06.願う /馬岱


 見晴らしのいい小高い丘。座りながら突き抜けるような青空を見上げると、清爽な風が吹き渡る。背を反らし、手を空へ突き出すように伸びをしながら清らかな空気を胸いっぱいに吸い、ゆっくりと息を吐いた。
 麗らかな日差しの心地良さにぼうっとしていると、不意に温かな何かに視界を覆われる。

「だーれだ?」

 無邪気で明るい声色。安らぎを与えてくれる聞き慣れたその声の持ち主は一人しかいない。

「なまえでしょ? 聞いただけですぐに分かるよー。もしかして、俺の真似?」
「そう、馬岱の真似。でもやっぱり分かちゃうよねー、残念」

 彼女は残念という言葉とは反して、楽しげな悪戯っぽい笑みを浮かべながら俺の隣に座った。
 俺も時々、なまえにこんな悪戯をやったりする。声音を少し変えてみたりしても、彼女にはすぐに言い当てられる。当然といえば当然なのだが、自分の名前を呼ばれる時、安堵感に包まれるのが好きだった。特になまえに名前を呼ばれる、その瞬間が。まさか逆にやられるとは思っていなかったけれど。

「それで、どうしてここへ?」
「私は……散歩してたら馬岱の姿が見えたから。馬岱はどうして?」
「俺はここが好きだから。ここでぼーっとするの、好きなんだよね」
「確かに、良い所だね。風も日も気持ちいいし」

 なまえはそう言って伸びをした後、どこか物憂げな眼差しで遠くを見つめていた。

「若とは上手くいってる?」
「うん! 馬超殿は優しいお方だから、いつも気遣ってくれるし、いつもお世話になりっぱなしだよ」

 笑って返したなまえだったが、徐々に笑顔は曇り、瞳にまた憂いが帯び始める。
 やっぱり、と言うべきなのか、なまえの笑顔を曇らせているのは、若に関係していることにほぼ間違いないのだろう。なまえの笑顔を曇らせる……彼女にそれだけの影響を与えられる存在は、きっと、若しかいないから。

「……若と何かあった?」
「えっ……」

 やはり図星だったのか、こちらに視線を移した彼女は驚きで目を見開いている。

「見てたら何となく分かるよ」

 なまえといると楽しくて幸せで、気が付けばいつも目で追っていた。彼女をよく見ていた分、若となまえが想い合っているのはすぐに分かった。お節介だけど、二人の仲を取り持ったりとかもしたりして。さすがに若となまえが婚姻するってなった時は驚いたけど、でも二人は仲が良くて、お似合いで……だから本当に嬉しくて、心から祝福したのをよく覚えている。

「愚痴でも、相談でも、何でも言ってよ。何でも聞くよ」

 俺が二人にしてあげられることは、それくらいのものだから。
 躊躇いの表情を見せたなまえだったが、しばらくしてぽつぽつと話し始めた。

「何かあったわけじゃなくて……。馬超殿は本当に優しい。でもだからこそ、私はあの人の役に立てているのか、何が出来るのか……分からなくなってくる時があるんだ」

 なまえは膝を抱えて目を伏せた。
 彼女の言葉一つ一つに、若への想いが込められているのが分かる。誰が悪いわけでもない。なら、きっと。

「若はなまえから、いっぱいのものをもらってるよ」

 俺と同じように、色んな幸せな思いを。
 顔を上げて「ありがとう」と言ったなまえの表情は幾分か晴れている。けれどまだどこか、不安を滲ませているように見えた。何か良い方法はないものかと思案し、あることを思いつく。

「なまえ、ちょい両手出してくれる?」
「えっと、こう?」

 不思議そうに俺を見つめながら差し出されたなまえの両手を、俺の両手でそっと包み込む。そしてその手を額に軽く付けて、目を閉じた。

「君と若がこれから先もずっと一緒に、幸せでありますように」

 なんてことはないお遊びのような、ただのおまじない。そして、一番の願い。
 額から手を離して目を開けると、穏やかな笑顔のなまえが映る。彼女を見て顔がほころんだ。

「大丈夫だよ。役に立ってるとか、立ってないとか、何が出来るかとか、心配しなくたっていいんだ。傍にいてくれるだけで、それだけで、若はきっと幸せだから。若には……なまえが必要なんだ」

 なまえの手を握りしめ、彼女の目を真っ直ぐに見つめる。言葉に嘘も偽りもないのに、胸の辺りがほんの少し痛んだのは何故だろうか。

「馬岱……ありがとう。馬岱に『大丈夫』って言ってもらえると、本当に大丈夫だって思えてほっとするよ」

 そう言うとなまえは優しげに微笑んだ。胸に温かな思いが広がり、痛みが解けていくのが分かる。俺はいつもこうして、彼女からもらっているんだ、幸せな思いを。
 ゆっくりとなまえの手から自分の手を離す。一抹の寂しさが心を掠めた。
 不意にどこからか馬蹄が地を蹴るような規則正しい音が聞こえ、なまえと一緒に辺りを見回してみると、遠くから馬に乗った何者かが目に入る。

「あれって、もしかして……」
「馬超殿!」

 なまえは俺が言うよりも先にその名を呼び、勢いよく立ち上がった。名を呼びながら手を振るなまえの顔は、まるで花が咲いたかのように喜色に溢れていた。
 若もこちらに気付いたようで、大して間を置かずに俺たちのいる場所まで着いた。彼女は、馬を降りた若の元へ駆け寄っていく。

「なまえ、馬岱と一緒だったのだな」
「まあ、偶然なんだけどね」
「うん、散歩していたら偶然馬岱と会って。馬超殿は馬岱を探しに?」
「いや、なまえを探していたんだ。一緒に遠乗りに行こうと思ってな、今からでも行かないか?」

 若はなまえに手を差し出した。突然のことで驚いたのか、なまえは俺に視線を投げかけてくる。それ対して目配せをすると、彼女の驚きの表情は喜びの色に変わっていき、「はい!」と元気のいい返事をして嬉しそうに若の手を取った。

「ほんとにお熱いね、二人とも! 俺のこと、忘れないでよー?」
「な、何言ってるの馬岱……!?」

 少しからかうとなまえは顔を上気させた。対して若は意に介していないようだった。事実なので気にすることもないということだろう。

「馬岱はどうするんだ?」
「んー、俺はまだここにいるよ。無理に二人について行って邪魔をするほど、野暮じゃないしね」
「……世話を掛けてすまないな」
「若が謝らなきゃいけなくなるような世話なんて、掛けられた覚えはないよ。俺がそうしたいからしてるってだけでね」

 二人の仲を取り持つのも、幸せを願うのも、俺にとって二人が大切な人だからだ。
 若はどこか満足げに「そうか」と相槌を打つと、なまえに手を貸し先に馬に乗せた。そして彼女の後方に素早く乗り、俺に向き直る。

「それでは、行ってくる」
「行ってらっしゃーい!」
「あの、馬岱……本当に、ありがとう」

 礼を言ったなまえの眩しいほどに輝いた笑顔。初めて俺に向けられたその笑みが、俺の時を止めた。それはほんの一瞬のことだったというのに、言葉に詰まり、誤魔化すように手を振って見送ることしか出来ない。
 離れていく二人をただ静かに眺める。笑い合う若となまえは本当に幸せそうで、思わず笑みがこぼれた。同時に悟る。彼女のあの笑顔は、俺にではなく、若に向けられたものだったのだということに。なまえの笑顔を曇らせることが出来るのが若一人だけなら、なまえを照らし、真に笑顔に出来るのも、若ただ一人だけ。
 ふと自分の手を見て、両の手を組む。

「若となまえがこれから先もずっと一緒に、幸せでありますように」

 もう一度同じ願いを口にして、祈る。永遠に続く幸せなど、どこにもないと知っている。誰かが願いを聞き届けてくれるわけでもない。それでも――。
 両手を離し、一人立ち尽くす。暗く冷たい孤独が心に重くのしかかってきた。

「二人とも、どうか……生きて、幸せでいて」

 願いを言葉にすればするほど、孤独は浮き彫りになっていく。
 俺の視界を覆った心地良い温もりは遠く、心の中で彼女の名を呼ぶ。肌を撫でていた優しい風は止み、突き刺さるような静寂だけが耳に響いた。


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