アスペラル | ナノ
29


 あれからすぐにリカードはラナを離宮へ連れていった。怪我はないと思っていたが、少しだけ手を切っていたという事もあり、大事を取って休ませるためだ。きっと短剣か何かで切ったのだろう。
 ラナ本人は大袈裟だと言ったのだが、異常に心配しているリカードに押され渋々従ったのだ。今頃リカードに付き添われて、ラナは自室へ戻ったのだろう。

 アルブレヒトは森でハチを探そうとしたところ、すぐにハチは隠れていた茂みから姿を現した。どうやらすぐ近くにいたらしく、一番に懐いているアルブレヒトを見た瞬間、ハチは彼に飛び付いたのだった。
 彼は泥だらけになったハチを大切にそうに抱き締めると、洗う為に離宮の井戸へと向かっていった。

 そして、無事に問題も全て片付き、ロゼッタは廊下の壁にもたれながらとある人物を待っていた。アルブレヒトにはすぐに済むと伝え、先に戻らせた。
 窓から夕日が橙色の光を注いで、廊下を夕日と同じ色に染めている。

(……そういえば、あの時守ってくれた「風」は何だったのかしら……)

 とある人物を待ちながら、ロゼッタは先程森での出来事を思い出していた。
 もう駄目だと思った瞬間、ロゼッタとラナを守る様に風が渦巻いた。だが、何故風が起きたのか分からないのだ。

(あの時、あそこに風の魔術を使える人なんていなかった……)

 ロゼッタは火と氷の魔術。ラナは水の属性だ。それにリカードは火であり、アルブレヒトは魔術を使えない。
 どう考えても風の属性を持つ人物などいなかった。

(風といえば……ハルトだけど……)

 軍師リーンハルトは本城におり、今頃仕事をしている筈だ。それに、もし彼がその場にいたのならば、姿を現さない理由が分からない。
 離宮にはシリルがいたが、シリルは土の属性のために違う。
 どう考えても違和感が拭えない。だが、ロゼッタには正解を見付ける事など出来なかった。

「あ」

 しばし思慮に耽っていると前方から待ち人が歩いてくるのが見えた。
 前方の待ち人もロゼッタの存在に気付いたらしく、少しだけ瞬くと、変わらぬ速度で彼女の元へとやってきた。

「……何か用か?」

 少し疲れている様な表情での挨拶だった。そんなリカードに、ロゼッタは珍しく怒った素振りは見せなかった。

「ラナはどう? 大丈夫なの?」

 彼女の怪我が大した事がないのはロゼッタも知っている。だが、今日は魔物に襲われたという事もあり、精神的にも辛かった事が窺える。ロゼッタとて、辛くなかったわけではないのだが。

「いや、大事はない。ほんの掠り傷程度だしな。ノアにも一応診てもらったが『大した用事も無いのに起こさないで』と言われた位だ。今は落ち着いて、部屋で休ませている」

 珍しい位にリカードは饒舌だった。目線はロゼッタと合わせないものの、彼女が気になっていた事も含め、しっかりと的確に状態を教えてくれた。
 良かった、とロゼッタは安堵した。深刻な状態ではないとは思っていたが、いざ彼女についての報告を聞くと胸を撫で下ろしていた。

「明日には、いつも通り働くと言っていた」

「ラナってば真面目ね」

「……そこが、あれの良いとこだろう」

 ロゼッタが苦笑していると、リカードはむっとした表情で呟きを零した。彼の言葉には更に彼女は苦笑してしまった。顔に似合わず、兄馬鹿なのだから。

「安心したし、もう行くわ」

 ラナの無事を確認出来れば、彼を待っていた目的も果たせた。ロゼッタは踵を返し、部屋へと戻ろうとする。

「おい……ロゼッタ」

 だが、そこでリカードに後ろから呼び止められた。彼から呼び止められるのは珍しいが、更に珍しいのはロゼッタの名前を呼んだ事だ。
 彼女の記憶の中では、名前を呼ばれたのはこれが初めてである。いつもは「おい」だの「その女」だと言われた記憶はあるが、名前では決して呼ぶ事はなかった。それはある意味、彼女を認めていない証でもあったのだが。
 ロゼッタは驚いた表情で振り向いた。すると、そこには神妙な面持ちのリカードが彼女を見ていた。

「…………ラナの事は、礼は言う。お陰で妹とちゃんと向き合えた気がする」

「べ、別に、そんな大した事はしてないわ……」

 リカードからこの様に素直にお礼を言われた事のないロゼッタは、どう答えていいか分からず慌ててしまう。憎まれ口や皮肉に返す言葉はすぐに見付かるが、彼がこんな口調ではつい彼女の調子が狂ってしまう。
 勿論、彼が本来は真面目で礼儀正しく、お人好しな男だというのは知っていた。

「ラナからさっき色々聞いたんだ。ラナも、俺も感謝している。あと、あいつは……あの歳でもう城仕えをしている。城にはあまり歳の近いのもいなかったせいか、友と呼べる存在も少ない」

「?」

「……ラナと仲良くしてやってくれ、ロゼッタ」

 僅かにリカードは口元を緩ませた。それは多分、ロゼッタが初めて見た彼の微笑だろう。
 それだけだ、と言うとリカードはさっさと歩き出して何処かへ行ってしまった。茫然としていたロゼッタは彼を呼び止める事が出来なかった。

(びっくりした……笑えるもんなのね、リカードでも……)

 仏頂面な男でも微かに笑えば雰囲気も柔らかくなるのね、とロゼッタは変に感心してしまった。
 ロゼッタ、とニ回も名前を呼ばれた事を彼女はふと思い出した。アスペラルに来てから敬称も何もつけず、呼び捨てで呼んでくれたのは彼が初めてだろう。

(さて、きっとラナも暇だろうし……様子でも見に行こうかしら)

 大した怪我でもないのに、部屋で休まさせられているラナはきっと暇を持て余しているだろう。

 ロゼッタは口元を綻ばせると、アスペラルで初めて出来た友人の元へと急いだのだった。



end

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