「おはよう、蓮二。」


カーテンから柔らかい朝の陽射しが私達に届いて朝を知らせる。気温が少しずつ少しずつ上がってきたようだ。ぽかぽかとした温かさが布団の中の私にまで伝わってくる。
ああでもそれは背中に伝わる彼の温もりのせいだろうか。寝起きのぼんやりとした頭では思考回路はまともに繋がっていなくて。
隣で眠る彼にそっと朝を教えれば腰に回る手により一層の力を込められくぐもった声の「おはよう。」が帰ってきた月曜日の午前6時。

未だに腰周りを離れる気が無いらしい蓮二の腕をなんの躊躇いもなく外し取り敢えず顔を洗おうと洗面台へ向かう。寝起きはどうにも目が開かないし頭がぼんやりして仕方が無い。
あの時から数ヶ月、片時さえも離れるのが怖かった期間があった。少し連絡が取れなくなれば返事が返ってくるまで何度も何度でもメールを送ったし電話を鳴らした。蓮二はそれをいつも怒りもせずに直ぐに電話を取れなかったことを謝り「大丈夫だ。」と優しく囁いてくれていた。
それから数年という時が流れ、漸くこの関係にも落ち着きを持てるようになってきた。自分から蓮二の元を離れることが出来るようになっていることが何よりの証拠だ。
さて、今日は朝から講義の入っている彼のために朝ごはんを作ろう。
洗顔をしてふかふかのタオルに顔を埋めながら今朝の献立について思考は動き始めていた。


「いただきます。」
「召し上がれ。」


顔を洗い、ラフな私服に着替えを済ませたレンジがリビングのテーブルにつき既に用意されている湯気が立つほかほかのご飯に手を合わせる。
私は蓮二が一口ご飯を口に運ぶのを待ってから手を合わせ小さくいただきますと呟く日課。
大学生になり、蓮二が一人暮らしを始め、こうして時々蓮二の家に通うようになってたから朝ごはんを作るようになった。一人だとトーストで済ませるようだけど、蓮二といる時は真っ白い炊きたてのご飯に、鮭に、だし巻き卵とお味噌汁とおひたしとぬか漬けと。勿論彼の好みの薄味で。この生活ももう一年続いている。


「もう春だね。」
「そうだな。」


大根のお味噌汁を啜りながら、窓の向こう側に根を張り大きく枝を伸ばす桜の木を眺めながらそう思った。
濃い茶色の枝の先にはぽつりぽつりと蕾が色をつけ始めている。きっとそのうちにその蕾が弾け淡い桃色の花でわたし達の目を楽しませてくれることだろう。
今年も去年のようにバルコニーに出て蓮二と二人お花見をしたい。美味しいお弁当を作って、蓮二と私の大好きなおかずを沢山詰め込んで、桜餅は商店街で評判の和菓子屋さんで用意しようか。自分で作るのは少し難しいだろうか。
やりたいことは山ほどあるんだ。


「よく、ここまで来たよね。」
「花見までに弁当箱を新調するか。」
「痛かった?」


唐突にそう問うてみれば、蓮二はなんのことかと鮭に伸ばしていた箸をとめ、こちらを見詰めた。
それから数秒、ああ、そういうことかともう一度ほろりほろりと鮭をほぐし始める。紅色の身がほろけてゆく。
そう言えば、鮭は赤身魚ではなく白身魚でこの淡い紅色は鮭が海を回遊している時、オキアミなどのプランクトンを食べ、そのプランクトンが食べる藻からの影響を受けているのだと教えられた。
要は食物連鎖の結果だと。


「痛みは感じなかった。気づいた時には死んでいたんだろうな。」
「あっ、なんか思い出したらムカついてきた。」


あの時蓮二は確かに私を置いていこうとしたのだ。
私の気持ちも何もかもを無視して自分の思う最善だけを優先しようとした。泣き喚いた日々を全て無に返そうとした。あの時のことを思い出したら胃から頭にかけてむかむかしてきて仕方がない。あんなに弱い蓮二を見たのは初めてだったけれど、それでもこの怒りを忘れる日なんていうのは今後一生、それこそ死ぬまで。いや、死んでからだって忘れてやることはない。
辛くて辛くて、それでも、ここまでこうしてもう一度進むことが出来た。
二人で一緒に。


「だからあの後殴っていいと言っただろう。そしてお前も躊躇いなく俺の頬に拳をきめて納得したはずだ。」
「納得なんて一生しない。あの一発でその場を収めてあげただけでしょうよ。」
「…今日の講義は午後からだったな。」
「うん。」
「迎えに行く。帰りに美味しいものでも食べよう。何にするか考えておけ。」


これは私のご機嫌取りに走ったな、なんて思いながらも簡単に踊らされてる私。だって蓮二の紹介してくれるごはんやさんに今までハズレはなかったから。
それに、大学の入口で私を待ってくれている蓮二の姿が大好きだから。ちゃんと、どこにも行かずに、私だけを待っててくれているあの姿が。
酷く安心する。


「ごちそうさま。」
「お粗末さま。」


蓮二が使い終わった食器をかしゃりかしゃりと小さな音を立てながら重ねていく。私が使ったものもまとめて。それを流しに置いて軽く水で流す。
夜は何を食べようか。お蕎麦なんていいかもしれない。
そろそろ家を出ようとリュックサックを背負った彼を見ながら天ぷらもつけたら最高だななんて考える。
左手の薬指にはまった指輪は何年も前から変わらない。それは私の指にも当然。


「忘れ物はない?」
「大丈夫だ。」
「そう。」


玄関まで続く廊下をゆったりと歩きながらそんな他愛もない会話をするこの瞬間がかけがえもない程に素敵な時間なんだと気づいたのは幸せなことだ。
この瞬間が幸せで仕方ない。
スニーカーを履く彼の後ろに立ちながら、その横に並んだ私のスニーカーに幸せな気持ちになる。
もう春だね。
二人で土手を歩きたいな。きっと柔らかな色と、陽射しと、香りが、私たちを取り巻いて時間が優しく進むんだよ。
ねえ。


「いってらっしゃい。」


もう、春だね。


「いってきます。」



(あの色は何度でも咲き誇るよ)












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