「……まだだ」


静寂に包まれたザウデの最深部。長く沈黙が続いたその空間に、デュークの静かな声が響いた。
その場にいる全員の視線が彼にはと向けられる。デュークは二年前と何一つ変わらない姿で封印術式の前へと歩み寄った。


「少しずつ世界がリクを思い出したように、エアルの乱れを正してすぐにまた記憶がなくなるわけでもあるまい。…二年前とは違う」
「そんなこと! あんたに言われなくたって分かってるってぇの!!!」


怒鳴り散らすように返答を返したのはリタだった。
じっと封印術式を眺めていた彼女は、デュークのその一言を聞いた瞬間に操作盤を展開し、手を動かし始める。…迷いなく、無駄もないその動きはこれからどうすればいいのか理解しているようだった。
その様子にユーリだけでなく精霊たちも目を丸くしている。


「二年前! あたしはリクを助けてあげられなかった! あたしの研究不足のせいで…あの子があんな覚悟をしていたことを見破れなかったせいで!」


――ずっと一緒にいたのに!
リタが何をしようとしているのを理解したのは、後ろで彼女のやっていることを呆然と眺めていたアレクセイだけだった。
理解してからの彼の行動は早い。アレクセイも別の場所で封印術式の操作盤を展開し、リタを追うようにして手を動かし始めた。


「何もできなかった! 想定外のことが起こって…それが信じたくない事実で…! あたしはあの時、時間がないっていうのに手を止めてしまった! ショックで頭も動かせなかったの! ――でも、今は違う!!」


絶望するよりも先に、やるべきことがある。
二年前の記憶が蘇ったことでリタはそう学んだ。全てはリクを救えなかった後悔と自分に対する失望から。…リタもこの場にクロノスが現れたことの意味を理解していた。けれどその事実を突き付けられても、考えることはやめなかった。
先ほどアレクセイが言っていたように、全てはリクの想定内であり、自分たちの想定外の出来事ばかりだ。…ならば、自分も彼女と同じ方法をとればいい。――"予測"するのだ。同じ時間だけ一緒にいたのだから、自分たちに出来ないわけがない。リクが自分たちのことをよく知っているからこそ全て彼女の想定通りのことが起こっていた。…だからこそ、こちらも想定する! 最悪から最高までの未来を!!


「この術式は、あんたがリクが教えたものなのねクロノス」
「なぜ…」
「ザウデに施す封印なんてあんたしか知ってるわけないでしょ! 停止してるはずのザウデのシステムと結びついてるんだから!」
「…つまり、クロノスなら解けるということ?」
「できるのならすぐにでもそうしているわ。…私がこの封印を解けないのは…この封印がリク自身の生命力から成るエアルで出来ているから…」


リクが何故一人で行ってしまったのか。理由は様々だ。
精霊たちがついていけないのは、その地下が得体のしれないものであるのと、下手をしたらその存在を危ぶまれることになるからだ。星喰みが無くなったこの世界は今や、精霊たちが存在することによって成り立っている。一柱でも折れてしまえば、均衡は崩れてしまうだろう。そして、精霊たちがいなくなってしまえば、彼らが調節しているエステルの能力も二年前のように暴走してしまうのだ。
記憶が戻ったユーリたちにも背を向けたのは、無論戦いに巻き込まないため。魔導器(ブラスティア)を持たない人間にこの地下に眠る怪物を倒せるわけがない。――結論として、自分一人で行くことをリクは選んだのだ。


「……残念だけどそれ、ていよく追い出されただけだぜ。精霊さんよ」
「……」
「精霊たちが付いててもしものことが起こる可能性は低いはずでしょ。少なくとも一人で行くよりはずっとな。――あいつはただかっこつけて死にたいだけなんだろ」


頭を掻いたレイヴンは無表情まま封印術式を見下ろしていた。
彼の言うことに気付いていたなかった精霊たちではない。けれどリクが終わりを求めていることをよく理解していた。彼女についての記憶を世界が思い出すことによって、世界のエアルが乱れていたのも事実。世界がリクを思い出すこと。それは世界が災厄に降りかかること同意義なのだ。
たった二年。けれどリクは数十年にも感じ取れたのだろう。じわりじわりと追い詰められていく彼女を、精霊たちも見てはいられなかったのだ。
リクの言う建前を知っていたうえで、何も言えなかった。彼女の望み通りに。いつもそう思っていたのだから。


「…私は、あの子が苦しまなければそれでいい。…たとえそれがリクの死を意味することでも…あの子がそう望んで、これ以上苦しまないのなら…」
「――リクをそこまで追い込んだ本人が言うセリフとは思えねぇな」


ユーリが氷のように冷たい一言を零すのと、封印術式が光り始めたのは同時のことだった。
リタがらしくなく「やった!」と声高に叫び、白く光りだした術式を見下ろす。


「…術式を解読するの久しぶりだから手間取ったけど…活路は見いだせたわ!!」
「本当ですか、リタ!!」
「まあアレクセイも手伝ってくれたからなんだけど…問題は封印の解き方ね。力場が安定しないから常に誰かが調節するしかないし、仮にこの先にも同じような術式があったら引き返すしかないんだけど……もう、これしか…!」
「もったいぶらないでよリタ! どうすればいいの!?」


封印を解く方法が見つかっただけでも大手柄だというのに、リタはその先のことも予測していた。
この術式はリクの生命力から成るエアルで動いている。だからこそ、それを解くには同じく生命力のエアルでこじ開けるしかないというわけだ。リクのエアルよりも強く大きいエアルを使って。


「要は二年前、始祖の隷長(エンテレケイア)を精霊化させたのと同じ原理よ。ただ今回は、核になるものがないから常に力場を安定させなくちゃいけない。細かいエアルの操作はエステルや精霊たちにやってもらうとしても、リクのものに匹敵するエアルを形成できるかどうか…」
「むむ…と、とにかくリク姐以上に強いエアルを封印にぶつけて、こじ開けるってことかの?」
「あー…まあそういう考えでいいわ!」
「で、でもリクのエアルって……その、す、すごかったのよね…!?」


カロルはリクの魔術がどんなものだったかを思い出していた。あれはクロノスの聖核があったからだとしても、凄まじい力を秘めていた。しかも精霊たちでも一筋縄ではいかないという代物だ。そう簡単に作れるものだろうか。
リタの話ではこじ開けるといっても、小さな隙間を生み出す程度のものらしい。力場が安定しないというのはそういうことだ。常に開いた状態でいることは難しい。


「…生命力をエアルに変えるために相当の人員を割くことを考えると…下手をしたら封印の向こうに行く人間は限られるということになるね」
「んー…力場? それを安定させるにはまずリタっちとアレクセイの手が必要不可欠でしょ? あとはエステル嬢ちゃんや精霊たちで生命力をエアルに変換させて封印術式に送り込む。これは確定だね。あとは生命力だけど…」
「レイヴンは無理しないでくださいね! もしものことだってあるかもしれないんですから!」
「気持ちは嬉しいけど、それは無理な話だよ嬢ちゃん。…俺、何が何でもあいつを一発殴ってやんないと気が済まないし」
「あら、ここにいる全員束になってもリクに適わない可能性だってあるわよ?」


肩を回しながら準備を始めるレイヴンを心配してエステルが声をかける。確かにリタのおかげで大分楽になってはいるものの、レイヴンの心臓も生命力によって動いているものだ。たださえ失っているものを更に悪化するには覚悟が必要だろう。
けれどレイヴンには余計なお世話だったらしい。会話を聞いていたジュディスはふっと微笑む。そしてその視線を、じっと術式を睨み付けているユーリに向けた。


「――この先にはあなたが行って、ユーリ」


ジュディスの呟きに、ユーリはやっと術式から視線を上げる。


「リクを迎えに行くのは、いつだってあなたなんだから」
「ワンッ!!」


ユーリの足元にいたラピードがジュディスに同意して元気よく鳴く。
記憶がなくても、ユーリはこの先にいる少女がどんな存在かを知っている。"覚えている"。その熱に従うがまま、彼はリクをここまで追ってきた。
いつの間にか集まった全員の視線に、ユーリは深く頷く。このまま彼女を思い出せないままだとしても、この感情はいつかまた自分の中で燻り出す。彼の中でそれだけは何故か確信していた。
どんなに忘れても、必ず"覚えている"という確信が。


「もう少しだけ、オレを待ってろ。…リク」
「…うん。待ってる」




***



結果として、リタが提案した封印の解除は成功した。解除といっても、彼女が言っていたように一時的なものであり、常に封印の綻びを残したままにしておかなくてはならない。そのために、ユーリ以外の仲間たちは全員ザウデに残ったままだ。
地下までやってきたのは本当にユーリ一人となってしまった。やはりリクが施したエアルの力は強く、ジュディスの言う通りこの場にいる全員が束になってもこじ開けることは無理かと思ったが、思わぬ人物…デュークがユーリの分を補うと言い出し、彼が二人分の生命力を担うことによってやっと封印が綻びを見せたのだ。
ただでさえ生命力を使うというのに、デュークはそれを二人分引き受けた。寿命が縮むなんてものではない。…それほど、リクが大切なのだろう。


「…まさかあんたと二人になるとは思いもしなかったがな」
「あなただけではこの先の封印を解くことはできないでしょう」


襲い掛かってきた魔物を切り捨て、ユーリは背後にいる精霊に視線を向けることなくそう呟いた。彼についてきていた精霊、クロノスはそんな彼の態度を気にすることなく辺りを警戒している。
リタが予測していたように、あそこの封印を解いても、更に地下へと続く転送術式がリクによって封印術式に上書きされていた。けれどさすがのリクにも限度があったのだろう。入口ほど強力な封印術式は一つもなく、クロノスの力でも破られる程度のものだった。そして、地下に封印されているという魔物たちも容赦なくユーリたちに襲い掛かってくる。不本意ではあったが、今は魔導器を持っていないユーリは苦戦を強いられ、クロノスの能力を借りなければうまく逃げることもできなかっただろう。
そのまま二人は視線を合わせないまま、時間をかけて十六夜の庭へと辿り着いたのだ。


「…マジでこんなところに街があるとはな…しかも、人が暮らしてやがる」
「彼らは封印された満月の子たちの末裔だわ。…彼らは自力でここを自分たちの住める場所にしたのね…」
「……。なあ、アンタ。ここにオレたちみたいに上から来た奴が…」
「やめておきなさい。彼らに話は通じないわ。千年以上も地下に籠りきりなのよ? 今の私たちの言葉が通じると思う?」


物珍し気にこちらに視線を向ける満月の子たちに、ユーリが声をかけた直後、彼らは怯えたように一歩退いた。その様子を見て、クロノスがそう言葉を零す。
ユーリは軽く舌打ちをしたあと「じゃあどうやって探すんだよ」と低い声のまま彼女に問いかけた。
レモングミを噛みながら、ユーリはこれまでに襲い掛かってきた魔物たちを思い出す。確かに地上にいる魔物とは一味違う魔物だった。通路には誰かが戦った痕跡が残っていたため、リクが最初に彼らを相手にしていたことは明白だろう。…本当に、彼女は一人でこんなところに来たのだ。…世界の異変とやらを正すために。


「…大丈夫。リクの気配を確かに感じる…こんなに強く感じるのは二年ぶりだわ。そう距離は遠くない。このすぐ下…」
「やっと追いついたのか。それじゃ、とっとと行こうぜ。上にいる奴らも長時間あの状態はさすがに苦しいだろ」
「待ちなさい、ユーリ・ローウェル。…ここから先は私一人で行くわ」


クロノスが指した方向に足を進めようとしたユーリは、目の前に立ちはだかった精霊を見て眉間に皺を寄せる。
この地下に入って一度も視線を合わせなかった二人が初めて視線を合わせた瞬間でもあった。驚きはしたものの、こんなことを言い出すのではないかと思っていたユーリは特に混乱することなく目の前のクロノスを睨み返した。


「今更、どういうつもりだ」
「あなたはまだリクを思い出せていない。そんなあなたをリクと会せるわけにはいかない」
「…じゃあ、何故ここまでオレを連れてきた。あんただけでここまで来ることも可能だっただろ」
「それは、ここまで来るまでの間に思い出せるのではないかと思っていたから。…リクが信じていたあなたを私も信じてみたの。…けれどあなたは思い出せなかった」


図星だった。ここまで来ても、ユーリはリクを思い出すことはなかった。
先ほどジュディスたちが言っていたようにリクを救ってきたのはいつだってユーリだった。それはクロノスも知っている。だからこそ、ここまでの彼に賭けていたいたのだ。きっと、仲間たちに背中を押された今なら思い出してくれるのではないかと。


「責めているわけじゃないわ…あなたがリクを思い出せないのは他の人間よりもリクと一緒にいたから…それだけの理由ではない。あなたは、リクの記憶を全て見て感じて、彼女と記憶を共有したのよ。とんでもない記憶の量を。…だから消えるときも一番苦痛を味わっていたはず。心の傷を抜きにしても、思い出せなくて当然なの」


リクに関する記憶が、この世界の誰よりも多かったユーリ。
だからこそ、それが一度に消えるとなったあの日、誰よりも苦痛を味わったのもユーリだった。それほどリクに関する記憶が大部分を占めていたため、リクの記憶だけでなく本来の自分も忘れてしまうのではないかと思ったほどだ。
今ここでリクを追いかけているという事実が奇跡に近い。彼がそれほどリクを想っていたという証明なのだろう。けれど、だからこそ、クロノスはこの先にユーリを通すことを拒んだ。…この先にいるリクは、きっと…。


「――思い出せなくてもいい。オレはただ、自分の気持ちに嘘をつきたくねぇだけだ」
「…っ!!」
「もうあいつは知らない女じゃない。"オレ"が探していたリクだ。オレを長い間突き動かしてるのはあいつなんだ。…さっきまでは確かに昔のオレを思い出したかったが…今はそうでもない。――今はただ、」


「…ずっと傍にいて」


「あいつの傍にいてやりたい。…それだけだ」


ユーリの微笑みに、クロノスは驚きで目を見開いた。――ああ、そうか。だからリクはこの男を…。
今にも泣きそうな表情になりながらも、クロノスはユーリのまっすぐな視線に何も言い返す言葉が見つからず、そのまま視線を外した。彼女は黙ったままその足を進め、リクがいる場所へ通じる転送術式の封印を解く。そしてそのままユーリに何をするわけもなく、一人で先にへと進んでしまった。
…そんなクロノスの様子に、ユーリは苦笑いを零した。彼女がここを通したくない理由も理解できたからだ。…この先で、リクがどんな状態でいるのかも。


「私は一人でも苦しんでる人がいなくなればそれでいい。そんな世界は、夢のまた夢だけどね」

「もう充分だよ、ユーリ。ユーリがここまで私を好きでいてくれてるって分かっただけで、この先もやっていける。…怖い物なんてなくなった」


そうしてやっと転送術式でその場に降り立ったユーリは、目の前に飛び込んできた光景に、今度こそ言葉を失う。その動揺は常に手で握りしめていた自分の剣を落としてしまうほどだった。


「…ああリク…最初から…最初から全部このつもりで…? だからあなたは……こんな無謀なことを…?!」


クロノスも動揺しているのか、その声は確かに震えていた。けれどユーリはそんな彼女に気を遣うような言葉は一言も出てこない。
ただ目の前に広がる光景に呆然としてた。やっとの思いで足を一歩、また一歩とゆっくり"それ"に向かっていく。
この空間の光景を一言でいうならば美しい。それに限る。けれどそこに温かみはない。人間で例えるならば、恐ろしく美しい顔立ちをした人間が常に無表情でそこであるかのような、機械的な冷たさがその光景にあった。
リクは確かにそこにいた。彼女の目的であっただろう魔物の身体と共に。
―――血に塗れた状態で、"菫色に輝く巨大な結晶の中に"。


「たとえみんなに恨まれようと、私は何度だってこの選択をする!」


結晶の中にいるリクは魔物を抑えつけるようにうつ伏せになっていたため、表情はよく見えない。…けれど、どこか満足げに笑っているようにも見えたのだ。
クロノスは、リクがザウデに行くと言ったその時にはもう弱っていたため、彼女を引き留めるどころか、詳しい話を聞くことも出来なかった。クロノスが分かっていたのは、彼女が死にたがっていたこと。だからこそこんな無謀な真似をするのだと。…けれど、まさかこんな方法をとるなんて…。


「…ユーリのおかげで、私は元の世界より楽しく過ごすことが出来た。ユーリのおかげで、毎日が輝いてた。ユーリは私を…幸せにしてくれた」


ユーリはそのまま、リクが閉じ込められる菫色の結晶に触れる。その菫色には、見覚えがあった。確か、二年前にも同じようなものを見たはずだ。グシオスを精霊化するときに訪れた、あの輝く森で。
結晶の中にいる彼女は、時が止まったかのように動かない。…本当に結晶と一体化してしまっているのだ。分厚い結晶はこの広い部屋全体に広がっており、ユーリと彼女のいる部屋の中央とは少し距離がある。結晶には触れられるものの、肝心のリクとの距離は離れたままだった。しかし結晶に阻まれ、これ以上進むことは適わない。
ところどころ瓦礫と化している部屋は、リクと魔物の戦闘の激しさを物語っていた。リクが魔物を押さえつけ、彼女の背中に無数の触手のようなものが刺さっている。溢れ出た血はそのままだ。…本当にそのまま、結晶化したのだろう。


「……私の我儘、聞いてくれる…?」


幸せ、幸福。なんて身勝手な感情だろうとユーリは思わず笑ってしまう。
人間人それぞれ。感情もそれだけ色々あって、感じることはみんな違う。幸せ、というものもそれの一つだ。
――幸せは分け与えるもの? 共有するもの? 分かち合うもの?
それは違う。幸せと感じるのは本人だけだ。他の人間がそう思っているとは限らない。あくまで幸せとは、個人のものであり多に与えるものじゃない。少なくともユーリは今、そう思えて仕方がなかった。


「…ずっと傍にいて。最期を迎える、その瞬間まで」



喉から零れるのは、言葉にならない空気だけだった。
リクのエアルで形成された結晶は神秘的な輝きを放ち、薄暗い地下を美しく照らしていた。
恐ろしく冷たいその結晶に額をつけ、ユーリは瞼を閉じる。


「…ああ、傍にいるよ。――最期のその先も」


ユーリの優しい声が、結晶で覆われた部屋に虚しく響く。
愛しげに結晶に触れた彼の瞼からは、彼らしくない涙が一筋流れていた。
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