72.失う /徐庶


 想い人の隣には、俺ではない、別の人間がいた。好きになった時にはもう、手に入らない所に彼女はいた。けれど。

「お願い……! 返事をして……!」

 なまえは物言わず横たわる彼の体を抱きかかえ、揺する。赤く染まる地の上に彼の手が投げ出されていた。なまえが彼を揺らす度、赤の上に波紋が広がり、その手が力なく揺れる。それは彼女の願いが聞き届けられないことを意味していた。

「なまえ、彼はもう……」

 項垂れるなまえの肩を宥めるように抱く。彼女の体は小刻みに震えていた。こんなに弱っているなまえは初めてで、不用意な言葉で彼女を余計に傷付けてしまうことを怖れて慰めの言葉一つ出てこない。
 自分の不甲斐なさを感じながら動く気配のない彼に視線を移す。その瞬間、何故か安堵感を抱いている自分に気付き、背筋に冷たいものが走る。
 不意に指に温かな何かが触れた。彼へと縫い付けられていた視線が解かれ、温もりの方に視線を向ける。なまえの肩を抱いていた俺の手の甲に、彼女の手が添えられていた。頭でそう理解すると、ようやく我に返り、凍りついていた思考が再び動き出す。

「なまえ?」
「ごめん。もう……大丈夫だから」

 なまえは彼の体をそっと地面に寝かせると、前を見据え、立ち上がった。

「君はまだ休んでいた方が」
「戦いはまだ終わっていない。だから……こんな所で立ち止まってなんていられない。徐庶、ついてきて。敵陣深くまで斬り込む」

 俺の制止を遮り、投げ出していた自身の剣を手に取るなまえ。その瞳には迷いがなく、ただ前だけを見つめていた。
 俺も、こんな所で立ち止まっている場合じゃない。今は……なまえを支え、力にならなくてはならない。

「分かったよ。君の背中は、誰にも傷つけさせない」

 なまえの気持ちに応えようと、彼女の隣に立ち剣の柄を握り締める。

「ありがとう。でも一つだけ、お願いがあるの」
「何だい?」
「どうか、死なないで」

 なまえは呟くように願いを告げると、敵陣の方角へと駆けていく。その願いの真意を問い質す暇もなく、辿るように彼女の背を追いかけた。
 先ほどの安堵感の正体もはっきりしていない。なのに何故か気持ちは高揚していた。……自分の中に芽生えた自身への疑念は、昂る熱に溶かされ、消えていった。

***

 彼女と共に駆け抜ける。立ち塞がる敵は切り捨て、薙ぎ払い、何とか敵本隊を撤退させることが出来た。
 俺も彼女も致命的な傷は負わなかったものの、なまえは剣を地面に突き立て、それを支えにしてどうにか立っていられるという状態。俺も立っているのがやっとだった。

「帰ろう、なまえ」

 覚束ない足取りでなまえに近付ながら話しかけると、彼女は顔を上げた。ぼんやりとした瞳が俺を捉える。

「……帰る? あぁ、そうか。帰らないと……いけないんだったね。彼の体も、連れて行かないと……」

 剣を引き抜き、よろよろと歩き出したなまえだったが、数歩歩いたところで体勢を崩した。咄嗟に抱きとめ支えるが、腕の中の彼女はぐったりとしている。

「彼の亡骸は兵たちに任せよう。だからもう無理はしないでくれ! 君に何かあったら、俺は……!」
「ごめん。そう、だね。彼のことはみんなに任せるよ。でも、私は大丈夫だから。一人で……歩けるから」

 なまえはそう言うと、もう一度歩き出した。彼女の言う「大丈夫」から、突き放すような何かを感じて、引き留めることも、肩を貸すことさえも出来なくなっていた。
 なまえの背を見つめながら、その後に続く。風に乗って「これからは一人で歩いて行かないと」という言葉が切れ切れに聞こえてきた、気がした。

***

 戦から戻ると、なまえは何事もなかったかのように気丈に振る舞っていた。皆、夫を亡くした彼女が無理をしているのではないかと案じていたが、ひたすらに前だけを見つめるなまえの瞳を見た者は、彼女は本当に強い人間なのだと考えを改め始める。ただ一人、俺を除いて。

「なまえ……一体どこに……」

 女官や文官たちに尋ねてはみたが、なまえの行き先を知る者はいなかった。城内、城周辺も探し回るも見つからず、途方に暮れながら森の入り口の前で立ち尽くす。……一つだけ、彼女の行きそうな場所に心当たりがある。だが、この先の森のどこかにあるということしか知らない。もし知っていたとしても、行く決心はつかなかっただろう。その場所は……彼が、眠る地。
 あの戦いから、ひと月が経とうとしていた。その間、出来るだけなまえの傍にいるよう努めた。少しでも支えになれればと。けれど彼女は、弱音も真情も吐露することなかった。だから余計に心配になる。なのに、何も出来ないなんて……。

「……いや、まだ俺にも何か出来ることがあるかもしれない」

 頭を振り、もう一度なまえを探そうと踵を返したその時、背後の茂みが鳴る。もしかしてと淡い希望のようなものを胸に振り向くと、思い描いていた人物が茂みから姿を現した。

「あれ? こんな所でどうしたの、徐庶」

 何とも言えない気が抜けるような笑顔を前に、ほっと胸をなで下ろす。

「『どうしたの』はこっちの台詞だよ。でも、見つかってよかった……心配してたんだ」
「あ、そういえば誰かに行き先とか、何も言ってなかったね……。ごめん」
「いや、いいんだ。君が無事なら、それでいい」
「でも、それでも……ごめん」

 悲しげな瞳を湛えながら微笑む彼女を見れば、今までどこにいたのかなんて、すぐに分かる。でも、そうだとは思いたくなくて、会話を終わらせるように「帰ろう」と口にしようとした。

「少し、会いに行ってたんだ。彼に」

 なのに、告げられてしまった。他の誰でもない、なまえの口から。

「本当は全部終わってから、報告も兼ねて会いに行こうと思ってたんだけど……でも、いつの間にか足が向いちゃって」
「そう、か」

 今すぐにでも、耳を塞いでしまいたかった。そうすれば、まだ知らないままでいられる。

「……彼の前に行けば、きっと立ち止まって泣いてしまうって思ってた。だけど、泣けなかったよ」
「……どうして?」

 何故、訊いてしまったのだろう。本当は答えなんて、分かりきっているのに。

「今も、彼がいないって思うたびに胸が苦しくなる。でも、私の中にいる彼は……いつも笑っているから、思い出すと笑顔ばかり浮かんでくるから、だから泣かないで、笑っていられるんだと思う」

 まるで自分に言い聞かせるように語るなまえの瞳は僅かに潤んでいた。彼女は強くない。そう、思っていた。思いたかった。だが決して弱いわけではなかった。なまえは常に強くあろうとしている。そしてそんな彼女を支えているのは、唯一の人。

「だから……一人でも、大丈夫」

 なまえはそう言うと、どこかぎこちなく笑って見せた。そして、何かを固く決意したような面差しをしている。その瞬間、全てを悟った。
 彼の亡骸を見て安堵したのは、なまえの隣が空いたと、俺にも機会が巡ってきたのだと思ったから。その直後に背筋が凍ったのは、そんな浅ましい自分に気が付いたから。
 なまえと共に駈けて高揚したのは、彼女の隣にいるのだと実感した気になっていたから。
 なまえが俺に「死なないで」と言ったのは、俺個人に何か思いがあったわけではなく、きっと、もうこれ以上誰かを失いたくなかったから。
 なまえの「これからは一人で歩いて行かないと」という独り言に聞こえない振りをしたのは、自分では彼女と寄り添うことが出来ないという現実を直視したくなかったから。
 死した想い人に敵うはずがない。勝ち負けではないとは分かっている。でも、記憶は、思い出は、たとえ時の流れと共に色褪せたとしても綺麗なまま、なまえの心に刻まれている。彼は彼女の思い出の中で生き続ける。これからも、ずっと。その中に俺が入り込む隙間など、どこにもなかった。
 そしてこの先、なまえが誰かと寄り添い歩くことはないのだろう。彼女は、失なくしたものを誰かで埋めようとも、彼以外の人間を隣に置こうとも思っていない。すでに一人で歩む覚悟を決めてしまっていた。
 なまえが彼を失った瞬間に、俺は……永遠になまえを失っていた。

「徐庶……? どうかしたの?」
「……俺は、今どんな顔をしてる?」
「何だか……今にも泣き出しそうな顔してる」

 彼女は気遣わしげな表情で俺を見つめている。そんな資格、俺にはないのに。それでも、君の瞳からは、俺はそう映るのか。

「泣き出しそうになるほど、君が元気でいてくれることが嬉しいから、だよ。だから、そんな顔しないでくれ」

 瞬時に作り上げた笑みを顔に貼り付け、嘘を吐いた。卑しく、浅ましい自分を隠すために。上手くいったのか、なまえは「何それ」とからかうように笑っている。そんな彼女を見て、また俺は安堵した。俺はまだ、彼女の近くにいられるのだと。

「徐庶が変なこと言うから笑っちゃったよ。でも、ありがとう」
「俺は、何もしてないよ」

 ただ、嘘を吐いて笑っただけで、何も出来ないでいる。居たたまれなくなり、今度こそ「帰ろう」と口にする。あの日……なまえを失った日と同じように。

「そうだね、戻ろうか」
「……ああ」

 なまえが俺の脇を通り抜けて行く。
 彼女が「帰ろう」と言うことはなかった。それは帰る場所が、城やみんなの元ではなく、彼の元こそがなまえの本当に帰る場所だと物語っているようで……焼かれるような重苦しい痛みが胸に広がっていく。その熱は、まるであの日の昂りが姿を変え、この身を焼いているようだった。
 振り返り、先を歩くなまえの背中に小走りで追いつく。そして彼女の後ろを三歩ほど下がって歩く。この間隔が、俺に許されている距離。

「俺に出来ることがあったら、何でも言ってくれ。君の力になりたいんだ」

 縋るような思いでなまえの背に告げると、彼女は振り向き微笑んでくれた。だが、本当の自分を隠して告げたその言葉は、あまりにも欺瞞に満ちていた。
 自分の醜さを知っても、君を失ったと気付いても、まだ俺は……君の傍にいたい。


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