雨音/馬岱 1/2


 降りしきる雨の中、もうすぐ消えるであろう人間に話しかける。

「君に恨みはないけど、これも仕事なんでね。だから……消えてもらうよ」

 雨音に掻き消されて、ただの独り言になった。


 また一人、なまえの邪魔になるものを消した。目の前に横たわっているのは、ただの肉塊。ほんの少し前まで彼女の臣下だった。
 こんな光景を、もう何度見ただろうか。数えるのも馬鹿らしくなるほど、人を切り捨ててきた気がする。
 全てなまえからの命令。それを遂行するのが俺の仕事。…何の疑問も抱かなかったわけじゃない。ただ…なまえが望むなら、叶えたかった。
 ふと自分の手を開いて見てみると、血がべっとりと付いていた。手の平に幾つもの雨粒が落ちてくる。どれだけ雨に濡れても落ちることのない赤。

「正義って……なんだろうね」

 手に付いた赤を握り締めながら、もうここにはいない誰かに問いかける。だが、聞こえてくるのは地面を叩く雨の音だけ。誰も、答えてはくれない。

 なまえは変わってしまった。昔はとても心優しい人だった。……いや、元から“そういう”人間だったのかもしれない。自分が理解出来ていなかっただけで。
 俺自身も随分変わった……気がする。良い意味かは、自分でも分からない。ただ昔のようには………頭を振って思考を停止させる。
 冷たい雨粒が頬を伝い落ちていく。温かなものが混じって落ちていったような気がしたが、全て心の隅に追いやった。
 いくら考えたところで、何も変わりはしない。変えられはしない。

「……帰ろう」

 なまえの元へ。

***


 誰も居ないのを確認して城に戻る。相変わらず雨は降り続けていて、城の中も薄暗い。そちらの方が色々と都合が良いと、一歩踏み出した瞬間─

「帰ってたの? 馬岱」
「……!?」

 聞き慣れた声であったのにも拘らず、驚いてしまったのは不意に背後から声を掛けられたせいか。それとも……先ほどまで考えていたことのせいか。誰にも気付かれないよう、細心の注意を払っていたはずだったのに。

「うわっぷ! なんだなまえか、びっくりさせないでよー」

 焦りを気取られないように努めて明るく振舞う。彼女に対してはまるで意味のないものだろうが。

「そう、それはごめんなさい。それで、首尾の方は?」

 興味なさそうに形ばかりの謝罪を述べた後、仕事の成果を尋ねてくる。なまえは俺が一瞬焦ってしまったことを見透かしている。触れないということは、興味がないということ。
 どうして……どうしてこうなってしまったんだろう。

「馬岱? 聞いているの?」
「え、ああ、ごめん。ちょっとぼーっと……」
「疲れているのなら、また今度でもいいけれど……」

 なまえは心配そうに俺を見つめてくる。時折見せる今の彼女の優しさに、昔の彼女の面影を重ねてしまう。同じ……なまえなのに。

「ありがとう。でも、心配しなくても大丈夫だよ。ちゃんとお仕事もしてきたしね」
「……よかった」

 安心したようにふっと柔らかな笑みを浮かべたなまえを見て、また昔を思い出してしまう。今の笑顔は俺の身を案じてのもの。……希望的観測をしていることは分かっている。
 どうしても、昔のなまえの姿が脳裏を過ぎる。だから……訊かずにはいられなくなってしまった。

「ねぇ、なまえ。どうして……こうなっちゃったのかな?」
「? こうって、どういう意味?」
「君は臣下のことも、民のことも大切に思っていたはずでしょ? なのに今は……」

 自分に少しでも不信感を持った臣下は切り捨て、民には圧政を強いている。

「いつから……こんな風に、なったのかな?」
「……私は……最初から“こういう”人間だよ」

 少しの間を置いて答えたなまえは、手を広げ笑っていた。今にも泣き出しそうな、悲しげな瞳をしながら。
 いつも巧みに人を騙しているのに、どうして今、騙してくれないの。どうしてまた……昔と同じような目を、するの。

「……そっか」

 同じように笑って返す。ちゃんと笑えているだろうか。上手く騙せているだろうか。だが、彼女の瞳は未だに悲しみを帯びたままで……それが答えなのかもしれない。
 少しでも、その悲しみを和らげることが出来たら。少しでも、昔のように戻れたらと――

「…君がどんな道を歩もうと、俺はなまえの傍に居るよ。俺にはもう、なまえしか居ないから」

 今も昔も、きっとこれからも。変わることのない想いを告げる。

君を愛してるよ

 誓いにも似た最後の言葉は、なまえに届く前に、雨音に溶けて消えていった。


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