「………」

10時、私は家にいた。
どうしても行けずにいた。行くのが怖かった。
日に日に私の中を侵食していく彼が怖い。
昨日あれから眠ったものの、寝る前に考えたことが原因だったのかもしれない。延々に過去の記憶の上映会だった。お蔭さまで見事な寝不足だ。

仁王くんはなんだかんだ言って優しい。
でも。

あの時みたいに、裏切られたら。
私は一体、どうなるんだろう。

考えただけで体が震えた。脳裏に幼い私が過ぎる。まだ、愛を信じてた頃の、私。今思えばなんて純粋だったのだろう。母の言葉にも父の言葉にも頷いていたあの頃。帰って来てくれると信じてた。一緒に居てくれると信じてた。
結局、どちらも裏切られてしまったけれど。

ああ、そうだ。思い出した。
彼との関係は、裏切られるとかそうじゃないとか、それ以前の関係だった。
最初から、お互い好きでも無かった。向こうが興味を持ったから、ただそれだけ。興味が無くなることは裏切ることじゃない。
私と彼に、そんな関係は無い。

そう思ったら、なんだか無性に悲しくなった。
一緒に居てみたけれど、やっぱりそこに意味は無かったのかな。

ぼーっとしてると、携帯が震えた。画面には『仁王 雅治』の文字。
ああ、痺れでも切らしたかな。
時計を見ると、もうお昼近かった。

伸ばしかけた手を止めた。
電話に出て、仁王くんに何て言われるんだろう。彼の苛立った声を聞くのが怖かった。
バイブが音を立てる中、私はベッドに潜り込んだ。



「ん………」
時計を見ると、1時前だった。あまり長い時間は寝ていなかったようだ。
携帯がチカチカと光っていたので、手に取る。開くと、1件の着信と留守番電話。もちろん全部仁王くんからで、留守番電話はつい20分前のものだった。
留守番電話くらいなら、と私は携帯を耳に当てた。女の人の声がしてから、機械音が鳴る。

「仁王じゃ。今からお前さんの家に行く」

それだけ。プッ、と切れて再び女の人が、電話がかかってきた時刻を告げていた。
けれど、それどころではない。今から仁王くんが家に来るって?あれ、そもそもあの人私の家知ってるの?…そういや、ちょっと前家がどこにあるのかざっくりだけど話した気がする。かなり曖昧だった気がするけど、仁王くんなら検討をつけることくらい造作もなかったのかもしれない。

一人でぐるぐると頭を悩ませる私に追い打ちをかけるように電話が鳴る。

まさか、と思いこっそり窓を覗く。
…覗いたはずだったのだが。
玄関前に立っている仁王くんとばっちり目が合ってしまった。これで携帯シカトはもう無理だろう。私は諦めて電話を取った。

「…もしもし」
「…やっと出たか。まぁ、あそこまでばっちり目が合ったら、ごまかしようもないからのう」

良かったら上げてくれんか、と彼は言った。



「どうぞ」
「ん、ありがとう」

彼は紅茶を一口啜った。
それを見て、私も同じく口に含む。
そう、私は結局仁王くんを家に上げた。
私は黙ったまま。仁王くんも黙ったまま。部屋にはただ紅茶を啜る音だけが響いた。

「…何にも、聞かないんだね」

沈黙に堪えられなくて。気付けば私は言葉を紡いでいた。

「…だいたいの想像はつくからな」

無理に聞いたりはせんよ、と仁王くんは続けた。

「待ち合わせすっぽかしたのに、愛想とか、尽かさないの?」
「…お前さんは理由も無く約束を破るような奴じゃないからの」
「…そっか、ありがとう」

ありがとう、ともう一度呟いた。
あ、どうしよう、泣きそう。

「仁王くん、悪いんだけど」
「ああ、そろそろ帰る」

まるで私の言いたかったことがわかったみたいに、仁王くんは立ち上がって言った。
玄関まで見送りに行こうと、私は彼の後を追った。

「仁王くん」

屈んで靴を履く彼に声をかける。
私の方に首をねじって、どうした、と顔で問われる。

「…また、誘ってくれる?デート」



バタンと、ドアが閉まった音がした。
さっきの光景が脳裏に蘇る。
ああ、また誘う、と微笑みながら返してくれた彼の顔が。

私はもう一度閉まったドアに目を向ける。
涙で歪んだ視界に、ぼんやりと形だけが映った。

今まで散々ごまかそうとしたけれど。
ああ、もう。もう。

彼を恋い焦がれる気持ちは、ごまかせない。








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