自宅のマンションで、夜の10時、ベッドに横になりながら新曲の楽譜に目を通していた、そんな時。
ブブブ...ブブブ...
枕に放っておいたままの携帯のバイブが鳴り、画面を開けば着信。この時間帯に連絡してくるのは、大抵あの人しかいない。 びくりとした表情のまま、壱波はため息を溢して通話ボタンを押すと、
「もしもし?」
『ああ壱波さん。良かった、まだ起きていましたか』
「そりゃ起きてますけど…、何か用ですか?仕事の話で?」
『いえ。今日は僕も時間が出来たので、一緒に食事でもと思いまして』
「…和食?」
『はい。お寿司です』
「行きます!」
よっしゃさすが冬馬さん、俺の好みわかってんだから! 明らかに嬉々とした反応を返す壱波に、クスクスと電話越しに笑い声が聞こえ、それでは後で迎えに行きますねという言葉を最後に電話を切った。
冬馬がこんな風に壱波を食事に誘うのはかなり頻繁で、時間が空いていれば壱波もそれに甘えてよく美味しいものを食べさせて貰う。ただ誘うのは決まって冬馬からで、壱波から誘ったりすることは一度もなかった。
食事などせずとも、冬馬は自分が所属するN-Gの社長であり、社内でも会えるが収録先に高確率で出現するのだ。ほぼ毎日会っていると言っても過言ではない。
そんな理由で、わざわざ冬馬を率先して誘おうとはしない壱波であった。が。最近は、少し様子が違った。
最近、壱波がやたら携帯を気に掛けるようになり、会議中であろうと生徒会にいる時であろうと、ちらちらと頻りに動かす視線の先にはいつも以前のようには鳴り響かなくなった携帯がある。 何の着信がなくとも、取り敢えず画面を見て、そしてしょんぼりと肩を落とす。そんな不思議な行動に、愁一達はそれとなく聞いてみた。
「なぁ壱波、最近携帯ばっか気にしてるけど、何かあったのか?」
「っ、え?」
「そうですね、以前は携帯なんて適当にほっぽといていたのに」
どうしたんですか?と揃って首を傾げる藤崎と愁一に、うっと煮詰まり壱波は視線を反らす。 正直なとこ、自分ではさりげないように装っていたのだが……バレバレだったのか、ちょっとショックだ。けれど、尋ねられてもこっちだって何でこんなに気になっているのかわからないのだ。ただあの人が、最近になって全然連絡寄越さなくて……。
むすっとした態度のまま、テーブルに肘を付いた時、
「悪い遅れたー」
いつもは遅れたりなどしないヒロが、手を顔の前に出しながら部屋に入ってきた。
「中野さんが遅れるなんて珍しいですね」
「いやそれがさ、さっきエレベーターで瀬口さんに出くわして……」
「冬馬さんがっ!!?」
ヒロの何気ない一言に、過敏に反応し立ち上がり、椅子をひっくり返す。言うまでもなくそうしたのは壱波だが、何故彼がこんなにも鬼の形相で飛び上がったのかわからずに、ヒロは押され気味のまま2・3回小刻みに頷いた。
途端、壱波はガタンッと音をたてて部屋を飛び出していき、けれど暫くしたら、
「……いなかった」
「そりゃあ。……さっきも出掛けるところだったらしいからな」
もうとっくに出てるだろ、と続けるヒロの言葉に、更に壱波の落ち込みようが増す。普段は逆に冬馬さんががいなくなって良かった!とあからさまに安堵する壱波だというのに、一体どうしたというのだ?
「もしかして壱波さん、最近瀬口さんに会っていないんですか?」
「!?」
「え?でもほぼ毎日のように電話してるんじゃなかったのか?」
「……最近は、してない」
「あー、でも確かに。前はしょっちゅう撮影の時も顔出してたのにな」
つまり寂しいということか。
声を揃えてそんなセリフを吐く3人に挟まれて、壱波は見事に恥ずかしさに死んでいた。
……そう、最近。というかあのお寿司を食べに行って以来、冬馬とは1度も会っていない。 でも別に、どうせ電話位してくるんだろう、と思ったのもつい3日前。一向に会いに来るどころか、連絡一つ寄越さない冬馬に、次第にそわそわし出した。
いつもはウザい位寄ってくるのに、何でこういう時に限って現れないんだ?
そんなことを思いながら、壱波はまた携帯を見る。着信は、やはりあの人からのものはない。
ふぅ、と仕事を終えて、バイクに跨りながら肩を落とし、壱波は決心したように携帯を握り締める。
そっちが来ないなら、こっちから行くまで!そんな意気込みを持ってヘルメットを被ると、そのまま寒空の下走り出した。
…行き着いた先は、今まで1度だけ来たことがある、会員制のバー。 お高いことで有名なこのバーに、壱波だって寄り付こうとは思わないが、今回は事情が違う。会員制ではあるが、ここのオーナーと顔見知りである壱波は特別に顔パスで許されている。そんな感じで、軽く入り口を通らせてもらい中に入った後、壱波は目的の人物がいたことに一度安堵した後、すぐにむっと憤りを顕にし、
「……人のことほっぽといて、優雅に酒飲みとは良い根性してますよね」
「!?壱波さっ……!」
カウンターに座るその人物の背後から、腕を組んで口を開けば、本当に予想外のことだったのか、その人──冬馬は、心底驚いた顔で振り返った。
いくら会員制であるといっても、うかつにしっかり変装用のサングラスと帽子をしてきた壱波の名を大声で呼ぶことは出来ず、冬馬はさっと口を閉ざした後、どうぞと慣れた手付きで隣に壱波を誘った。
「…驚きましたよ。まさか貴方からこんなところに足を運んでくれるなんて。そんなに僕に会いたかったんですか?」
「うっさいっすねぇ……。アンタが柄にもないことするからですよ。最近は全然、連絡してこないし」
「すみません…。少々面倒なことが起きたので、そちらが片付いてからと思っていまして」
「!、面倒なことって……」
まさか何か、危ないことですか?ぱっと表情を曇らせる壱波を、安心させるように冬馬は微笑む。その笑顔に曇りなどなく、すぐにもう大丈夫なんだなと肩の力を抜いた。
「実は、以前夕食を一緒にした時、張っていたカメラマンがいましてね」
「え?」
「僕と壱波さんが一緒にいる姿を、バッチリ撮られてしまいました。僕の失態です、すみません」
「や、そんなこと……それ、何か問題でもあるんですか?」
「情報というのは侮れませんからね。一見特別な接点のない2人が一緒に食事、2人はどういう関係なのか。そんなこと、調べ出したら切りがありませんから」
特に僕と貴方では。そんな冬馬の言葉に、壱波はやっと事の次第を理解した。 確かに、自分と冬馬さんの関係が知れたら、それはすぐにあの由貴瑛理と血液関係のことがバレ、過去の次第にも手を触れられる可能性がある。それを阻止する為に、冬馬さんは……。
「すみません、俺、何も知らなくて……」
「いいえ。こうして貴方から会いに来て下さっただけでも嬉しいですよ。ああ、安心して下さい。その記者の口封じ……ごほん、口止めは、この通り終わりましたから」
そう言って、ぴらびらと契約書をちらつかせる冬馬に、確かに壱波は安堵した………が、次に見えたその異様なものに、固まってしまったのは仕方ないだろう。
判子の代わりに押されていたのは、明らかな血判、だったのだから。
2011/01/21 20:54
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