目の前に降り立った少女は小さく微笑むと、突然の事に驚いているユーリたちを一瞥して軽く頭を下げた。
彼女のその動作にユーリたちはやっと現実に意識が戻ってきた。頭を下げている彼女の背後には、ユーリたちを睨み付けるようにじっとこちらから目を離さない巨大獣(ギガント)がゆっくりと着地した。彼にとって中庭は狭いことだろう。大きな翼を仕舞い込み、尻尾を自分の身体に巻き付けるようにしている。今は大人しくしているものの、ユーリたちの動きによってはすぐに牙を向くのだろう。魔物の瞳からは警戒が抜けていなかった。


「こんな強引な形で押しかけて申し訳ありません、ヨーデル皇帝陛下。…私は、あなた方に『魔女』と噂されている者です」


下げた頭をそのままに、少女は淡々と言葉を紡いだ。
しかし誰も返答を出すことができなかった。目の前で起きていることがあまりにも現実離れであり、突然の事だったからである。
誰もが望んだ少女との再会。それが、こんな形で叶うことになるとは。


「今回はどうしてもあなたとお話しをしたいことがあって伺わせていただきました。正面から城門を開いていただくのは不可能だと考え、こんな形となりましたが…」
「……ええ。魔物が突然現れたことは驚きましたが…こうしたタイミングであなたが会いに来てくれたことにも驚きました、リク」


頭を下げた『魔女』の肩が、僅かに動く。やっと上げた彼女の顔からは微笑みが消えていた。
ヨーデルが擦れたような声で彼女のことを呼んだことで、全員がやっと目の前の現実を受け入れられるようになる。
『リク』。そう、目の前に魔女と名乗るこの女性は二年前自分たちの前からも、記憶からも消えてしまった世界を救った本物の救世主その人なのである。


「リクっ…! 本当にリクなんですね…っ!!」


先ほど彼女のことを思い出したばかりのエステルは流れていた涙を拭うことなく、更に瞳を潤ませて目元を赤くする。ポロポロと流れる涙は止まる事を知らないように延々と彼女の瞳から流れ続けた。
視界が潤んでよく見えない。けれどあの顔は、あの声は、確かに今まで自分が忘れてしまった大切な友達のものだ。この世界で生き伸びているのかも分からない彼女が、目の前に現れてくれた。今のエステルには、眼前に立つリクの姿しか見えていなかった。今すぐ無事を、その姿を確認したくて彼女は駆けだす。しかしそれはリクの背後に腰を落ち着けていた巨大獣の咆哮によって阻まれる。力強く大きなそれは、はっきりと"拒絶"を現していた。


「…すみません。時間が惜しいもので、率直にお話しさせていただいます」


巨大獣を宥めるように撫でてから、リクはエステルやユーリたちには目もくれずにヨーデルに向けて話を続ける。


「最近魔物と一緒にいる私のことで近隣の方に誤解があるようでしたので、その訂正を。私は確かに魔物と暮らしていますが、決して人間の方々を傷つけようとは思っていません。そして、魔物の統率をしているわけでもありません。こうして私のお願いを聞いてくれる魔物がいることも確かですが、彼らは基本的に同族を守るために動いているんです。人間と同じように」


まるで何かの台本を読むように淡々と喋るリクを見て、エステルは言葉を失くした。
エステルを魔物の咆哮から守るように前に出たレイヴンとフレンはそんなリクをじっと見つめている。彼女と一番近いアレクセイも何も口にすることなくその様子を見ていた。


「騎士やギルドの皆さんに怪我をさせてしまったことは謝罪します。…でも、私も留守の間に住んでる場所を燃やされてしまったのでお相子ということで」
「住んでいる場所を……それはこちらにも非があります。私からも謝罪を」
「いいんです。お相子だって言ってるじゃないですか。これからも魔物たちとは付かず離れずな距離感を保ってください。……ただでさえ、あなた方は魔導器(ブラスティア)を放棄したんですから」


今度は、エステルたちが表情を変える番だった。
魔導器の放棄。二年前、世界を崩壊寸前まで追い込んだ星喰みを撃退するために選んだ人類の選択。彼らは戦う力を失くす代わりに、生きることを選んだのだ。
そしてその選択は、リクにとっても大きな選択だった。魔導器の放棄。それこそが彼女がこんな状況になってしまっている何よりの原因。


「…話はそれだけでさよならってわけじゃないだろうね、リクちゃんよ」


忠告まがいの彼女の一言で沈黙した空間に、レイヴンが低い声のまま彼女に問いかけた。
相変わらず笑いも戸惑いもしないリクの視線がやっとレイヴンへと向けられる。まるで初めて会いましたとでもいうようなその態度に、レイヴンは憤りを覚えた。
こっちは死ぬ気で探し回っていたというのに、こんなにも簡単に自分から出てくるなんて。それ以前に、二年前に勝手に決断して勝手にいなくなったことも許せるわけがない。ずっと胸に溜めこんでいた怒りを抑えながら、レイヴンはあくまで冷静な様子を見せていた。


「お前、今度は何企んでんだ。誤解を解くためだけにここまで来るわけもでもないだろ。その様子じゃ、素直に俺たちと再会しに来たってわけでもないだろうし」
「おっさん…」
「そんな凶暴な魔物連れてきて、戦争でも始める気かよ」
「レイヴンさん!」


物騒なことを言い出したレイヴンに、思わずフレンが詰め寄った。しかしレイヴンはリクから視線を逸らすことなく、リクもまた、レイヴンから視線を逸らすことはなかった。
確かに、正式な形でこの城に訪れることは困難だっただろう。しかし何も魔物を…ましてや巨大獣を率いてくる必要はなかったはずだ。これではいくら口で人間を襲わないと伝えても説得力がない。こんな形での登場など、自分はいつでも魔物を率いて街に攻め入ることが出来ると言っているようなものだ。
しかしレイヴンたちには分かっていた。彼女がそんなことをする人間ではない事を。彼女が人間も魔物も大切にしていたことをレイヴンたちは知っている。…思い出しているのだから。


「…二年前と、立場が逆だねレイヴン」
「……!」
「確かに、私がここに来た目的は別にあるよ。…魔女の件はそのついで」
「何を……っ!?」


リクの背後から二つの影が飛び出してきたのはその直後のことだった。
素早くて小さなそれはとても人の目で追いつけないほどの速さで中庭を駆け巡る。その影が人でないことは確かだった。
ユーリたちはすぐに自分たちの武器に手をかけ、戦闘態勢を取る。素早い動きの魔物たちはユーリたちに動きを読まれる前に目的を果たそうと襲い掛かってきた。


「んにゃあっ!? な、なんじゃ!!?」
「パティっ!?」
「なっ…は、離せ! 離せこの〜っ!!」


二つの素早い影は、剣を構えるユーリたちを見向きもせずまっすぐパティの方へと駆けてきた。さすがのパティもそれに驚いたのか、自慢の銃捌きを見せることが出来ずそのまま特攻してきた影たちの下敷きにされる。そこでやっと影の正体が魔物であることがはっきりした。
魔物たちはパティの手から銃が離れたのを確認すると、ユーリたちが駆け寄ってくるその間に彼女の首襟を銜え込み、別の場所へと引きずった。―――リクの目の前へと。


「リクっ! 何をっ!?」


リクの目の前に連れてこられたパティは、目を白黒とさせていた。先ほどからエステルたちと知り合いのように会話をしていた目の前の女性を、パティは知らない。でも彼女たちの知り合いというのであれば傷つけるような真似はしたくない。
じっとこちらを見下ろしているリクをパティはじっと見つめ返した。銃は確かに手放してしまったが、まだ懐には常備しているナイフがある。いざとなればこれを使えばいい。
しかしそんなパティの作戦は、早くも失敗に終わってしまう。パティにへと手を伸ばしてきたリクがまるで場所を知っているかのようにパティのナイフを奪い取ってしまったからだ。
これで、魔物に囲まれているパティは成す術がない。


「な、なんじゃ…うちをどうする気じゃ!?」
「…ごめんね、パティちゃん」
「えっ…」
「――私、パティちゃんに酷いことしてばかりだね」


座り込んだままのパティと膝をついて視線を合わせるリク。目の前で見た彼女のその表情を、パティはどこかで見たことがあるような気がした。
パティが呆然としているその間に、リクは彼女の懐から再び、あるものを奪い取った。――麗しの星(マリス・ステラ)。そして馨しの珊瑚(マリス・ゲンマ)。
リクが手にしたそれを見てパティはやっと意識を戻す。


「それはっ…! か、返せ! それはうちの大事な……っうわっ!」
「パティっ!!」


奪い取られた大事な宝を取り戻そうと、パティは立ち上がろうとしたが、すぐ背後に控えていた魔物に再び首襟を捕まれ、今度は物のように放り投げられる。
放り投げられたパティは軽く宙を舞い、慌てて駆け寄ったユーリがそれを受け止めた。そのことに気を取られているユーリたちを振り返ることもせず、リクはパティから奪ったそれを懐におさめ、二匹の魔物たちと共に再び巨大獣の背中へと跨る。


「くそっ…! 逃がすと思ってんのかよ!」


レイヴンは今にもここを去ろうとするリクに弓を向けた。正確には、彼女をここから逃がそうとする魔物の方を。
世界中の魔導器は確かに放棄されたが、彼の魔導器は今も尚稼働し続けている。レイヴンの魔導器が稼働を止めたとき。それが彼の死に直結しているからだ。
魔物が翼を広げる前に。レイヴンの攻撃を合図としたかのように、ユーリたちもそれに続いて抜いていた剣を魔物たちへと向ける。しかしその刃が魔物たちに届くことはなかった。
上空が一瞬煌めいたかと思うと、そこから巨大な氷の槍が足止めをするかのように目の前に降り注いできたのだ。怪我をすることはなかったが、ユーリたちの足は止まる。その一瞬の間に魔物は翼を広げ、あっという間にユーリたちの手の届かない空へと舞い上がる。


「リクっ!! お前はまた独りで何を!!」


咄嗟にそう叫んだユーリは、あの時の用にハッと自分の口を抑える。
――また? また覚えのないことを口にしてしまった。自分自身の言葉に戸惑う様子を見せるユーリを巨大獣の背中から見下ろしていたリクは小さく笑う。
思い出して欲しいのに、思い出して欲しくもない。だからこれでいい。これ以上ユーリが思い出してしまう前に、何とかしなければ。
こちらを見上げるユーリたちから視線を外し、リクは曇りのない瞳で"目的地"を見つめた。


「大丈夫だよ。――もう、これが最後だから」


もう誰もこんな思いをしなくてすむ。ユーリたちも、"私も"。
全部、全部元通りになるから。だから、あと少しだけ待っててね。
リクは何も語らない。ただ笑うだけでその内に秘めた決意も、考えも、仲間たちに対する気持ちも何も言わないまま目的を果たそうとしていた。
彼女を乗せた巨大獣はそのまま海へと向かう。そんな巨大獣の後へと続くように、あちこちから魔物たちがリクの元に集まり始めていた。
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