君の音色を | ナノ

『おはようございます。』
「おはようございます。朝食は出来ていますよ。」
『はい、ありがとうございます。』

いつもと変わらぬ朝。リビングに行くと、すでに朝食を終えスーツ姿で忙しなく動いている右京さんがいた。確か、そろそろ出勤時間のはず。

『あとの分は、私が片付けておきますね。』
「ああ、本当ですか。そうして頂けると助かります。」
『いえ、今日は休みですから。』

そう言うと、右京さんは「そうでしたね」と微笑む。そしてちらりと時計を見ると、少し慌てたように鞄と上着を掴んでリビングのドアに手を掛けた。

「では、行って来ます。良い休日を。」
『はい、行ってらっしゃい。』

静かに閉まるドアを見届けて、私は後ろを振り返る。

『…梓。』
「………」
『おはよう、梓。』
「…あ、おはよう蓮。」

そこにはきちんと食事の用意された食卓と、生気無くぼーっとしたまま箸を手にしている梓だけが座っていた。

『珍しいね。梓がそんなにぼーっとしてるなんて。』
「そう?少し考え事をしてただけなんだけど。」
『…何かあった?』
「!…いや、大したことじゃないよ。」

…うそ。

私が棗に椿と梓の様子を相談してから数日、いまだに二人の擦れ違いは続いていた。一緒にいるところは愚か、顔を合わせるところすら見ていない。そして昨日の夜、ついに椿は家に帰ってこなかったのだ。

恐らく梓はそれが気になって、一晩眠れなかったんだろう。

『あんまり無理しないでね…?』
「うん、大丈夫。ありがとう。」

冴えない顔色に、疲れた瞳。どう見ても大丈夫には見えないけれど、それでも梓は口元だけを動かして微笑んだ。

「…ごちそうさま。」
『え、もういいの?』
「収録に遅れてしまいそうだから。京兄には申し訳ないけど…ね。」

そう言うと、梓は自分の分の食器を片づけて、リビングから出て行った。


**********

『うーん…』

リビングに一人になったあとも、私は二人のことを考えていた。どうにかして二人を会わせられないものか…そんなことを考えていたら、ふいにカウンターに置いていた携帯が振動し始めた。

『…もしもし?』
「おう、蓮か?」
『あっ…な、棗!?』
「そうだが…どうした?」
『あ、いや…』

調度いいタイミングで掛かって来た棗からの電話に少し驚いて、声が大きくなってしまう。リビングに自分以外誰もいなくて良かったと、心底思った。

『あれ。そういえば棗、私の番号知ってたっけ?』
「雅兄から聞いたんだ。椿と梓のことで、少し聞いたことがあってな。お前に伝えてやろうと思って。」
『えっ、ほんと!?』
「まあ、これはまだ内々の話なんだが…」

そう言い淀んだあと、棗はゆっくり説明してくれた。その話によると…

今度、椿が声優を目指すきっかけになったというアニメの新作が作られることになったのだそうだ。話が出てからもちろん椿は主役をやりたがっていて、プロデューサーもそれに乗り気だったらしい。けれどいざキャストが発表されてみたら、主役の欄に椿の名前はなかった。

椿は、選ばれなかったのだ。

『…そうだったんだ。』
「ああ。」

自分が長年出たいと願っていた作品に出られないと知った時のショックは、相当なものだろう。けれど…

『それで、このことがあの二人の擦れ違いにどう関係してくるの…?』
「それがな…」
『…うん?』
「椿の代わりに選ばれたその声優ってのが…梓だったんだよ。」
『!』

そこまで言って、棗は溜息を吐く。そして私は、頭の中で今までの二人の様子にどこか納得していた。

「いい年して、こんなんでギクシャクするのもどうかと思うが…」
『んー…でも仕方ないよ。ああいう世界じゃキャストの云々はよくある話だと思うけど、兄弟同士だし…』
「…そういうもんか?」
『そういうもんだよ。椿も梓も、そういう部分じゃ繊細なんだね。』
「はあ?」
『はあ?って…』
「あいつらが繊細とか、無いだろ。充分図太く生きてると思う……あ?」
『え?』

ふと会話が止まると、電話口の向こうから遠くの方で棗を呼ぶ声が聞こえた。

「…悪い、呼び出しだ。もう切るわ。」
『あ…棗!』
「なんだ?」
『その…仕事中に、ありがとね。』
「ああ、別に気にすんなよ。礼を言うのは多分こっちの方だしな。…じゃ。」

そう柔らかな声音と共に通話が切られる。そして、その言葉に背中を押されるように私はリビングから飛び出した。


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