54.なぞる /法正


 夜の深い闇が支配する城内。気配を消し、足音を殺し、自室に歩を進める。

「こんな時間に一体何をしていたの、法正」

 後方からの声に立ち止まる。責めるような語気に嫌悪の混じった声音。誰か……など、確かめるまでもない。彼女の、俺にだけ向けられる冷たく鋭い声。

「これはこれは、なまえ殿。俺はただ散策していただけですよ、あなたはこんな時間まで政務ですか?」

 振り向きざまに言うと長らく翳っていた月が姿を現し、同時に淡い月影に照らされたなまえ殿の姿を浮かび上がらせた。発せられた声に似合う冷ややかで澄んだ彼女の眼差しが俺を射抜く。

「こんな夜遅い時間に散策? 嘘をつくならもう少しましなものにして」
「おや、俺の質問には答えてはくれないんですか」
「私のことはどうでもいい。答えて、今まで何をしていたの」
「そうですね……仕込みをしていた、とでも答えておきましょうか」

 そう答えた途端、なまえ殿の瞳に怒りと敵意が色濃く表れる。本当にどこまでも真率な人だと漏れそうになる笑いを堪える。

「またあなたは……!? これ以上、劉備殿の立場を悪くするようなことは」
「心配しなくても大丈夫ですよ。ただ闇から闇に葬られるだけです。今のあなたのように、月と共に現れる人間がいなければの話ですがね」
「それで脅しているつもり? 見縊らないで」

 依然として敵意の篭った目で俺を見つめる彼女に、一つ問う。

「ならばなまえ殿は、劉備殿の障害になる者を放置し続けることが得策であると言うんですか?」
「それは……!」

 視線を落とし悔しさを殺すように歯噛みするなまえ殿。公正さと忠義を天秤に掛ければどちらが重いか、その答えは彼女もよく分かっているのだろう。

「私は……あなたを認めない」

 そう言い放つと月はまた雲に覆われ、なまえ殿は闇夜に紛れ逃げるように去っていく。

「あなたが認めるか、認めないか……そんなことはもう関係ないんですよ、なまえ殿」

 去った光に語りかけるように独り言ちる。言葉は夜の闇に溶けて消えた。

***

 なまえ殿の部屋に続く石畳を歩く。わざとらしく一歩一歩、夜の静寂に掻き消すように足音を立てて。そして、彼女の部屋の扉の前、足音を止める。俺はここにいると、逃げられはしないと告げるように。
 なまえ殿は俺を避けている。それはいつものことではあったが、あの一件以来、あからさまになった。会いに行けば一目見ただけで踵を返し、用件はいつも事務的な言動で処理され、それが終わればもう用はないとでも言うかのように足早に去っていくという露骨な忌避を示していた。だが、それを不快に思うことはない。むしろ好ましく思える。その反応は、ある種の関心があるからこそのもの。そう考えれば、無意識に笑みさえこぼれてくる。
 しばらく待つと応えるかのように扉が開き、眉をひそめたなまえ殿が顔を覗かせた。

「一体何の用?」
「用がなければ会いに来てはいけませんか?」
「私はあなたに用はないし、会いたいとも思って」
「なら、また逃げますか、俺から」
「……入って」

 なまえ殿の言葉を遮り事実とも言える挑発すると、彼女は渋い表情で諦めたように扉を開く。言われるまま部屋に足を踏み入れると、蒼白い月が淡い月明かりが注いでおり、窓に目を向けると切り取られたかのような蒼白い月が映る。

「改めて訊くけど、用件は何? ……この間のことなら別に他言するつもりはないのだけれど」

 月を背に、威圧するように視線をこちらに向けるなまえ殿。威風に虚勢が入り混じったような彼女のその態度に自然と口元が緩む。

「その心配もしていませんし、口止めなんてする気もないですよ。用は、なまえ殿の顔を見に来ただけ……と、言ったら、あなたは信じてくれますか?」
「信じない」
「取り付く島もありませんね。まあ、なまえ殿が信じようと信じまいと、真実であることに変わりはありませんが」

 口角を上げて言うと、なまえ殿はどこか苦しげに目を伏せた。

「法正、あなたは……何を考えているの? 何故私に関わろうとする? 私はあなたの望むものなんて何も持っていない。なのに」
「持ってますよ」

 一歩を踏み出し、彼女に近付く。なまえ殿はたじろいだように後ろへ下がる。俺がもう一歩踏み出せば、また下がる。それを三度繰り返し、なまえ殿を壁際まで追い詰める。壁の存在に気付き、しまったという顔をしたがもう遅い。俺は壁に両手をついて彼女の左右を塞ぎ閉じ込めた。俺と壁に挟まれ逃げ場をなくした彼女は気丈にも俺を睨みつける。

「俺の望み、聞かせてあげましょうか」
「聞きたくない!」
「また、逃げようとするんですね」

 視線を逸らしたなまえ殿を挑発すると、彼女は苦々しい顔でもう一度俺を睨んだ。
 彼女は気高い。悪辣を嫌い、卑劣を憎み、他の人間のように俺に取り繕うこともしなければ、謙ることもない。悪党と呼ばれる俺とは真逆の、穢れのない性質の人間。だからこそ、俺から逃げることが出来ない。だからこそ――。

「俺の望みは、なまえ殿、あなた自身です」

 誰より、何より……求めて止まない。
 俺が想いを告げると、彼女は戸惑いを帯びた瞳でただ真っ直ぐに俺を見つめていた。

「あなたに「逃げるな」と言うつもりはありません。ただ」

 途中で言葉を切り、互いの息が掛かりそうなほど顔を寄せる。なまえ殿が息を呑み体を強張らせたのが分かる。そんな彼女に笑って見せ、そしてまるで焦らすような緩慢とした動作でなまえ殿の首筋に口付ける。触れた瞬間、彼女の体が微かに跳ねたのが伝わってきた。

「逃がしませんよ。あなたがどこにいようと、どこに行こうと、たとえなまえ殿が他の誰かを想っていようと、絶対に」

 彼女の心に誰がいようと、俺には関係がない。そんな瑣末なことで俺の感情が揺れ消えることなどないのだから。
 顔を離し、なまえ殿の悔しげに、でもどこか寂しげに潤んだ瞳を見つめ、言い聞かせるように告げる。
 確かめるように口付けた所を指先でそっと触れ、そして首筋から薄っすらと紅潮した頬へと指を滑らせ、彼女の薄く開いた唇の端から端までなぞるように這わせる。手袋越しの指に微かに感じるなまえ殿の吐息が、脳を甘く痺れさせていく。

「あなただけです。なまえ殿だけが……」

 彼女の存在だけが、今も尚、この胸に溢れ続けている。それを彼女は知らない。けれど。

「今宵はこれまでにしておきましょうか」
「法正……?」

 今はまだ、知らないままでいい。
 名残惜しさを感じながらも体を離しなまえ殿を解放すると、彼女は頬を紅潮させたまま気遣わしげな顔で俺の名を呼んだ。その表情、声が胸深くに響き、恍惚とした心地よさに思わず笑みをこぼした。

「それでは、またの逢瀬を楽しみにしていますよ」

 後ろ髪を引かれる思いを抱えながら、そう言い捨て扉を開け放ち、彼女の部屋を出る。
 なまえ殿が俺を呼び止めることはなかった。だが。
 部屋を出て数歩進んだ所で立ち止まり、振り返る。開いたままの扉からは月の光が漏れ、淡く石畳を照らし出していた。
 その閉じられる気配のない扉が、なまえ殿の思いとこれからを表しているように映り、一人静かに微笑む。そして、心の中で呟く。「彼女はもう、俺から逃げられない」と。


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