三題噺風
お題…月、眼鏡、肌寒い
最近、朝晩がとても冷え込むようになってきた。
久しぶりに忙しくて、疲れを取るのと暖まるために、いつもより長くゆっくりと湯船に浸かった。
そのせいか、火照りを感じていた俺は、風呂上がりになんとなくベランダへと出た。
まだ幾分か濡れている髪を、首にかけているタオルで拭きながら空を見上げると、どこまでも続きそうな闇色に白く輝く月が浮かんでいた。
「…どれだけ天が遠くとて、その頂では明るく優しく、そしてどこか儚げに月が輝く。いつしか心が休まり、不安な夜も安息な時間へと移ろいゆく。
…嗚呼、月が綺麗ですね。
…こんな文、どうかなー?」
突然、後ろから声が聞こえたけど驚く理由はまったくない。
それもそのはず、この家に住むのは俺と結婚を約束した彼女だけだからだ。
「いいんじゃない?
どういう設定のつもり?」
「んー、日本だけど現代ではないかな。
あとテーマなんかは身分差の恋って感じ」
扉を閉め俺の隣に立った彼女は、眼鏡を拭くと同じように空を見上げた。
「さっきの文中に有名な言葉があったんだけどさー、精市君は知ってる?」
「確か“月が綺麗ですね”だよね。
誰のだったかは覚えてないけど」
俺の解答を聞くと、目を細め嬉しそう頷く。
「当たりー。これはかの文豪の夏目漱石が『I love you.』を『月が綺麗ですね。』と訳した、っていう有名な話だよね。…まぁ、知らない人もいるみたいだけど」
「夏目漱石か…」
何の前触れもなく、ぷつりと会話が途切れ沈黙が流れる。
ちらりと横を見ると、彼女は細く白い人差し指を唇に当て、何処か遠くを見ていた。
こういうとき、彼女は決まって何か考え事をしている。
邪魔するのは悪いけど、少し風が吹いてきた。
「ほら、夜は冷えるから中に入ろう。風邪をひいちゃうだろ」
彼女の服の袖を引っ張ると、ゆるりと顔がこちらに向く。
彼女はいつものふにゃりとした笑顔ではなく、大人びた笑顔を浮かべていた。
「…ねぇ、精市君。夏目漱石は『月が綺麗ですね。』二葉亭四迷は『私、死んでもいいわ。』なんて訳したの。
きっと、もっと違った訳をする人もいると思うんだ。
…精市君なら、なんて訳す?」
突然、彼女に問いかけられる。
しばらく考え、俺なりの答えを口にする。
「離れたくても離してなんかやらない、かな…」
「なんか、精市君らしいね。
…私もね、私ならどんなふうに訳して、どんなふうに相手伝えようって考えてみたの。
けど、どんなに考えても、私は訳せなかったの。
おかしい話だよね。言葉でたくさんの物語を紡いでく仕事をしてるのにさ。
…だから私、思ったの。言葉なんかじゃ伝えられきれないことなんてたくさんある。だから、私は行動で伝えたい」
体ごとこちらへと向き、向き合うような形になる。
一歩踏み出し、彼女はぎりぎりまで背伸びをして、それでも届かないから襟を引っ張って、俺にキスをした。
月光セレナーデ
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