クロム×マイユニ×ガイア
クロムさんの挙式から数日が経ち、街の地面には廃棄物や少し汚れた紙吹雪が虚しく祭りの尾を引いていた
花嫁は一度帰国してから正式にイーリスへ移り住むこととなった
式と立て続けに王妃を迎える準備が始まり、城内は忙しく人が動く
私も暫くの間は遠征の予定が無くなり内部事務を任された
処理の終わった書類をクロムさんのいる執務室へ運ぶ
忙しく働いている間は不思議とクロムさんへの想いで感傷に浸ることは無かった
このまま甘酸っぱい過去の思い出として忘れていくのがきっと恋というものなんでしょうね
ガイアさんはあれから何も言ってこない
けれどあの時の表情や言葉は普段のいい加減な性格の彼とは違った
きっと彼なりの言葉で励ましてくれて、本気で私のことを好いてくれていたのでしょう
そして私もそれに応えてしまった
だから私はガイアさんの気持ちに正式に応じるのが筋だと思う
それに今は公私混同している場合じゃない
クロムさんの右腕として、親友として、仕事に専念しなければ
部屋の前で一度止まり小さく深呼吸する
扉をノックし、中へと入った
「失礼します」
執務室の正面奥には大きめの机が据え置かれている
クロムさんはそこに座って筆を取っていた
その脇には書類の山
こちらを一瞥して書類に目を戻し、ハッとしたようにもう一度私を見上げる
そしてどことなくおさまりの悪い顔をした
「何か、用か?」
今まで感じたことの無い距離感
少し寂しいけれど、確執を作ったのは私だ
それに私のせいで夜宴も滅茶苦茶になってしまったのだから嫌われても仕方がない
嫌われているくらいの方が気持ちを割り切れる
そう思うようにした
「こちらの書類の記入が終わりましたのでご確認をお願いしたくて」
「あぁ。その量なら、すぐやる」
書類を渡す時に微かに指先が触れた
でも以前のような気持ちの高まりはもう起きない
否、起こさないように努めた
黙々と文章に目を通すクロムさん
…エメリナ様やリズさんは勿論ですけどクロムさんも結構、睫毛長いですよね
イーリスの皇族の方って基本的にお顔立ちが整ってますし、人間心が美しければとは言いますがやはり見た目だって重要ですよね
そう考えるとあのお姫様は十分適っていらっしゃって、本当に素敵な方ですよね
綺麗で身分もある人がいるなら…私にもどちらか与えてほしかったです
神様って、不公平ですね
「…ガイアと関係を持ったというのは、本当か?」
捺印しながらクロムさんがぽつりと呟いた
一度聞き流した後、それが自分に向けられた言葉だと気付く
「…今は勤務時間ですので、そういったお話は…」
「マイユニは、あいつの事を好いているのか?」
濁そうとしても質問を止めない
「…だとしたら、何だと言うんですか」
我ながら生意気で意地の悪い答え方だと思った
でももうクロムさんに自分の全てを打ち明ける必要は無い
寧ろしてはいけない
今まで私達の距離は近過ぎました
彼はもう既婚者
“仲間”の距離感に戻るためには少し嫌な女だと思われるくらいが丁度良い
「マイユニがガイアとの関係を望んでいるのなら、何故あの時泣いていたんだ?」
私の心とは裏腹に容赦なく言及するクロムさん
クロムさんには、クロムさんだけにはこれ以上踏み込んでほしくない
「クロムさんには…関係ありません!放っておいて下さい!」
そんな思いからつい口調が強くなった
シンと静まり返る部屋
言ってからハッとする
彼の表情が変わることはない
ただその瞳の奥が、少し揺れたように見えた
「関係ない…、か」
自らを嘲笑うように小さく溜息を吐く
「確かにそうだな」
そして書きかけの筆を置き、ゆらりと立ち上がった
「なぁマイユニ」
コツコツとこちらへ近付く靴音
「人を好きになるとは、どういう感覚なんだ?」
その音は私の対面で止まった
伏せていた目を足元から徐々に見上げる
不意に、視線が交わった
真っ直ぐ私を見つめるクロムさんの碧眼
…こんな間近にクロムさんを見るのは久しぶりかもしれません
挙式の日から蓋をした心が静かに騒ぎ始める
「…急に胸が苦しくなったり、顔を見ただけで嬉しくなったり、何気無い言葉で傷付いたり…
自分の中が、その人でいっぱいになる感じですかね」
何を真面目に答えているのか
もう私には関係無い感情なのに
「…式の前にマイユニに会えた時、本当に嬉しく思った」
私も同じことを感じたことがある
クロムさんと二人で軍議をしていた時だ
「湖でマイユニに来るなと言われた時、後ろから頭を殴られたような気分だった」
クロムさんに“親友”と言われた時のほろ苦い感覚を思い出す
「マイユニがガイアのものになったと想像した時、胸のこの辺りが今までと比べものにならないほど痛くて仕方が無かった」
そう言い自身の左胸を掴むクロムさん
そこはクロムさんに婚約を打ち明けられた時、私も例えようのない痛みを感じたところだった
「お前はいつの間に…こんなにも、かけがえのない存在になっていたんだな」
そして少し寂しそうに微笑んだ
…何ですかその言い方
何でそんな顔をするんですか
それじゃまるで、私のこと…
「…好き…」
無意識に漏れる言葉
「クロムさん…好きです」
折角封じた気持ちだったのに
どうして溢れてきてしまったんですか
抑えきれない感情を抱えたまま一歩、また一歩クロムさんに近付く
彼は微動だにしない
言葉も返さない
ただ、見上げればすぐそこにクロムさんがいる
少し背伸びをすれば鼻の先が触れた
だから視線を交えたまま
そっと、触れるような口付けをした
「…どうして…抵抗しないんですか?」
先に静寂を破った私の言葉
クロムさんは変わらない表情で、少しだけ唇を開いた
「俺もマイユニを…好きだった、からかもしれんな」
世界が停止したみたいだった
刹那、腕を引かれた
よろけた身体が彼の胸にぶつかる
ドクンと脳を振盪する鼓動
反射的に引こうとした腰にクロムさんの腕が回る
触られた腕が、腰が、熱い
「…私の言っている好きは…本気なんですよ?親友の“好き”とは違うんですよ?」
震える声
「分かっている」
鼻を擦る彼の服
クロムさんの匂いがする
私の背に回るクロムさんの手
封じていた気持ちが騒めき始める
クロムさんの左胸に耳をあてると少し早い鼓動が聞こえた
視線の先の窓ガラスに映る男女の姿
これは…現実、なのですか?
だってこんな出来すぎた話があるわけ無い
また私の虚しい妄想なんじゃないか
でもその割りには身体が温かくて、気持ち良くて
寧ろ妄想で良いような気がした
だって、妄想なら誰にも迷惑をかけずにいつまでもこの幸せに浸って良いのだから
口端が少し緩む
徐々に強張りが解ける身体
窓に映る幸せな像をそこはかとなく眺めながら、両腕をゆっくり彼の背へ回した
その時だった
窓ガラスの中で、クロムさんの薬指の指輪が反射した
ビクリと竦んだ身体
回しかけた両手が引っ込む
「…私はーー…」
その先の言葉が喉元で詰まる
それを言ったら、この夢は覚めてしまう
クロムさんは続きを問いかけない
きっと彼も気付いてるんだ
それを認めればこの想いは二度と叶わなくなると
…それでも私は言わなければいけない
私たちは受け入れなければならない
彼には帰りを待つ女性がいる、と
「…諦めないといけないんです、ね…?」
絞り出した声の語尾は震えていた
「…あぁ」
短い返事
呆気ない夢の終わりに目の奥が少し熱くなる
視界がぼやける最中、後頭部をグッと抱き寄せられた
痛い
苦しい
でも、それでも良い
あと数秒で終わる一抹の幸せの中に、クロムさんの一生分の温もりを詰め込んで欲しい
きっと今、私は人生で一番幸せな瞬間です
だけどその幸せはまるで砂を掴むみたいに実体がなくて
どうしようもなく胸が痛くて
クロムさんを見て、クロムさんと話して、クロムさんに触れてドキドキしていたあの日々を
嗚咽と共に押し殺した