テニスの上手い儚げ美人。私の幸村くんに対するイメージはそんなものだった。 今年初めて同じクラスになったが、中学二年の夏が過ぎても必要最低限の会話や挨拶しか交わしたこともなかったからだ。 噂では魔王だとか、腹黒だとかいろいろ聞くけれど、教室にいる彼は穏やかで優しく、だけどリーダーシップ性には優れた人間だと感じた。
「あ、松原さん、この前の放送部の発表見に行ったよ。すごく良かった」
だから、彼にそう言われてとても驚いた。
放課後、部活終わりに忘れ物を取りに教室へ行ったら、窓際に誰かが立っていた。よく見てみると、幸村くんである。 スルーするのは流石に申し訳ないのでとりとめもない会話をすると、彼も忘れ物を取りに来たことがわかった。 私はお目当ての電子辞書を机から鞄へ入れ、さて帰ろうかとしたところで投げられたのがあの言葉。
「あ、ありがとう…」
まさか立海の有名人たる幸村くんに見られていたとは思わなかった。 発表に集まってくれた人は多かったが、自分の仕事に手一杯で彼が来てたなんて気付きもしなかった。
「松原さんって結構話す人なんだね」
多分全国大会で入賞したラジオ放送の話をしているのだろう。発表の一番最後を飾ったのがこれだったのだ。 そのラジオのパーソナリティーを私は先輩と共に勤めていた。
「イメージない?」
「どちらかというと周りをたてて己のことは語らずってタイプに見えてたから」
あまり目立つほうではないクラスメイトまで気にかけていたことに驚いた。 だけど、そういう人でなければあんな大所帯なテニス部を御することなどできないのかもしれない。
「話すことは嫌いじゃないんだけどね」
「だろうね、放送部だし」
「でも、人の話を聞くのはもっと好き。人の声が好きなの」
これを言うと、声フェチ?とかよく聞かれるが、それとは少し違うのだと声を大にして言いたい。 もちろん、この人の声が特別好きだなって思うことはあるけれど、それ以上に声のトーン、言葉使い、話すスピード、そういうものからその人の性格や感情が垣間見えるのが好きなのだ。 まぁ、多少マニアックな点だということは否定できないけど。
「あぁ、人の声って面白いもんね。じゃあ、一対一なら話すけど、三人以上だと聞き手に回るタイプ?」
「うん」
全てを語らずとも言いたいことを理解してくれた人は初めてだった。 嬉しい気もするけど、こうも簡単に自分を見抜かれてしまうとなんだか恥ずかしい。
「それなら、また俺と二人で話してくれる?」
「え?そりゃ、まぁ、いいけど…」
予想外の提案だった。 動揺が自分でも表情に出たことが分かった。その様子に幸村君はにこりと微笑む。
「松原さんの声って綺麗で落ち着くし、あの発表を見に行った時からちゃんと話してみたいと思ってたんだ」
こう言われて悪い気をする人なんていないと思う。 やっぱり幸村くんは優しくて良い人だ。
「ありがとう、嬉しい」
私の返答に幸村くんはどういたしましてと笑うと、鞄を肩にかけた。 そしてこちらに向かって歩いてくる。
「それで、まずは俺の声を好きになってくれると嬉しいな」
耳元で囁かれた台詞は普段の柔らかいアルトの声音とは違い、色気をはらんでいた。 ちょっと待て。こんな幸村くん私知らない。 つい数秒前とのギャップが激しくて、思わずびくりと肩が揺れた。
「ち、近い…!」
「あぁ、ごめん、わざとだよ」
向けられたのは悪気なんてこれっぽっちも感じていない笑み。 これを見た瞬間、幸村精市腹黒説があながち嘘ではなかったことを悟った。多分この男は相当に厄介だ。
「さて、真田を待たせているから俺は行くよ。またね、松原さん」
「あ…うん、また……」
赤く染まっているであろう頬を見られぬように、少し俯いて挨拶を返す。 これから楽しみだなぁ…なんて小さく聞こえた気がするけれど、気のせいだったと信じたい。 綺麗な花には棘がある。その意味を今ひしひしと実感した気がした。
はじまり
そして数週間後、私は彼の恋人という肩書きを得ることになる。
出典:DROOM
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