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私はあなたに完全敗北

 肉と野菜の焼ける音、美味しそうなにおい、口の中に広がるジューシーな旨みと食感……。ビールを仰げば視界に広がる雲ひとつない晴天。
 中庭で展開されているバーベキューは、もはやバーベキューというよりパーティーだ。倉庫から引っ張り出されてきたアウトドア用のテーブルには様々な料理が置かれていて、椅子も縁側も満席状態。大広間に面した場所でやっているので中で涼みながら楽しんでいる男士も多い。
 肉焼きや野菜の切り分けなどの担当ができているが、作業している男士もものすごい勢いでつまみ食いをしているので代わる必要はなさそうだ。
 わたしは縁側に腰掛けながら、文字通り男士たちに食べ物を貢がれて過ごしていた。ビールがなくなると目敏い男士たちがすぐに持ってくるのも、肉や野菜が焼けると持ってきてくれるのも、どちらもすごくありがたかった。……まあ、手伝おうかと立ち上がると主は座っててと肩を押されて縁側に戻されるのだが。

「大将! 追加のお肉、焼けたよ!」
「ありがとう信濃」
「主君、お野菜もあります!」
「秋田もありがとね」

 焼けた肉とみずみずしい野菜を乗せたお皿を持って来てくれる可愛い短刀の頭を撫でる。二人は嬉しそうに表情を綻ばせていたが、すぐに他の粟田口兄弟に呼ばれて行ってしまった。小さな背中を見送りながらまたお肉を一口。カルビもホルモンもキャベツもトマトも美味しい……。
 暑い中、熱い火を囲んで盛り上がる。なんだか昔を思い出す。現世にいた頃の、今とは違う普通の暮らしをしていたあの頃を。
 シャキッとレタスを齧った時、ふと脳裏によぎったバーベキューの目的に声が出そうになった。
 な、なにバーベキューの楽しい空気に流されてるんだ! わたしが今回これをやろうとした理由は、刀剣男士を一箇所に集めて漏れ出た神気を浴びることだろう!
 一人一人から自然と流れる神気の量は微弱だが、一箇所に集まれば話も変わってくる。三本の矢と同じ。現に神気のことを自覚した今、ちょっと気分がいいような?
 とても騒がしいのに、波に揺られているみたいで心地良い。
 ……それにしても、バーベキューが始まって早くも一時間は経過しただろうに、未だに焼くものも食べる男士も減らないのは驚きだ。
 そりゃあ肉も野菜も米もたくさん買ったし、それ以外にも歌仙や光忠たちが作ってくれた料理もある。小豆と短刀たちもデザートを用意してくれた。本丸で栽培している野菜も含めれば、今日のバーベキューで出されたものはすごい量になるだろう。
 顕現の際に審神者が与える人間的な要素の量にもよるが、基本的に刀剣男士は食事を必要とはしない。しかし味覚を得て食べることが好きになった者も多く、宴会や今日みたいなパーティーになると胃袋がブラックホールになるみたい。
 わいわいとはしゃぐみんなを横目に、わたしはまだ食べ物の乗った野菜を縁側に置く。
 ……ちょっと亀裂の様子を見てこようかな。
 立ち上がればタイミングよくフルーツポンチを運んできた小豆長光が声をかけて来た。

「あるじ、どちらへ?」
「あー……えーと、お手洗い」
「そうか。なつにぴったりの、みずみずしいすいーつをもってきたのだが」
「美味しそう! 戻ったら食べるから置いといて!」
「たくさんあるから、いそがなくてもだいじょうぶだぞ」

 大きなガラスの容器に浮かぶ果物とゼリーは陽光を受けてキラキラ光っている。まだまだバーベキューは終わらなさそう。その方が今のわたしには都合がいいからとても嬉しい。
 厨房の方からから小鉢とスプーンを持った短刀たちがくるのが見え、わたしの分をとっておくように伝えてその場を離れる。向かうのはトイレではなく裏の馬小屋。万が一を考えて、一応トイレに行くていで遠回りをしながら目的地を目指した。
 誰でも履ける用に置いてあるサンダルを縁側の下から取り出して雑に足を入れる。基本的に刀剣男士のために置いてあるものなのでわたしには少し大きかった。
 歩きにくさを感じながら馬小屋の裏へ行くと、あからさまに何か隠してますよという置き方のバケツと落ち葉の山があった。
 どれどれと葉の山を避けると手のひら大の亀裂が地面に入っていて深い溜息が出た。
 話には聞いていたから覚悟はしていたけれど、見てしまえばやはり落ち込む。がっくりと肩を落とし、葉の山を戻した。
 まだまだ神気が足りない。もう少しあの場にいないと。
 ぽんぽんと綺麗に山を作ってバケツを横に置き直し、洗面所で手を洗ってからみんなのいる縁側に戻った。

「あ」
「……戻ったか」

 廊下を曲がってわたしが座っていた場所を見れば、置かれたお皿の隣に稲葉江が座っていた。すぐに駆け寄って横に腰を下ろす。お肉などが乗ったお皿の横にフルーツポンチの小鉢が置かれていたので、取り分けてくれた短刀たちには後で礼を言わなくては。
 すっかり温度の低くなったお肉を野菜と共に頬張る。通りかかった福島光忠が流れるようにからになったお皿を回収していったので長船派のスマートさに思わず「おお」なんて声が出た。
 主食の後はデザート。フルーツポンチに手をつけると、隣でお酒を飲んでいた稲葉江がフッと笑った。

「まだ足りぬか」
「美味しいものはいっぱい食べなきゃだよー。せっかく買ってきたんだしさ。稲葉江ももっと食べな」
「甘味は好かん」
「果物は甘味に入るっけ?」

 ほらほらとキウイやオレンジを掬って差し出すが彼はプイと顔を背けるばかり。キャップの鍔で隠れた顔を覗き込むと彼は視線だけをこちらに向けて肩を竦ませ、渋々という態度でスプーンに乗った果物を口にした。サイダーを使ったフルーツポンチは、シュワシュワした炭酸の刺激と甘み、それから果物の酸味が程よく合わさってとても美味しかった。
 ……あっ、自然な流れであーんしちゃった。あと間接キスも。
 しかしそんなことを意識しているのはわたしだけ。稲葉江はなんてことない顔のまま「やはり甘い」と呟いた。同じようにわたしも果物を掬って食べるが、言うほど甘いだろうか。

「甘いかな? 結構すっぱい気がする」

 稲葉江にあげる際にサイダーを多く掬いすぎたのかもと思いつつまた一口。
 デザートは別腹とはよく言ったものだ。お肉も野菜も結構食べたけど、まだ少し胃袋に余裕がある気がする。
 あっという間にぺろりと完食。おかわり欲しさに立ち上がり中庭に並ぶテーブルへ近づくと、同じようにフルーツポンチのおかわりをしている男士がいた。
 本人曰く、食べる専門の肥前忠広だ。銀色のお玉で掬われるシュワシュワでカラフルなデザートを、わたしの持つ小鉢よりもだいぶ大きなお皿に入れていく姿はなかなか可愛い。
 ねぇと声をかけると無言で振り向き、そのまま無言でわたしの小鉢にもフルーツポンチを入れてくれた。終わったらお玉貸してって言おうと思ってたのに、ついでにやってくれるなんて。

「えへへ、ありがとー肥前」
「ん」

 お礼を残して再びわたしは稲葉江の隣へ戻る。
 彼は彼で別の男士からお皿とお酒を受け取り、静かな動作で食べたり飲んだり。動作の一つ一つが綺麗だなあなんて思いつつ、わたしもまたポンチを口に運ぶ。
 照りつける日差しとそれに見合った気温。しかし手元には冷たいデザート。
 このまま……このままもう少し。
 わたしの目論見なんて知らないままみんなが楽しそうに過ごしている。自身の失態を悟られないため、そして普段通り≠取り戻すために、みんなを利用している。
 亀裂を知るのは清光と安定だけ。二人とも口は固い。大丈夫。
 このまま、このまま。そう、このまま上手くいくはずだ。
 果物とゼリーを食べ終え、甘いサイダーを飲み干した。稲葉江がこちらを見つめる。

「いっぱい食べたから休憩」

 それに神気の吸収に集中したい。肌に感じる様々な神気を意識して取り込みたい。
 暑いもの、涼しげなもの、荒々しいもの、穏やかなもの……中庭に漂う神気はとても濃くて、意識するだけで肌に感じる。全身に浴びるってこういう事をいうのだろう。
 目を閉じると感覚が鋭くなって、より神々しい力を感じる。このまま、このまま。
 しかし満腹で目を閉じると途端に眠気がわたしを襲う。欠伸を噛んで抑えるが、隣にいた稲葉江には丸わかりだったらしい。
 そっと肩を抱き寄せられて体が斜めになった。稲葉江の肩に寄りかかるような姿勢になり、そんな事されたら普通に寝ちゃうよ……と思いながら少しずつ眠りに落ちていった。堂々とイチャつくなと揶揄う声が聞こえてきたけれど、瞼を開けるのが億劫だった。



 ぱち、と目が覚め、最初に目に入ったのは障子の向こうのオレンジ色だった。
 結構寝てたな……と上半身を起こすと、体に掛けられていたブランケットが落ちる。
 どうやら本格的に眠ってしまったあとは別の場所に移動させられたようだ。ここは大広間の横の和室だろう。なんて事ない、好きに使えるように設けられた、座布団以外は何も置いていない部屋。それこそよく昼寝に使われている気がする。
 わたしが起きた事で、周りに転がっていたとある男士がほぼ同じタイミングで目覚める。起こしてしまったかと遠慮がちに謝れば、聞いているのか聞いていないのか、眠そうな返事になっていない返事がこちらに向けられる。
 というか、いるのが犬と猫なんだが。

「おはようございます、頭。よくおねむりで……」
「おはよう五月雨江。眠そうだね」
「はい、まだ眠いです。……雲さん、南泉、かしらがおめざめです」

 眠気の飛ばない五月雨江が隣の村雲江の肩を軽く揺する。しかし村雲江の口から漏れるのは生返事のみ。南泉に至っては起きる素振りすらない。
 まあ、いいか。
 五月雨江の頭を撫でてやると、彼は気持ちよさそうに、しかし恥ずかしそうに瞳を伏せながらわたしの愛でる手を享受する。その瞼が再び重そうに落ちるのを見て自然と笑みが溢れた。

「まだ寝てなよ」
「宜しいのですか……?」
「お昼寝を咎めるひとなんかいないよ。好きなだけ寝な」

 撫でる手を止めぬまま囁くように言えば、五月雨江は誘われるままゆっくりと体を畳に倒した。
 立ち上がる前に村雲江と南泉一文字の頭も撫でればそれぞれ違った反応を見せる。口元を緩めたり、手に擦り寄ってきたり。わたしのこの刀たちは、他の本丸より少し動物的な要素が強いと思う。
 ブランケットは五月雨江にかけた。他の二人と違ってお腹が出ているし。
 そっと襖の音を極力立てないように部屋を出る。ガラス戸の向こう側に見えた中庭には誰もいなくて、昼間の喧騒が恋しくなった。真横の大広間もいつもなら誰かしらいるのに、今は一人もおらず静かで。
 無音の空間。畳に伸びる自分の影がとても浮いていて少し怖くなった。
 絶対に誰かいる場所を求め、はじめに向かったのは厨房だ。廊下を早足で進む。
 近づくにつれて話し声と軽く食器のぶつかる音が聞こえてきて安心した。ひょっこり顔を覗かせると、気配を感じたのだろう歌仙と光忠が振り向いて微笑んだ。

「おや、起きたのかい」
「寝ちゃってごめん。まだ手伝える事ある?」
「残念ながらこれで片付けは終わりだよ」

 手拭いで濡れた手を拭く二人は、エプロンを脱いで側にあった椅子の背もたれに掛けた。
 何も手伝えなかったか……と落ち込むわたしに、気にしないでと声をかけてくれる二人。審神者になってウン年も経つのに主としてもっとしっかりしなければ……と思う今日この頃である。
 壁にかけられている時計をちらりと見た瞬間、ぐぅと控えめにお腹が鳴った。お昼いっぱい食べたのに夕方になった側から……。
 これも霊力減少の影響なのだろうか? もしかすると昼の眠気も……?
 胃の辺りを抑えながら歌仙と光忠を見れば、二人は互いに顔を見合わせて笑っていた。そういえば……いつもならこの時間になると当たり前のように置いてある夕飯のお皿が台の上に全くない。そんなわたしの疑問は、わたしが口にする前に察したのだろう。光忠が「今晩はね」と話しながら冷蔵庫へ向かった。

「お昼のものが結構残ったから、各自で好きなようにしてって言ってあるんだ」
「……残ったんだ」
「それだけ主たちが買ってきたものと、ここで採れた野菜が多かったって事だよ」

 桑名くんのおかげで採れる野菜も美味しいし、と言葉を続けながら光忠が出してきたのは、キャベツやキュウリの浅漬け。それから歌仙がご飯とお肉を電子レンジに入れるのが見えた。
 わたしの分を避けておいてくれたのだろうか。遠慮なく厨房にある休憩用の椅子に座ると、ぱぱっと目の前のテーブルに夕飯が置かれていく。全部が揃う前に箸を握って「いただきます」と食べ始めると、歌仙が苦笑いしながらレンチンを終えたものを運んできた。

「そんなにお腹が空いていたのかい」
「うん! あ、これお昼には食べられなかったやつだ。おいしー!」
「よかったね」

 熱々の白米とお肉、あっさりした漬物。語彙力のないわたしは味わいながら美味しい美味しいと言い続けることしかできない。
 歌仙と光忠がそれぞれ別のことを始めたので、二人の背中を見ながら昔のことを考えていた。
 歌仙兼定も燭台切光忠も早い段階でわたしの本丸にやってきた。二人は、当時本丸にいた刀剣男士の中では飛び抜けて家事を覚えるのが早かった。特に料理は支度も、作るのも、片付けも何もかもが完璧だった。彼らが来るまでの日々は今では思い出せないが、とても褒められる食生活はしていなかったと思う。
 人数が少なく、作るものも多くなかったために小さかった厨。今では厨房と呼ぶにまで拡大され、歌仙と光忠を中心に使いやすく調整済み。あらゆる刀剣男士の手を借りて食事の支度がされている。
 もぐもぐと夕飯を食べ進めながら二人の背中を見ていると、不意に歌仙が困ったような顔で振り向いた。どうしたのと首を傾ければ、彼は恥ずかしそうに頬を掻いた。

「主、そんなに見つめないでおくれ」
「ごめんごめん。二人の背中が広くてつい」
「もう……全く、何を言っているんだか」
「ふふふ。デザートにプリンがあるよ。食べ終わったら出すね」
「またきみはそうやって甘やかす……」

 しかし、ダメだと言わない歌仙もなかなかわたしを甘やかしている。本人に自覚はあるのだろうか。
 歌仙と光忠がわたしの生活を支えているというのも過言ではない。季節の変わり目に政府から送られてくる栄養に関する教本を見ながら、二人は毎日献立を考えてくれている。わたしが苦手なものは極力出さないようにしたりして。あとは、苦手で食べられるように工夫してくれているのも知っている。
 歌仙は食器を拭き、光忠は教本とメモと睨めっこ。静かな厨房には穏やかな時間が流れていた。

「ねえ。歌仙、光忠、いつもありがとう」

 美味しいご飯も、丁寧な家事も、それ以外の全部も。急にこんな事を言われてびっくりするだろうか。急に感謝の気持ちを伝えたわたしの方も少し恥ずかしくて視線をご飯に落とす。
 黙々と食べ続けているが、なんだか先程まで聞こえていた食器のぶつかる小さな音や、ページを捲る音がなくなった気がする。
 恐る恐る顔を上げると、歌仙と光忠がわたしをじっと見ていた。慈しむような穏やかな眼差し。そんな目で見られてドキドキしない人間なんかいない。

「そ、そんなに見ないでよ」

 今度はわたしが照れる番だった。顔を赤くして夕飯を食べる主を、じっと優しい目で見つめる刀剣男士が二人。
 側から見ると変な世界が広がっていたのかもしれない。お酒を取りに来た膝丸が怪訝な顔をしながら「なんだこの空気は」と引いていた。



 お風呂上がりのほかほかな体をそのままに、わたしは夜の庭へ出ていた。
 夏の夜に浴衣。涼しくて過ごしやすい組み合わせだ。しかし内心は涼しさとは真反対。
 あまり音を立てないように歩きながら向かうのは馬小屋の裏。あの亀裂がどれだけ塞がったのか確認しておかないと。
 男士たちに割り当てている部屋と馬小屋は近くもなく遠くもない。それに既に眠っている者も多いだろう。まだ呑んでいる者も多いだろう。
 誰にも見つかりませんようにと祈りながら馬小屋の裏を覗き込む。うん、昼に作った葉の山に変化なし。わたし以外はここに来ていない証拠だ。
 駆け寄って早速ガサゴソと山を崩すが……。

「うへぇ」

 昼に見た時よりもかなり小さくなっている。小さくなってはいるのだが、まだしっかり割れてる!
 指先でなぞればピリリとわたしと同じ霊力と、政府から供給されている霊力を感じる。亀裂の向こうはバグを起こしている端末みたいに時折ノイズが走っている。オカルトちっくで摩訶不思議な光景は嫌いではないけれど、それとこれとは話が別だ。
 さすがに連日のバーベキューは博多だけでなく歌仙や光忠が許さないだろう。宴会だっていつものようにはならないはずだ。
 こうなればやはり、また大人数を同じ空間に集めるしか……。短刀や脇差、打刀を集めて大広間でゲームでもするか? 太刀や大太刀、槍、薙刀を稽古場に集めて手合わせをさせるか? 剣と茶会も悪くはなさそうか?
 まあ、ともかく、寝て起きたらまた考えるか。
 葉を集め直して再び山を作る。全く、霊力という不可視なエネルギーには困ったものだ。いやこれが減るのは全部わたし自身のせいなんだけどね。

「はー……帰って寝よ寝、よ……!?」

 軽く汚れた手を払いながら振り返ると、見慣れた黒に身を包んだ存在が立っていて心臓が止まるかと思った。大声を出さなかったわたしを褒めてほしいレベルだ。
 パーカーに両手を入れたまま、わたしを見つめる銀灰が細められる。なんでここに。というか、もしかして、見られた?

「びっ……くり、した……。ど、どうかした、稲葉江」
「……」

 気配もなく背後に立っていた稲葉江は、無言のままこちらに歩いてくる。睨んでいるような怒っているような、そんな彼の表情に少し怯みつつわたしは山を庇うように立つ。しかし相手は刀剣男士。腕を掴まれて簡単に退かされ、その長い脚が葉の山を簡単に蹴散らしたのを見ていることしかできなかった。

「これはなんだ」
「あー……その……」

 見ればわかるでしょ春にも見たでしょとは口が裂けても言えない。
 彼は亀裂を見下ろし、その後わたしへ向き直る。日が落ちているのでキャップもフードも被っていない稲葉江を見るのは少し、その、無理だ。目元に陰がないので顔がはっきり見える。
 緊張と後ろめたさで目を見て話せない。俯いたまま言葉を濁すわたしに痺れを切らしたらしい。稲葉江の手がそっと顎を掬い、強制的に視線が上げられる。至近距離で銀灰が絡む。

「これはなんだと、訊いている」

 責めるものではない。やさしく問いかける声色に、わたしは両手を上げる。降参だ。一度深呼吸をしてから抵抗の意思がない事をアピールして離してもらう。
 月が雲に隠れて夜の闇が深まった。

「今剣から……わたしが囮になった話は聞いた?」
「ああ」
「……霊力を漏らしすぎたみたい。あとは大怪我の影響もあるかも」

 一般人を避難させるよう今剣に指示を出し、遡行軍の気を引くために左腕を切りつけて霊力を放出した。もっと細かくコントロールができれば無駄な消費をしなくて済んだのだけれど、生憎わたしは霊力コントロールがほぼ不可能。蛇口を捻った水のごとく、霊力を垂れ流し続けたわけだ。
 それに加えて横腹を突かれて大量出血。頬も切られるし。大小あれど自分でつけたものも含めたら三箇所からの出血だ。審神者として力を開花させたんだから、傷を癒すべく細胞を活性化させるのも霊力を消耗する。おかげで傷の治りも早い。
 左腕の傷跡を撫でると、指先に稲葉江がくれたブレスレットが触れた。あの日からずっと着けているわたしのお気に入り。

「……ごめんなさい」
「何故、謝る」
「二度とこんなことはないようにって誓ったのに。それもついこの間……」

 初めての霊力不足と稲葉江を部屋に呼んだ日を思い出し、深い深い溜息が出る。行為や言葉による単純なものと、誓いをこんなにも早く破った情けない自分自身、二つの羞恥が同時に襲いかかり頭を抱えた。
 しかしそんなわたしを稲葉江はじっと見下ろし、ゆったりとした動作で髪を撫ではじめた。乾かしたとはいえまだ少し濡れている髪を男らしい太い指が梳いていく。きもちいい。自然と瞼が落ちる。
 身長差ゆえかよく頭を撫でられるのだが、こうして撫でられていると当本丸の犬と猫を思い出す。あれらもわたしに撫でられている時はこんな気持ちなのだろうか。
 しばらく優しい指先を感じていると、急に髪を絡めた指が後頭部を固定した。何事かと目を開けた時には既に遅し。稲葉江の顔が目の前にあって、腰を抱き寄せられる。耳元に唇が近づいて吐息混じりの声が響く。

「我を呼べば良いものを」

 耳たぶを甘噛みされて、あ、と声が漏れる。身を捩れど力で敵うはずがない。
 急に何をと言葉を紡ぐ前に、稲葉江がわたしに口付けた。数回程の啄むような短いキスの後に、厚い舌がわたしの唇を割る。口内が簡単に蹂躙されて、わたしの両手が稲葉江のパーカーを掴んだ。
 馬小屋の裏。宵闇の中。深い口付けと二人分の吐息。
 普段なら誰か来るかもと焦るのに、今はそんな危機感は全くなかった。
 唾液と舌が絡んで、隙間がなくなるくらい体が密着して。貪るみたいな、捕食するみたいな、そんな力強くて獰猛なキスに頭がクラクラする。
 雲から顔を出した月によって辺りが明るくなった。同じタイミングで唇が離れ、奪われた呼吸を取り戻すように何度も肺を動かす。
 荒々しいキスをしてきた当の本人は、何事もなかったような顔でこちらを見下ろしていた。

「これで大分、楽になったのではないか」

 月光が照らす稲葉江の色気に当てられて、わたしの女の部分が疼く。
 後頭部を固定していた手が髪を梳き、頬に添えられた。親指の腹が目元を撫でる。息苦しさで涙が出ていたらしい。
 日焼けを知らない人外的な白い肌。そのひんやりとした冷たさは彼が人間ではないことの証だった。けれど今は、それが心地良い。
 
「あ、ありがとう、ござい、ました」

 視線を落とした地面にはもう亀裂なんてない。乾いた土と散らばる青い葉が、ここに何かがあったことを教えてくれていた。
 俯くわたしの腰に手を添え、稲葉江がこちらを気遣う。「部屋まで送ろう」その紳士的な声と眼差しは、先ほどの荒々しい口付けをしていた刀と同じとは思えないほどだった。
 きらりと、彼から貰った珊瑚のブレスレットがひかる。その上にあるはずだった一筋の傷痕も消えていた。
 ああ、もう、この体は、本当に正直だ。

 これは夏のこと。
 初めて死を覚悟するわ二度目の霊力不足になるわと短い間に散々な目にあった審神者と、それを懸命に支え、側に在る刀たちの物語。

2023.06.08