「様子が可笑しいからって依頼されたはいいものの…あたしだって知ってることはごく僅かしかないんだけど」


特定の誰かに文句を言うわけもなく、リタはひたすら一人で呟き続けていた。その表情は不機嫌としか言いようがないほど歪んでおり、動かしている手もいつもの軽やかさがない。それもそのはず。今彼女がこうしてこの場で仕事として手を動かしていることは彼女の本意ではないからだ。
リタは昔よりも、帝国からの依頼を受け入れるようになっていた。それは彼女が魔導士という役職のためであるが、前の彼女であればなんでもかんでも帝国の依頼を受けたりはしなかっただろう。リタが帝国の依頼を受けるようになったのはエステルが副帝の役割をこなすようになってからだ。ヨーデルが皇帝になってから多少はマシになったものの、まだ完全に使用できる相手とは言えない。しかし親友のエステルがいるのなら話は別だ。リタは彼女がいるからこそ
帝国からの依頼もなるべくこなすようにしている。


「まぁそう言わないでリタ。ここの事情を知ってる魔導士なんてあなたしかいないんだから」
「分かってるわよ! …まったく、あんな事件の後だっていうのに…エステル、大丈夫かしら…」


同じく帝国からの依頼でリタをここまで連れてきたジュディスも、リタの落ち着かない様子を見て溜息を吐き続けていた。
帝国からの依頼は前々からあったものの、まさか出発する直前にあんな事件が起きるなんて思いもしなかったリタは、ハルルに一人置いてきてしまったエステルのことを心配していた。
あんな事件。ハルルの周辺で噂の魔女と騎士団たちがとうとう戦い始めたらしい。今まで魔物を率いている女という以外まるで情報もなく、本当に実在するのかも怪しいと思っていたが、ハルルに逃げ込むようにやってきた騎士団たちの話を聞いてその認識も改めた。
魔女は実在する。しかも思っていたいた以上に事態は深刻だったみたいだ。報告を聞きに来たレイヴンもいつもの雰囲気とは随分違うように見えた。


「魔女の話は私も聞いてるわ。エステルが心配なのも分かるけれど…」
「バウルは何か知らないの? 魔女は始祖の隷長(エンテレケイア)だって仮説もあるけど…」
「魔術が扱えるってところ考えればその可能性もあるにはあるけれど…珍しくバウルはだんまりなのよ。魔女のことに関してはね」
「何よそれ。それって何か知ってることじゃない!」
「ええ。私もそう思うんだけれど…バウルが話したがらないから無理強いも出来なくて」


困り果てたジュディスはまた溜息を零した。
バウルはこの世界に残った唯一の始祖の隷長だ。他の仲間たちはすべて世界の為に転生してしまっている。彼らはその力で世界を安定させているが、バウルも未だに始祖の隷長として気が付けばエアルを調節している。
だからこそ、魔女という存在が本当に始祖の隷長ならば、彼が事情を知らないはずがないのだ。その考えが検討違いのものだったとしても、バウルは何か答えを持っているはずなのだ。けれどバウルは何も答えを返してくれない。肯定も、否定も。
魔女という存在をジュディスは名前しか知らないが、バウルがそのことについて話を避けているのが彼女にも理解できた。バウルにも考えがあったのだろう。だからこそジュディスは今までこの話題を避けてきたのだ。…けれど今回のリタの話を聞くと、どうもそういうわけにはいかないらしい。


「今回の調査が終わったら、本格的に魔女さんのことについて調べてみたほうがいいかもしれないわね。取り返しのつかないことになっても困るし」
「かもしれないじゃなくて、そうするのよ! あんたは世界中をのんびり飛び回ってるから知らないかもしれないけど、結構やばいやつなのよ」
「うふふ、そうみたいね」


ここまでリタを運んでくる間にも、リタはこれまでのことをジュディスに話してくれていた。魔女と騎士団が戦ったこと。魔女が魔術を使ったこと。確かに事態は深刻で、のんびりもしていられないようだ。
いつものように楽しそうに笑っているジュディスを見て、彼女は本当に分かっているのかとリタは肩を落として溜息をついた。
…そもそも、この調査さえなければすぐにでもエステルたちと協力してその魔女のことを突き止めてやるのに。魔女が魔術を本当に操っていたのだとしたら、魔導器(ブラスティア)もなしにどうやってそれを実現させているのか確かめないといけない。魔道器に代わる戦闘技術の開発が今最も急がれているのだから。


「けれど、ここの調査も大事なものよリタ。一つ間違えれば何が起こるか分からないんでしょう?」
「まぁね。だから帝国もあたしを呼んだんだろうけど」
「古代の魔道器についてはまだ分かってないことがたくさんあるからね。…特にこの…ザウデに関しては」


ジュディスは、水に囲まれた円状の足場の中央に立ち、日の光が差し込む上空を見上げた。光が差し込むといってもそれは僅かなものだったが、水がちょうどよく反射しあってとても明るく見える。
二年前までは海底の奥底に眠っていた古代の遺産。この建物全体が魔道器だというザウデ不落宮。これまで大きな魔道器はこれまでも、そしてこれからも現れることはないだろう。世界を破滅へと追いやった巨悪な災厄から守るため、この世界を丸ごと結界で覆うことができる強力な魔道器。二年前の騒動のおかげでそのシステムはすでに停止しているが、今でも調査をする度新しい発見があるという。
リタが調査を依頼されたのはそんな場所だ。なんでも数週間前から様子が可笑しいらしい。動かないはずのザウデから濃いエアルの反応が出始めているのだと。


「…可笑しいわね。確かに動力源である魔核(コア)は止まってるのに確かにシステムが起動した記録があるわ。…僅かな時間に起動してすぐに止まってる。こんな目的の調査じゃなきゃ見逃してるわ」
「ザウデが勝手に動き出しているということ…?」
「簡潔に言えばね。…でもそんなことあるはずないわ。だって動力もないのにどうやって―――…え、なに?」


操作盤に表示された記録を眺めていたリタはそこでハッと口を止め、背後の扉に視線を向けた。隣にいるジュディスはすでに鋭い視線を扉に向けている。
――なんだか騒がしい。リタはその性格ゆえ、自分が研究をしている間は知り合い以外の人間に邪魔をされたくないとジュディス以外の人間には別室で待機させていた。…そこから妙な音が響いていた。何か小競り合いをするような音。そして、騎士たちのものであろう悲鳴と怒鳴り声。
リタはごくりと喉を鳴らした。ジュディスは彼女よりも一歩前へ出て武器である槍を構える。いざとなったらリタを守るは自分だと。


「リタっ! 下がって!!」


沈黙は長く続かず、最悪の予想が当たったとジュディスは声を荒げた。
扉から飛び出してきたのは無数の魔物たちだった。応戦している騎士たちも視界に入ってきたが、この量ではとても太刀打ちできないだろう。
ザウデにも宮殿を守る魔物はいる。けれどそれとは違う種類の魔物が大群となって押し寄せてきたのだ。さすがのジュディスも驚きに目を見開いた。こんな海の真ん中で、見かけるはずのない魔物たちばかりが溢れ出てくる。


「ジュディス!!」


リタの声でハッと我に返ったジュディスは襲い掛かってきた魔物をなぎ倒した。
そうだ。驚いている場合ではない。今はこの状況をなんとかしなければ。原因を考えるのはあとでいくらでも出来る。
生き残っている騎士たちに声をかけ、ジュディスたちはこの状況を打破する方法を考えた。騎士たちの報告によると、魔物たちは空からやってきたらしい。竜型の巨大獣(ギガント)がやってきたと思えば、従えるように後ろについていた大量の鳥形の魔物から次々と魔物が降りてきたのだと。


「空から魔物!? 大群!? どういうこと!?」
「我々にも分からない! 魔物が降りてきてからはあっという間だった…!」
「こんな最深部までやってくるなんて…魔物だけの仕業じゃないわね、これは」


自慢の槍を振るいながら、ジュディスは冷静に分析する。
鳥形の魔物から魔物が降ってきたということは、鳥形の魔物が魔物をここまで運んできたということだ。本来ならば種族の違う魔物は馴れ合わない。――それこそ、始祖の隷長のように魔物たちを纏め上げる存在がいなければ。
周りの魔物たちを警戒しながらも、冷静に状況を整理しようとジュディスが視線を巡らせていたその時、彼女の視線は足場の中央…リタの背後でふと止まった。
リタの背後に出来た小さな影。本来ならば誰も気が付かないほど小さくて当然のようにあるその影に、ジュディスは目を見開いた。
あんな場所に影があるはずがないのだ。だってそこには人間はおろか、魔物だって存在しない。日の光の向きはこちら側で、リタの影もこちらに出来ているのだから。
そう分かったあとはあっという間だった。ジュディスが見た影はどんどん大きくなり、彼女がリタを呼ぶその一瞬の前に正体を現したのだ。


「――シルフ、お願い」


音はなかった。けれど確かに、どこからともなく"その人"は姿を現したのだ。
突然の突風に身体ごと吹き飛ばされるまで、リタはその存在に気が付くことができなかった。リタが感知したのは誰かが何かを呟いた直後に突風が吹いたということだけ。周りにいた騎士たちも突然のことに目を白黒にさせている。
ジュディスだけだった。ジュディスだけが、全てを見ていた。上空にある日の光からここへまっすぐ飛び降りてきた少女の姿を。彼女が呼んだ精霊の名前を。彼女に呼ばれて姿を現した精霊が、飛び降りてきた少女を優しい風で着地を手伝ったそのあと、自分たちを拒絶するかのように強風で吹き飛ばしたところを。


「きゃああああああ!!」
「い、一体なにが…っ!?」


突然のことに受け身も取れなかったリタたちはただ無防備に床へ転がされる。
全てに反応できていたのはジュディスだけだった。彼女はリタたちが無事であることを確認し、すぐにその足を動かす。風に吹き飛ばされ、地面に足を付ける前の行動だった。空中での受け身、カウンターが出来るのは彼女特有の技であり、武器の本質を最大限に引き出すことのできるクリティア族だからこそ成せる技である。
一連の出来事を視認することは出来たものの、"彼女"の正体をジュディスは知らなかった。けれど"普通ではない"ことは嫌でも分かる。
ここはザウデの最深部。ここから水に囲まれた長いエレベータで頂上まで上がれるのだ。…そう、長いエレベータで。ここから屋上までの距離は数キロメートルにも及ぶだろう。そんな距離を、今現れたこの少女は飛び降りてきたのだ。魔物たちが襲い掛かってきたこのタイミングで。
ジュディスは空中を蹴ると、着地したばかりの少女に槍を向ける。奇襲の後は誰しも気が抜けやすい。初手を決めるならここだ。


「ウンディーネ」


しかし反撃を繰り出したジュディスの槍が届くことはなかった。
少女の視線はしっかりとジュディスをとらえ、視線が合ったその時、見覚えのある水色の精霊が目の前に現れたのだ。ジュディスが避けようと思ったときにはすでに遅く、大きな水の塊が彼女を弾き飛ばした。
ここまでの出来事が、僅か十秒にも満たない出来事である。ワンテンポ遅れて自分たちと同じように床へ倒れこんできたジュディスを見て、リタはやっと目の前の事態を理解した。


「なによ…あれ…冗談でしょ?」


ジュディスの元へ駆け寄った後、前に現れた正体不明の女性をリタは睨み付けた。しかしそれと同時に視界に入ったものを見て愕然とする。
随分と久しぶりにその姿を見るような気がした。


「どうしてあんたたちがそっちにいるのよ!?」


リタが叫んだその先にいたのは、二年前共に災厄を打ち滅ぼした精霊たち。
ウンディーネ、イフリート、ノーム、シルフ。四属性の精霊が、なぜかその女性のを守るように囲っていたのだ。
そして驚く事態はそれだけではない。先ほどまで猛威を奮っていた魔物たちがリタたちには目もくれず、まっすぐ女性の方へと駆け寄っていく。…そこに敵意はない。
まるで動物と人間のそれように、魔物たちは女性にすり寄っていた。女性もそれが当然のことのように受け入れ、魔物を撫でている。


「魔物と人間が…?」
「まさかあいつ…!!」


その様子を見て最初に浮かんできたのは『魔女』という単語だった。
魔物を従えている人間。ここへ来る前も噂の中心であった女。リタの瞳はさらに鋭くなり、目の前の女性を睨み付けた。
彼女が魔女というなら魔物たちの強襲にも話がつく。もしかしたら、ザウデにある異変というのも彼女が関係しているのではないか。そう考え始めたらキリがなかった。
魔物は魔女に集まっているせいで、自分たちから興味が逸れてる。撤退して態勢を立て直すなら今しかない。リタはそう騎士団に声をかけた。ここはザウデの最深部であり、中心部。本当ならこの場を離れるなんてことはしたくないが、今の自分たちがあの数の魔物たちに勝てるとは思えない。…精霊たちが魔女に味方している理由も分からない以上、下手に手出しは出来ない。


「ジュディス! あたしたちも退くわよ! …ジュディスっ?!」


リタの指示に従って、次々と騎士が撤退していく中、ジュディスだけがその場から動かずにいた。ただ魔女だけを見つめ、槍を握りしめながら呆然としている。
自分と同じようにこの状況に驚いているのだろうか。バウルと共に過ごしてきた彼女は彼女なり思うところがあるのだろう。けれど今は、そんなことに足を止めている場合ではない。
リタは眉間に皺を寄せながらも、無理やりジュディスの腕は引っ張った。ジュディスはそんな彼女に引きずられるようにその場から身を退いた。



***



「――もう、ここには誰も入れないで」


リタとジュディスが退いていったのを確認したリクは固くしまった扉を眺め、震えた声でそう魔物たちに伝えた。
魔物たちは素直にリクの言うことを受け入れ、扉の方へと駆けていく。…これから彼女が何を始めるのかも知らずに、彼女を疑うことなく従っているのだ。
――まさかリタとジュディスがここにいるなんて。リクは動揺してしまっている自分を落ち着かせるために深呼吸をした。彼女たちがいると知っていたらここまで大量の魔物は連れてこなかったというのに。…騎士団にも悪いことをした。…そこまで考えて、リクを首を横に振る。
そんなこと今更じゃないか。彼らに迷惑をかけてしまっているのは今も昔も同じ。


「…リク」


風の精霊、シルフに声をかけられリクの意識は現実に戻された。
クロノスと同じように心配したようなシルフが言葉を探すように視線を泳がせている。彼女が言いたいことはよく分かった。だからこそ、リクは何も言わずに微笑みを返す。これまでもそうしてきたように。


「…本当にやるのか」
「イフリートまで。…私は自分の言葉を曲げるつもりはないよ」


いつもならなかなか声をかけてこない火の精霊、イフリートも表情こそ変わらないものの、リクを気遣うように声をかけてきた。
珍しいものがあるものだ、とリクは心から笑い、そして礼を言った。


「ありがとう、みんな。…ごめんね。また辛い思いをさせる」


彼らにとってリタたちを攻撃するということは本意ではないだろう。
人間の世界に介入することも望んでいないことのはず。それなのに自分のわがままでここまで付いてこさせてしまったのだ。謝罪してもしきれない。


「相変わらず意地の悪い。謝るのは我らの方だと分かっているというのに」
「……少なくとも私はそう思ってないよ。この二年。あの子たちとあなたたちがいたから正気でいられた」


あの子たち…リクはそう呟いたと同時に扉を守る魔物たちを見つめた。
この世界で自分を覚えていられたのは魔物たちと精霊たちだけだった。自分を認識できているものがゼロではない。その事実にどれだけ救われたことか。
表情を歪ませているウンディーネにも笑顔を向け、リクは両手に持っているそれを眺める。


「…自分の言葉を、撤回する気はないのだな」
「もう、みんなそればっかり。もう決めたって言ったでしょ?」


厳しい精霊たちの視線を受けながらも、リクは笑っていた。
決して無理をして作った笑顔ではない。…けれど心からの笑顔でもなかった。


「…私が、世界を正常な状態に戻す。今度こそ本当にこの命を使ってね」


もう、奇跡はこりごりだよ。
魔女と噂されている少女は、大したことのないように明るい声でそう囁いた。
- ナノ -