは出来ない。
全てが見えるようになって、もうどのくらい時間がたっただろうか。深海に沈んだのが昨日のこととも思えるし、もう数年前のことだとも思える。…私はよくも悪くも長く生き過ぎていたのかもしれない。精霊になる前は予知のこともあってか、時間間隔が正確なかったが、ザウデと一体化してそれがさらに加速したように思える。
けれど悲観はしていない。私はここで独りでも、悲しくはない。何故なら私にはリクの存在を留められているという実感があるからだ。私が彼女を覚えている。彼女も私を覚えてくれている。これ以上の幸せがあるだろうか。
何故だか、今は世界のために命を懸けたあの時よりも満足感があった。世界を救う…ということに具体的な結果が見えていなかったからだろうか。…それとも、救う対象がより身近なものになったからだろうか。
自分は身近なものを救いたいだけ。リクが言っていたことは、こういうことだったのか。


―――?


なんだろう。大きなマナの塊が海のそこへ…ザウデの元へやってくる。
…これはエアルではない。だから、地上に残されている宙の戒典(デインノモス)がザウデを呼び出そうとしているわけではないのだろう。…そもそも、私が完全にザウデと一体化した今、宙の戒典は本当にエアルを調節するだけのものになってしまったのだから。
では、こちらに近づいてくるものは一体何だというのだろう。感じることは出来ても、具体的な姿を見ることは適わない。システムと一体化した今は、自分から動き出すこともできない。
そして、とうとうこちらに到達したマナの塊は、信じられないことにエアルへと変化してザウデに溶け込み始めた。マナはエアルが物質へと変換される前の状態。…こんな真似は精霊ぐらいしかできないはず。…私を気遣って誰か来てくれたのだろうか。…そんなはずはない。だからこそ、彼らにも届かないほど深い深海へとザウデは沈んだのだから。


『…深海は、寒くて冷たい』


――声が聞こえた。もう何も聞こえないはずの"音"。
…私が感じるはずのないもの。


『君が良くても、私はこんなところに独りでいたくはないな』


愉快気に笑う声。
ああ、ああ…私はこの声をよく知っている。私が闇に飲み込まれそうになったとき、光にすくいあげてくれた声。私が一番よく知っている声。忘れもしない優しい声。私をずっと包み込んでくれたあの声。
――…大切にしてねって行ったのに…


『もう置いてけぼりは御免だよ。…これからは、ずっと一緒だ』


私は、なんて幸せ者だろう。
もう涙を流す瞳はないというのに、熱を上げる身体はないというのに、私はその声に喜びを感じていた。
"彼"の顔は見えない。"彼"が何をしてるのかも分からない。けれど、"彼"がエアルとなってザウデと…私に溶け込もうとしているのが分かる。
"彼"も私と同じ運命を辿る気なのだろう。本当なら阻止したいところだけれど、今の私には何もできない。…ただ、昔と変わらない強引な"彼"を受け入れるしかないのだ。


――――ええ…ずっと一緒よ、エルシフル。


私に声はだせない。もう表情を見せることもできない。けれど彼には全て伝わってしまっているだろう。
見えないはずの彼の顔が、穏やかに微笑んでいるように見えたのはきっと、幻ではない。だから私も、伝わっていることを信じて微笑んで見せた。
- ナノ -